第23話 老婆の家
原本断片の帖は、読み解くのに時間がかかった。
崩し字の密度が高く、一段落ごとに立ち止まらなければならなかった。静馬が読み、直継と柚羽が聞いた。静馬が判読できない部分は、三人で首を傾げながら推測した。
その中に、一か所、気になる記述があった。
「この記録に証人あり」と静馬は読み上げた。「「中間の者の選定に際し、東西それぞれに見届け人を置きたり。いずれも口外を禁じ、しかれども記憶を保つべし——」その後が読めない。虫食いで」
「証人」と直継は言った。
「見届け人、ということです。水無瀬家が三者の儀式の実行者だったとき、東と西からそれぞれ一人ずつ、立会人がいた。その人たちが記憶を保つように指示されていた」
「今も生きていますか」と柚羽は言った。
「その儀式がいつ行われたかによります」と静馬は言った。「神が分かれたのが七十年以上前なら——当時の見届け人が生きているとすれば、九十代か百に近い年齢です」
「いないかもしれない」と直継は言った。
「可能性はあります」と静馬は言った。「ただ、記憶を保つように指示されていた。見届け人本人でなくても、記憶を伝えた人がいるかもしれない」
三人は少し黙った。
「調べてみます」と静馬は言った。「西側の古い家系で、神事に関わってきた家を探せば、何か出るかもしれない」
* * *
三日後、静馬が「一人、みつかりました」と言った。
西御岳の古い住宅街に、九十を過ぎた独り暮らしの老女がいる。霞沢の家とも、朝比奈の家とも、どちらにも属さない家系だが、先々代から神事の記録を保管してきた家だという。
「どうやって調べたんですか」と直継は聞いた。
「部室の整理で出てきた昔の神事記録に、名前がありました」と静馬は言った。「その家の名前が、神事の立会人として何度か出てきた。現在その家に誰が住んでいるか、という部分は——少し時間がかかりましたが」
「会いに行ってみませんか」と柚羽は言った。
「会ってみたいですね」と静馬は言った。「ただ、急に伺っても、話してくれるかどうかはわからない。記憶を保つように言われていた人なら、口外を禁じられている可能性も高い」
「それでも、行ってみるんでしょう?」と直継は言った。
静馬は少し間を置いた。「そうですね。行かないと、何もわかりません」
直継と柚羽は顔を見合わせた。
「行きましょう」と柚羽は言った。
* * *
西御岳の住宅街は、学校から歩いて二十分ほどかかった。
古い家が並んでいる区画だった。石垣と板塀が続く道。秋の午後で、日差しはあるが風が冷たかった。柚羽は慣れた道を歩くように迷わなかった。直継にとっては初めての通りだった。東側から西側のこの区画に来ることは、これまでなかった。
住所は、細い路地の奥だった。
路地に入ったところで、直継は立ち止まった。
黄色と黒のテープが、路地の入口に張られていた。
「なんだこれ......」と直継は言った。規制線が張られていてそのまま進めない。
三人が止まった。路地の奥の家の前に、制服を着た警察官が二人いた。近所の住民が二、三人、遠巻きに立っていた。救急車は来ていなかった。すでに来て、帰ったあとらしかった。
「何があったんですか」と柚羽が近くにいた住民の一人に、控えめに聞いた。
老いた女性だった。顔見知りらしく、柚羽を見て少し顔をほぐした。「昨夜のうちに、お一人で——」と小声で言った。「今朝になって気づいて。年だったから、まあ」
「昨夜」と柚羽は繰り返した。
「眠るように、だったそうです。苦しんだわけではない、と」
直継は路地の奥を見た。家の玄関扉が開いていた。警察官が中に入ったり出たりしている。玄関のすぐそばに、古い下駄箱があった。外に面した、低い下駄箱。
直継には、それ以上のことはわからなかった。
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三人は路地から離れた。住宅街を少し歩いて、人気の少ない川沿いの道に出た。
誰も最初に何も言わなかった。
しばらく歩いてから、柚羽が口を開いた。「私たちが調べ始めたとき」と柚羽は言った。「その人が亡くなった」
「そうですね」と静馬は言った。
「偶然ですか」と柚羽は聞いた。問い方が穏やかだった。責めているのではなく、確認している声だった。
「わかりません」と静馬は言った。「年齢から考えると、いつ亡くなってもおかしくない。ただ——」
「タイミングが......」と直継は言った。
「そうですね」と静馬は言った。それ以上は続けなかった。
直継は川の音を聞いた。昨日この川沿いを歩いたときより、音が近く感じた。水量が少し増えたのか、それとも自分の耳が変わったのか。
「紙片が......」と柚羽は言った。
二人が柚羽を見た。
「玄関の下駄箱の横に」と柚羽は言った。「小さく折り畳まれた紙が、挟まっていました。遠目に見えただけなので確かではないけれど——白い紙が、折り畳まれて、下駄箱の端に挟まっていた」
「見えました?」と直継は聞いた。
「遠かったので......」と柚羽は言った。「内容までは読めませんでした」
三人は止まった。
「取りに行けますか」と直継は言った。
「警察がいる」と静馬は言った。
「わかっています」と直継は言った。「だから聞いています」
静馬は少し考えた。「正面からは無理です。ただ——玄関先に残っているなら、警察が証拠として押収する前に、通行人として通りかかることはできる」
「それで確認できるでしょうか」と柚羽は聞いた。
「距離次第では」と静馬は言った。
* * *
三人は少し迂回して、別の角度から路地の端まで戻った。
警察官は家の中にいた。外に出ている一人は、路地の奥のほうを向いていた。
直継が路地の入口から中を覗いた。テープの内側には入らない。外から見える範囲で、下駄箱の端を確認した。
白い紙だった。四つ折りか、それ以上に折り畳まれていた。下駄箱の端と壁の隙間に、立てかけるように挟まっていた。
「読めますか」と柚羽が小声で言った。
遠かった。直継は目を細めた。折り畳まれた紙の、上の部分が少し開いていた。そこに、筆で書かれた文字が見えた。
「川の」と直継は小声で読んだ。
「川の」と柚羽が繰り返した。
「その後が——見えない。折り目の向こうです」
静馬が直継の隣に来た。覗き込んだ。
「見てはならぬ」と静馬は言った。静馬には見えた部分があったらしかった。
「川の——見てはならぬ」と直継は繰り返した。
「もう一行ある」と静馬は言った。「三つ目は——そこで折り目の中に入っている」
「三つ目は、何なんですか」と柚羽は言った。
答えられなかった。誰も読めなかった。
三人はテープの外側から、下駄箱の端の紙を見た。警察官がこちらに向き直る気配がして、三人は路地から離れた。
* * *
川沿いに出て、三人は立ったまま少し黙った。
「三つ目の木のことですか」と直継は言った。
「可能性はあります」と静馬は言った。「『川の——三つ目は』という並びなら」
「見てはならぬ」と柚羽は言った。「川の何かを、見てはならないと書かれている。三つ目の木の跡地のことを、見るなということかもしれない」
「昨日、私たちは橋から見た」と直継は言った。
三人はそのことを確認した。口に出して確認した。
「その夜に、この人が亡くなった」と柚羽は言った。静かな声だった。
「因果はわかりません」と静馬は言った。「ただ、紙が残っていた。あの人が書いたのか、誰かが置いたのか、それもわからない。でも折り畳まれていた。昨日や今日のものではない、古い折り方だった」
「ずっと持っていたものを、最後に置いた」と直継は言った。
「そう見える」と静馬は言った。
川の流れる音が続いた。今日の川は静かではなかった。昨日より速く、少し濁っていた。秋の雨が上流で降ったのかもしれなかった。
「止めますか?」と柚羽は言った。
直継が柚羽を見た。静馬も柚羽を見た。
柚羽は川を見ていた。「やめるかどうか、今決めたほうがいいと思います。ここで決めないと、流れに乗ったまま気づかないうちに進んでしまう気がして」
「止める理由はあります」と静馬は言った。「続ける理由も、あります」
「どちらがあなたの答えですか」と直継は静馬に聞いた。
静馬は少し間を置いた。「続けます」と言った。「ただ、私は事情が違う。二人はまだ決めていい」
「決めています」と直継は言った。柚羽を見た。
柚羽は直継を見た。川を見た。また直継を見た。
「続けましょう」と柚羽は言った。
静馬は二人を見た。少し間があった。
「わかりました」と静馬は言った。
川の音がした。今日の川は、速かった。




