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御岳信仰伝 ー分かつ御柱の行方ー  作者: ちとせ鶫
第1章 朝光の家

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第7話 朝比奈家の歴史

家の記録というものは、読むたびに距離が変わる。

近づいたと思えば遠ざかり、触れたと思えば沈んでいく。

朝比奈家の由緒書は、その揺らぎがとりわけ強い。

書かれていることより、書かれていないことのほうが、

静かに部屋の空気を冷やす。

今日は、その“空白”に触れる話。

> ——東御岳 朝光祭 神楽歌 抄(原本焼失、写本のみ現存。一部判読不能)

>

> 朝日さす尾根に剣を捧げよ、

> 光を呼べよ、記憶を照らせよ。

> ……(判読不能)……

> 二本の木の影、ひとつになる朝、

> 神は目覚め、川は——

> ……(以下欠落)


     * * *


 朝比奈家の由緒書は、仏間の奥の棚の一番上にある。


 巻物でも帖でもなく、

 横書きの和紙を和綴じにしたもので、

 表紙に「朝比奈家由緒 附 剣技の舞伝承 全」と墨で書かれている。


 いつ書かれたものなのか、奥付には日付がない。

 紙の色と墨の滲み方から、それなりに古いものだとわかる程度だ。

 表紙の右下に、朱色で小さな印が押してある。

 印の文字は判読できない。

 直継はそれが何なのか一度も聞いたことがない。


 直継がこれを初めて読んだのは十二歳のときだった。

 「そろそろ読んでおけ」と父が棚から下ろしてくれた。

 父が立ったまま自分に手渡したとき、渡し方がどこかぎこちなかった。

 物を渡す動作ではなく、何かを手放す動作のように見えた。


 気のせいかもしれない。

 そのときは特に確かめなかった。


 由緒書の最初は、朝比奈家の来歴だ。

 もとは東の尾根に居を構えた武家で、

 御岳神の若御魂——生と光を司る神格——を守る役割を代々担ってきた、

 と書いてある。


 剣技の舞は「若御魂を呼び覚ます儀式」であり、単なる武芸の演武ではない。

 毎年の朝光祭で舞を奉納することにより、東の生気を更新する。

 それが朝比奈家の存在理由だ、と書かれている。


 朝比奈の「直」という字は「直線・真っ直ぐ・一点の曇りなし」を意味し、

 「継」は「継承・繋ぎ・途切れさせてはならない血の重さ」を宿す、

 と由緒書の末尾に書き添えてある。


 その一行だけが、他と比べて明らかに新しい筆跡だった。

 誰かが後から書き足したのがわかる。

 直継は自分の名前を見るたびに、その一行を読む。

 読むたびに少し、重くなる。


 武家らしく、淡々と事実だけが書かれている。

 感情的な表現がほとんどない。


 朝比奈家は何年に東御岳に移り住んだ。

 何年に道場を建てた。

 何年に朝光祭の正式な奉納家として認定された。


 その後は代々の当主の名と、特記すべき出来事が簡潔に続く。

 子が生まれた。

 当主が没した。

 道場を改修した。

 その繰り返しが、淡々と続く。


 記録を読んでいると、

 朝比奈家の人間がどんな顔をしていたのか、

 何を考えていたのか、まったく見えてこない。


 事実だけが残っている。

 個人は消えている。

 これが武家の書き方なのか、

 意図的に消したのかは、直継にはわからない。


 でもどちらにしても、由緒書を読んで「朝比奈家の人間」に近づいた気はしない。 

 むしろ遠くなる気がする。

 自分もいつかこの淡々とした記録に一行加えられ、

 消えるのだ、という予感がある。


 直継はいつも、その中ほどにある一箇所で目が止まる。


 記録の中に、三十数ページにわたって、明らかな欠落がある。


 ページは抜かれていない。

 紙が破られたわけでもない。

 ただ、ある当主の名前の後の記述が、

 途中から別の書き手による文字に変わっている。

 

 以前の書き手は几帳面な楷書で書かれているが、

 別の書き手による部分は、少し筆圧が落ちたような、細めの字だ。

 その移行部分で何十年かの記録がすっぽり抜けている。

 

 当主の名と生没年は書かれているが、

 その間に何が起きたのか、何も書かれていない。


 前後の記述を読み比べると、

 まるで空白の数十年が存在しなかったかのように、

 淡々と「次代の当主の名」へ移行している。


 ページの裏を透かして見ると、消された痕があった。


 直継が初めてそれに気づいたのは、二度目に読んだときだった。

 灯りに当てると、うっすらと文字の形が見える。

 何と書いてあるかは、読めない。

 書いて、

 黒く塗りつぶして、

 さらに上から薄紙を貼って隠した、そういう手順に見えた。

 一度だけでなく、何度も重ねて隠したように見える。

 そこに書かれていたことを、誰かが何度も消そうとした気配がある。


 父に聞いたことがある。「あの空白は何か」と。


 父は由緒書を受け取って、その箇所を一度見てから、「古い話だ」と言った。


「古いのはわかるけど......」

「書かれていないことは知らなくていい」


 続きは語ってくれなかった。

 語気は強くなかった。

 怒っているわけでも、慌てているわけでもなかった。

 ただ静かに、線を引いた。

 この先は踏み込まなくていい、という線を。

 それが余計に気になった。

 大声で「言えない」と言われるより、

 静かに「知らなくていい」と言われるほうが、引っかかりが残る。


 母に聞いたことはない。

 母は朝比奈家の出ではなく、この家の由緒については詳しくないと言っていた。

 嘘をついているとは思わない。

 ただ、「詳しくない」と「知っていて言わない」の境界が、

 このあたりでは案外あいまいだ、と直継はなんとなく思っている。


 仏間は朝の光が入りにくい。

 北向きだからだ。

 東御岳のほとんどの家は南か東に向けて広間を作るが、

 仏間だけは北か西に置く慣わしがある。


 生に関わるものは光の側に、

 死に近いものは影の側に、

 という考え方が東御岳にはある。


 由緒書がこの棚に置かれていること自体、少し変だと直継は思ったことがある。

 生の記録が、影の部屋に。


 今日も由緒書を開いた。


 朝光祭の前になると、毎年確認する習慣がある。

 型の手順が書いてあるわけではない。

 書いてある内容は毎年同じだ。

 何かが変わっているわけではない。それでも読む。

 なぜ読むのか、自分でも正確にはわからない。

 確認したいものがある、というよりも、

 何かが変わっていないことを確かめたい気持ちに近い。


 欠落のページまで来ると、直継はそこで手を止める。


 今年は、その手前のページに書かれた一行が目に入った。


 見落としていたのか、

 以前は気にならなかったのか、

 わからない。


 他の箇所と比べて、少し字が大きかった。

 力を込めて書いた、あるいは書いた人間がそこだけ緊張した、

 そういう感じがある。


「若御魂の剣は、川に向けてはならない」


 文脈から見ると、剣技の舞の注意書きの一つとして書かれたものらしかった。

 他にもいくつかの「してはならないこと」が列記されていて、

 その中の一つだ。


「稽古中に他者の剣に触れるな」

「型を途中で止めるな」

「朝光の型は東の尾根に向かって行え」


 そうした実技的な注意書きの流れの中に、その一行がある。


 直継はその一行を、もう一度読んだ。


 川に向けてはならない。


 今朝の稽古で、剣先が川のほうへ向いた。

 あの感覚を思い出した。

 向けようとしたわけではない。

 ただ、向いていた。

 力が働いているような、引き寄せられているような。


 由緒書がそれを禁じているということは、

 誰かが過去に同じ経験をしたということかもしれない。

 向いてしまったから、「向けてはならない」と書いた。

 そして、その理由を、欠落のページと一緒に消した。


 由緒書を閉じた。


 薄暗い仏間に、光がわずかに入っていた。

 北向きの窓から入る、朝の余光だ。

 由緒書の表紙の朱印が、その光の中でうっすらと浮かんで見えた。

 静止した時の中に、一滴だけ鮮烈な朱が落とされたように。

 その場所だけが世界の色彩を拒絶し、

 歪に、けれどあまりにも美しく、確かな存在を主張していた。


 なんとなく、昼間、部室に顔を出してみようか、と思った。

 理由は特にない。


 そこに静馬がいて、

 資料があって、

 何かがわかるかもしれない、という気持ちだった。


 漠然とした、というのは言い訳で、

 本当は引っかかっていた。


 川のことが。

 剣先のことが。

 欠落のことが。

記録は事実を並べているようでいて、

本当に残したかったものほど、そこには書かれない。

消された跡、貼り重ねた薄紙、言葉の向こうの沈黙。

直継が見たのは、朝比奈家の歴史ではなく、

朝比奈家が“隠したかった時間”だったのかもしれない。

静かに続けていきます。

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