第31話 代償の記述
直継と柚羽が帰ったあと、静馬は部室に残った。
残るつもりで残ったわけではなかった。
帰りかけて、棚の前で立ち止まった。
巻物がある。今夜読んでから明日話すと言った。
言ったからには、今夜読まなければならない。
作業台の椅子に座った。
窓の外が暗くなっていた。部室の電球は古くて、光が黄色い。その光の中で、静馬は三本目の巻物を再び広げた。
* * *
三本目の巻物の、一番最後の部分。
今日、三人で読んでいたとき、静馬はその部分を読んでいた。
声には出さなかった。
直継と柚羽が地図を確認している間に、目だけで読んでいた。
読んだとき、声に出せなかった。
今夜もう一度、ゆっくり読んだ。
「『儀式の後、三人は——』」
虫食いではなかった。墨が薄くなっていたが、読めた。読もうとすれば、読めた。
「『儀式の後、三人はそれぞれ失ふものあり』」
静馬は続きを読んだ。
「『東の代は、剣の感覚を失ふ。神の荒魂を封じたる力は、統合の完成とともに神へと還る。以後、東の者は剣を持てど、かつての感覚を知ることなし』」
電球の光が、少し揺れた。風ではなかった。建物の古さのせいだった。
「『西の代は、舞の感覚を失ふ。神の和魂を抑へたる力は、統合の完成とともに神へと還る。以後、西の者は舞を踊れど、かつての感覚を知ることなし』」
静馬は少し息を吐いた。
「『中の者は、記憶の多くを失ふ。神の痛みを通したる器としての記憶は、神とともに流れ去る。中の者の身に刻まれた神の記憶もまた、神へと還る』」
読み終えた。
これは簡単にはいかないとわかった。
* * *
静馬は巻物を見たまま、しばらく動かなかった。
電球が、また少し揺れた。
直継は剣の感覚を失う。柚羽は舞の感覚を失う。静馬は記憶を失う。それが統合の代償だった。
水無瀬家への代償は、第三話でも読んだ。「失ふほうが多い」という言葉も読んだ。でもそれは水無瀬家の話だった。今日読んだのは、三人全員の話だった。
「やらない理由がない」と柚羽は言った。
柚羽はこれを知らない。知らないまま、そう言った。
知っていたら、同じことを言うだろうか。静馬には、わからなかった。言うかもしれない。言わないかもしれない。柚羽という人間が、何を大切にしているかは、知っているようで、知り切れていない部分がある。
舞の感覚を失う、ということが柚羽にとって何を意味するか。
舞を踊れなくなるわけではない。動けなくなるわけではない。ただ、今まで感じてきた感覚——神に届く感覚、境界を動かす感覚——それがなくなる。それを柚羽はどう受け取るか。
直継のほうが、少し想像しやすかった。剣を持てなくなるわけではない。でも、祭りで剣先が川に向いたあの感覚が、消える。あの感覚を直継がどれくらい大切にしているかは、わからない。ただ、直継が剣を握るときの手の形を、静馬は見たことがあった。
* * *
明日、話さなければならない。
話してから、二人がどう決めるかは、二人が決める。第三章で「やめるなら今だ」と言った。第六話で「今年やるのか」と問われた。その積み重ねがある。でも今夜の話を聞いてから、改めて決め直してもいい。静馬はそう思っていた。
問題は、どう話すか、だった。
「統合の儀を行えば、剣の感覚も舞の感覚も失う。だからやめろ」と言いたいわけではなかった。言いたいのはそういうことではない。ただ、知った上で決めてほしかった。知らないまま失うのと、知って失うのは、同じではない。
静馬自身は、知っている。知っていて、来た。
来る前に、この巻物は読んでいた。全部ではなかったが、代償の部分は読んでいた。それでも来た。二人を呼んだ。二人が来たとき、すぐには言えなかった。言えなかったのは、怖かったからか、あるいは言うタイミングを計っていたからか。今でも正確にはわからない。
ただ、言わないまま儀式の日を迎えることは、できない。
それだけは、はっきりしていた。
* * *
静馬は巻物を閉じた。
ゆっくりと、丁寧に巻き直した。三本の巻物が並んだ。棚に戻すかどうか少し考えて、作業台の端に置いておくことにした。明日、また三人で見るかもしれない。
椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
部室の匂いがした。古紙と埃と、乾いた木材の匂い。最初に来たときからずっとある匂い。静馬にとっては、子供のころから知っている匂いだった。祖父がここに来ていた。祖父の祖父も、来ていたかもしれない。水無瀬家がこの部室を管理してきた長い時間が、この匂いに重なっていた。
「失ふほうが多い」と巻物には書いてあった。
祖父は失った。何を失ったかを知らないまま、失ったことだけを知っていた。
静馬は、明日失うものの名前を知っている。
それが、祖父よりましなことなのか、それとも余計につらいことなのか、まだわからなかった。
窓の外で、川の音がした。
今夜の川は静かだった。冬至が近いせいか、水量が落ちているのかもしれない。川が息を止めるような夜が、もうすぐ来る。
静馬は立ち上がった。電球を消した。
部室が暗くなった。
窓から、外の光がわずかに入ってきた。川のほうの空は、街灯もなく、少し暗かった。その暗さの中に、川がある。川の底に、根の跡がある。神が分かれたときの痛みが、今もそこに残っている。
明日、話す。
静馬は扉を閉めた。鍵をかけた。廊下に出ると、学校の建物の中は静かだった。秋からずっと、放課後のこの廊下を歩いてきた。直継が来た。柚羽が来た。三人で部室に来るのが当たり前になった。
それが変わるかどうかは、明日話してから決まる。
静馬は廊下を歩いた。川の音は、もう聞こえなかった。




