第8話 朝光祭の前
祭りの前には、街の空気が少しだけ変わる。
光の色も、人の歩き方も、朝の匂いも、
どこか輪郭が薄くなって、
静かに何かが寄ってくる気配がある。
朝比奈の剣が向かう先と、
川のほうから戻ってくる気配が、
まだ言葉にならないまま揺れている。
そんな話。
> ——東御岳 朝光祭 神楽歌 抄(原本焼失、写本のみ現存。一部判読不能)
>
> 朝日さす尾根に剣を捧げよ、
> 光を呼べよ、記憶を照らせよ。
> ……(判読不能)……
> 二本の木の影、ひとつになる朝、
> 神は目覚め、川は——
> ……(以下欠落)
* * *
東御岳の街が、少しずつ変わっていく。
祭りの十日前から、参道に提灯が下がり始める。
東の灯は、紙の地が胡粉のように白く、
そこに浮かぶ模様は消金の鈍い輝きを放っている。
朝の光を閉じ込めたようなその色は、
夜が更けるに従って黄蘗から柿色へと深まり、
参道全体を、まるで神域の記憶を溶かし出したかのような、
たゆたう琥珀の帳で満たしていく。
豆腐屋のおじさんが店の軒先に小さな提灯をかけ、
鍛冶屋がいつもより早く窓を開けて外の空気を入れる。
参道を掃く老人の箒の動きが、心なしかゆったりしてくる。
神社の石段に沿って榊が飾られ、朝の空気に青い香りが混じるようになる。
東御岳の住人にとって朝光祭は、一年の中心だ。
生の祭りだ、と大人たちは言う。
光が戻ってくる日。
若御魂が目を覚ます夜。
直継には子どもの頃からその言葉を聞いてきたが、
実感として「光が戻る」とはどういうことなのか、よくわからない。
毎日光はある。
東の尾根に朝日は登る。
それでも毎年この祭りをやる。
そして毎年終わると、大人たちは「よかった」と言う。
何がよかったのか、直継には完全にはわからない。
もちろん直継もそれはわかっている。
生まれてから十六年、欠かさず見てきた。
舞を奉納するようになって三年だから、それ以前は見る側だった。
見る側のときは単純に好きだった。
夜明けの尾根、空が白から橙に変わる瞬間、剣技の舞が始まる。
光と刃が交わる様子は、見ていて胸が高鳴った。
舞台に立つ奉納者の背筋が、
夜と朝を分かつ鋭利な境界線へと吸い込まれていく。
その肉体が人間という個の輪郭を失い、
空の色彩そのものに溶けてゆく様を前に、
私はただ、息を呑むことしかできなかった。
自分がやる側になってからは、それが少し変わった。
好きかどうか、という次元ではなくなった。
型が正確かどうか、
剣先が揺れていないか、
呼吸の乱れが出ていないか、
そういうことだけを考えながら舞うようになった。
空の色を見る余裕がない。
それが良いことなのか悪いことなのか、まだわからない。
今年は特に、落ち着かない。
稽古の後、改めて神社の境内に行った。
舞台となる尾根の広場で、宮司と数人の氏子が打ち合わせをしていた。
直継の父も混じっていた。
広場の石畳には、
今年の朝光祭のために用意された白木の台座が据えられている。
舞台の中央に、直継が立つ場所だ。
本番では松明が周囲に立てられ、
剣が反射する光が客席まで届く設計になっている。
「直継」と父が呼んだ。「リハーサルをやっておけ。一人でいい」
直継は頷いて、広場の中央に立った。
朝光祭での剣技の舞は、道場での稽古とは少し違う。
道場は屋根があり壁がある。
広場は空が全部見える。
足元の感触も、板と石畳とでは違う。
それに、光の当たり方が変わる。
夜明けの光が剣に当たると、道場では再現できない軌跡が生まれる。
何度やっても、本番の光だけは稽古で代わりにならない。
それが奉納の舞の難しさだ、と父は言っていた。
型を始めた。
朝光の型。
双閃の型。
陽炎返し。
三つまでは問題なかった。
体が温まって、動きが滑らかになってくる。
息が整ってくる。
二本の小太刀が空気を割る音が、広場の石畳に反射して戻ってくる。
道場ではそれが板壁に吸い込まれるが、
ここでは広い空間の中に広がってから返ってくる。
その差が、少し気持ちよかった。
御柱の型に入ったとき、右の剣先が止まった。
止まった、というより——引かれた、という感覚に近かった。
川のほうへ。
今朝の稽古のときと同じ方向だ。
道場から見た川の方向と、
ここ尾根の広場から見た川の方向は少し違うが、
確かに川がある方角だった。
直継は剣先を戻した。
型を再開する。
払い上げ、
薙ぎ、
突き、
巻き。
全部で十八手。
最後の十八手目、
右の小太刀を高く上げる動作で、また引かれた。
今度は逆らわずに、そちらへ向け切っ先を流してみた。
川の方向に向けた剣先が、朝の光を受けた。
その瞬間、何かが見えた。
剣先の先の空中に、一瞬だけ、光の屈折のようなものが走った。
陽炎でも霞でもない。
もっと直線的な、細い揺らぎ。
線が一本、川の方向へ向かって伸びていくように見えた。
それは一秒もしないうちに消えた。
でも確かに見えた。
「何をやっている」
父の声が来た。直継はすぐに剣先を戻した。
振り向くと、父が境内の端から見ていた。
宮司との話が終わったのか、いつから見ていたかわからない。
「川のほうへ剣を向けているのが見えた」
「......すみません。剣先が流れました」
「本番ではやるなよ」
「はい」
父の視線が長かった。
叱責というより、何かを確かめるような目だった。
その目が直継を捉えたまま、少しの間動かなかった。
広場の外から、神社の準備をする人たちの声が聞こえる。
それだけが動いていた。
「直継」
「はい」
「剣が川へ向きたがっているか」
直継は答えを探した。「流れた、というより」と慎重に続けた。
「引かれる気がします」
「今年が初めてか」
「はい。稽古中も今も、同じ感じがします」
父は視線を下げた。
石畳を見ている。
それから顔を上げて、「続けろ」とだけ言った。何かを知っている、
あるいは何かを考えている、
その顔だったが、それ以上は何も言わなかった。
宮司のほうへ戻っていく後ろ姿を、直継はしばらく見ていた。
直継は御柱の型を最初からやり直した。
今度は剣先を東の尾根に向けることだけを考えた。
川のことは考えなかった。
型は通った。
でも、十八手目の右の払い上げのとき、
剣先は確かに川のほうへ引かれていた。
今度は逆らったから、筋肉に微かな抵抗が残った。
逆らうために力を使った、という証拠が腕に残る。
それが嫌だった。
型の中に余計な力が混じっている。
それは舞ではない、と父に言われたことがある。
夕方まで稽古をして、坂を下りた。
今日は部室には寄らなかった。
なんとなく、今日はまだ早い気がした。
理由は言えない。
ただ、今日の稽古で起きたことが、まだ頭の中で定まっていなかった。
定まらないまま静馬の前に立つのは、何か違う気がした。
祭りの準備が整っていくほどに、
直継の中の“揺らぎ”もまた形を持ち始める。
剣先が向きたがる方向、
父の沈黙、
川のほうに走った細い揺らぎ。
どれもまだ理由にはならないけれど、
理由にならないものほど、
後になって重さを持つことがある。
静かに続けていきます。




