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御岳信仰伝 ー分かつ御柱の行方ー  作者: ちとせ鶫
第1章 朝光の家

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8/33

第8話 朝光祭の前

祭りの前には、街の空気が少しだけ変わる。

光の色も、人の歩き方も、朝の匂いも、

どこか輪郭が薄くなって、

静かに何かが寄ってくる気配がある。

朝比奈の剣が向かう先と、

川のほうから戻ってくる気配が、

まだ言葉にならないまま揺れている。

そんな話。

> ——東御岳 朝光祭 神楽歌 抄(原本焼失、写本のみ現存。一部判読不能)

>

> 朝日さす尾根に剣を捧げよ、

> 光を呼べよ、記憶を照らせよ。

> ……(判読不能)……

> 二本の木の影、ひとつになる朝、

> 神は目覚め、川は——

> ……(以下欠落)


     * * *


 東御岳の街が、少しずつ変わっていく。


 祭りの十日前から、参道に提灯が下がり始める。

 東の灯は、紙の地が胡粉ごふんのように白く、

 そこに浮かぶ模様は消金けしきんの鈍い輝きを放っている。

 朝の光を閉じ込めたようなその色は、

 夜が更けるに従って黄蘗きはだから柿色かきいろへと深まり、

 参道全体を、まるで神域の記憶を溶かし出したかのような、

 たゆたう琥珀こはくとばりで満たしていく。

 

 豆腐屋のおじさんが店の軒先に小さな提灯をかけ、

 鍛冶屋がいつもより早く窓を開けて外の空気を入れる。

 参道を掃く老人の箒の動きが、心なしかゆったりしてくる。

 神社の石段に沿って榊が飾られ、朝の空気に青い香りが混じるようになる。


 東御岳の住人にとって朝光祭は、一年の中心だ。


 生の祭りだ、と大人たちは言う。

 光が戻ってくる日。

 若御魂が目を覚ます夜。


 直継には子どもの頃からその言葉を聞いてきたが、

 実感として「光が戻る」とはどういうことなのか、よくわからない。


 毎日光はある。

 東の尾根に朝日は登る。

 それでも毎年この祭りをやる。

 そして毎年終わると、大人たちは「よかった」と言う。

 何がよかったのか、直継には完全にはわからない。


 もちろん直継もそれはわかっている。

 生まれてから十六年、欠かさず見てきた。

 舞を奉納するようになって三年だから、それ以前は見る側だった。


 見る側のときは単純に好きだった。

 夜明けの尾根、空が白から橙に変わる瞬間、剣技の舞が始まる。

 光と刃が交わる様子は、見ていて胸が高鳴った。


 舞台に立つ奉納者の背筋が、

 夜と朝を分かつ鋭利な境界線へと吸い込まれていく。  

 その肉体が人間という個の輪郭を失い、

 空の色彩そのものに溶けてゆく様を前に、

 私はただ、息を呑むことしかできなかった。


 自分がやる側になってからは、それが少し変わった。

 好きかどうか、という次元ではなくなった。


 型が正確かどうか、

 剣先が揺れていないか、

 呼吸の乱れが出ていないか、

 そういうことだけを考えながら舞うようになった。

 空の色を見る余裕がない。

 それが良いことなのか悪いことなのか、まだわからない。


 今年は特に、落ち着かない。


 稽古の後、改めて神社の境内に行った。

 舞台となる尾根の広場で、宮司と数人の氏子が打ち合わせをしていた。

 直継の父も混じっていた。


 広場の石畳には、

 今年の朝光祭のために用意された白木の台座が据えられている。

 舞台の中央に、直継が立つ場所だ。

 本番では松明が周囲に立てられ、

 剣が反射する光が客席まで届く設計になっている。


「直継」と父が呼んだ。「リハーサルをやっておけ。一人でいい」


 直継は頷いて、広場の中央に立った。


 朝光祭での剣技の舞は、道場での稽古とは少し違う。

 道場は屋根があり壁がある。

 広場は空が全部見える。

 足元の感触も、板と石畳とでは違う。

 それに、光の当たり方が変わる。

 夜明けの光が剣に当たると、道場では再現できない軌跡が生まれる。

 何度やっても、本番の光だけは稽古で代わりにならない。

 それが奉納の舞の難しさだ、と父は言っていた。


 型を始めた。


 朝光の型。

 双閃の型。

 陽炎返し。


 三つまでは問題なかった。

 体が温まって、動きが滑らかになってくる。

 息が整ってくる。

 二本の小太刀が空気を割る音が、広場の石畳に反射して戻ってくる。

 道場ではそれが板壁に吸い込まれるが、

 ここでは広い空間の中に広がってから返ってくる。

 その差が、少し気持ちよかった。


 御柱の型に入ったとき、右の剣先が止まった。


 止まった、というより——引かれた、という感覚に近かった。

 川のほうへ。

 今朝の稽古のときと同じ方向だ。

 道場から見た川の方向と、

 ここ尾根の広場から見た川の方向は少し違うが、

 確かに川がある方角だった。


 直継は剣先を戻した。


 型を再開する。

 払い上げ、

 薙ぎ、

 突き、

 巻き。

 全部で十八手。

 最後の十八手目、

 右の小太刀を高く上げる動作で、また引かれた。


 今度は逆らわずに、そちらへ向け切っ先を流してみた。


 川の方向に向けた剣先が、朝の光を受けた。


 その瞬間、何かが見えた。

 剣先の先の空中に、一瞬だけ、光の屈折のようなものが走った。

 陽炎でも霞でもない。

 もっと直線的な、細い揺らぎ。

 線が一本、川の方向へ向かって伸びていくように見えた。

 それは一秒もしないうちに消えた。

 でも確かに見えた。


「何をやっている」


 父の声が来た。直継はすぐに剣先を戻した。


 振り向くと、父が境内の端から見ていた。

 宮司との話が終わったのか、いつから見ていたかわからない。


「川のほうへ剣を向けているのが見えた」

「......すみません。剣先が流れました」

「本番ではやるなよ」

「はい」


 父の視線が長かった。

 叱責というより、何かを確かめるような目だった。

 その目が直継を捉えたまま、少しの間動かなかった。

 広場の外から、神社の準備をする人たちの声が聞こえる。

 それだけが動いていた。


「直継」

「はい」

「剣が川へ向きたがっているか」


 直継は答えを探した。「流れた、というより」と慎重に続けた。

「引かれる気がします」

「今年が初めてか」

「はい。稽古中も今も、同じ感じがします」


 父は視線を下げた。

 石畳を見ている。

 それから顔を上げて、「続けろ」とだけ言った。何かを知っている、

 あるいは何かを考えている、

 その顔だったが、それ以上は何も言わなかった。

 宮司のほうへ戻っていく後ろ姿を、直継はしばらく見ていた。


 直継は御柱の型を最初からやり直した。

 今度は剣先を東の尾根に向けることだけを考えた。

 川のことは考えなかった。


 型は通った。


 でも、十八手目の右の払い上げのとき、

 剣先は確かに川のほうへ引かれていた。

 今度は逆らったから、筋肉に微かな抵抗が残った。

 逆らうために力を使った、という証拠が腕に残る。

 

 それが嫌だった。

 型の中に余計な力が混じっている。

 それは舞ではない、と父に言われたことがある。


 夕方まで稽古をして、坂を下りた。

 今日は部室には寄らなかった。

 なんとなく、今日はまだ早い気がした。

 理由は言えない。


 ただ、今日の稽古で起きたことが、まだ頭の中で定まっていなかった。

 定まらないまま静馬の前に立つのは、何か違う気がした。

祭りの準備が整っていくほどに、

直継の中の“揺らぎ”もまた形を持ち始める。

剣先が向きたがる方向、

父の沈黙、

川のほうに走った細い揺らぎ。

どれもまだ理由にはならないけれど、

理由にならないものほど、

後になって重さを持つことがある。

静かに続けていきます。

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