第32話 それでも……
翌日、静馬は部室に早く来ていた。
直継と柚羽が来ると、静馬はすでに作業台の前に座っていた。
巻物は出ていなかった。昨夜閉じた状態のまま、棚の端に置いてあった。
作業台の上には何もなかった。
「話があります」と静馬は言った。
二人が席に着いた。
* * *
静馬は話した。
「昨夜読んだ箇所のことです」と静馬は言った。「三本目の巻物の、最後の部分。三人で読んでいたとき、声に出さなかった箇所がありました」
直継は静馬を見た。
「代償は、水無瀬家だけではありませんでした」と静馬は言った。「三者それぞれへの代償が書いてあった」
「三者それぞれ」と柚羽は繰り返した。
「東の代は、剣の感覚を失う」と静馬は言った。「神の荒魂を封じるために使った力が、統合の完成とともに神へ還る。剣を持てなくなるわけではない。ただ、感覚が消える」
直継は少し間を置いた。
「西の代は、舞の感覚を失う」と静馬は続けた。「神の和魂を抑えるために使った力が、同じように還る。舞えなくなるわけではない。ただ——」
「感覚が消える」と柚羽は静馬の言葉を引き取った。
「そうです」
「水無瀬家は」と直継は言った。
「記憶の多くを失う」と静馬は言った。「神の痛みを通したことへの記憶が、神とともに流れ去る。私の場合は——祖父と同じことが起きる可能性がある。あるいは、それより多くを失うかもしれない。巻物にはそこまで書いていなかった」
部室が静かになった。
* * *
直継は作業台を見た。
剣の感覚を失う。影送り祭で剣先が川に向いたあの感覚。手の中で剣が生きているような感触。それが消える。消えたあとも剣は持てるが、あの感覚は戻らない。
それがどういうことか、少し考えた。
考えた末に、直継が出した答えは——想像していたより、落ち着いていた。失う前から、失ったあとのことを正確に想像はできない。ただ、今この部室にいることと、禁足地を見に行ったことと、静馬と柚羽と一緒に来たことは、感覚が消えても消えない。それは記憶だから。
「わかりました」と直継は言った。
静馬が直継を見た。
「昨日と答えは変わりません」と直継は言った。「知った上で言います。続けます」
* * *
柚羽は少しの間、黙っていた。
静馬が柚羽を見た。急かすでもなく、待っていた。
柚羽は指先を見ていた。膝の上で、いつもの癖で少し動いていた。舞のときの指先。稽古で何百回も動かしてきた指先。その感覚が消える、ということを、身体の中で確かめようとしているような動きだった。
「感覚が消えると」と柚羽はやがて言った。「舞は変わりますか」
「変わると思います」と静馬は言った。「感覚が消えた後の舞がどうなるかは、巻物には書いていなかった。うまくなるとも、下手になるとも言えない。ただ——今感じているものが、なくなる」
「神に届く感覚が」と柚羽は言った。
「そうです」
柚羽は指先の動きを止めた。
「やらない理由がない」と柚羽は言った。
昨日と同じ言葉だった。ただ、昨日とは少し違った。昨日は知らなかったから言えた言葉だったかもしれない。今日は知っていて言っている。同じ言葉が、今日は別の重さを持っていた。
「本当にそう思いますか」と静馬は言った。
「本当にそう思います」と柚羽は言った。迷いのない言い方だった。「感覚が消えることと、神が分かれたまま在り続けることを、天秤にかけました。今は、そちらのほうが重い」
「舞の感覚より」と直継は確認するように言った。
「そちらのほうが重い」と柚羽はもう一度言った。
* * *
静馬は二人を見た。
直継の顔。柚羽の顔。
最初に二人が部室に来たとき、静馬はまだ二人に話すべきかどうかを測っていた。どこまで話すか、いつ話すか、何を最初に言うか——管理していた。それがいつの間にか変わっていた。今は管理する気持ちがない。ただ二人の顔を見ていた。
「ありがとうございます」と静馬は言った。
直継が少し驚いた顔をした。静馬がそういう言葉を言うのは、珍しかった。
「礼を言うことじゃないですか」と直継は言った。
「そうかもしれません」と静馬は言った。「でも言いたかった」
柚羽は静馬を見た。何も言わなかった。ただ少し、目が和らいだ。
* * *
「日程を確認しましょう」と静馬は言った。
作業台の端に、昨日の計算が残っていた。御柱統祭まで十二日。潔斎の七日間を前に置くとすれば、五日以内に始めなければならない。
「今日から数えると」と直継は言った。
「明後日から潔斎を始めれば、祭りの前日に七日が終わります」と静馬は言った。「明後日でいいですか」
「いいです」と直継は言った。
「私も」と柚羽は言った。
「潔斎の間は」と静馬は言った。「食事の制限と、睡眠の時間の制限があります。詳しくは巻物の記述に従います。ただ、学校に来ることは問題ない。日常の範囲で行える形の潔斎です」
「七日間」と直継は言った。
「七日間」と静馬は確認した。
三人は少し黙った。
七日間の後に、御柱統祭の前日が来る。
川の水が最も静まる夜。東と西が同じ夜に火を焚く夜。
その夜に、三人は川の中央に立つ。
「準備することは他にありますか」と柚羽は聞いた。
「各自で確認したいことがあれば、今日と明日のうちに」と静馬は言った。「巻物はまだここにあります。読みたい部分があれば今日中に」
「直継さん」と柚羽は言った。「お父さんに話しますか」
直継は少し間を置いた。
「話しません」と直継は言った。「話したら、止められる。止められたくない」
柚羽は肯いた。「私も母には話しません」
「私も」と静馬は言った。「話せる相手がいるわけではないけれど」
三人は少し黙った。誰かに話さないまま、何かを抱えたまま、七日間を過ごす。そのことの重さを、三人がそれぞれの形で持った。
「明後日から」と直継は言った。
「明後日から」と静馬は言った。
柚羽は窓の外を見た。今日の空は曇っていた。
冬の空の色だった。川の音は、今日は遠かった。
「行きましょう」と柚羽は言った。立ち上がりながら言った。
「どこへ」と直継は聞いた。
「禁足地」と柚羽は言った。「今日、行っておきたい。潔斎が始まる前に、もう一度見ておきたい」
静馬は少し間を置いた。「橋から見るだけですか」
柚羽は静馬を見た。「入ります」と言った。「川の中に。今日は入ってみたい」
直継は柚羽を見た。
「接触禁止と書いてあった」と直継は言った。
「三人で揃えば近づける、と静馬さんが言いました」と柚羽は言った。「三人で行きます。入るかどうかはそこで決めます。でも、入るつもりで行きたい」
静馬は少し考えた。「わかりました」と言った。「三人で行きます」
部室の扉を開けた。廊下は静かだった。
三人で廊下を歩いた。校門を出た。川沿いの道を歩いた。今日の川は灰色だった。曇り空を映した、静かな灰色だった。
冬の川に、三人は向かっていた。




