第22話 禁足地への道
「写本の最後の方の記述を、確認してきました」と柚羽は言った。
作業台に着くより先に言った。鞄を置きながら、静馬と直継を見た。「写本の末尾に、一行だけありました。『以下不記』と」
「そうでしたか」と静馬は言った。
「書き写さないと決めていた」と柚羽は続けた。「どの部分かはわからない。でも、意図して止めた。そういうことですよね」
「はい」と静馬は言った。「書き写さなかった部分が、原本断片に残っている可能性があります」
「その原本断片が、棚の中にある」
「そうです」
三人は作業台を囲んだ。昨日と同じ配置。ただ今日は、静馬がすでに鍵を手に持っていた。
* * *
棚の扉が開いた。
蝶番が少し軋んだ。埃の匂いがした。古い紙と、乾いた木材の匂い。部室の匂いの中にあって、棚の中だけ少し違う匂いがした。より古く、より密封されていた場所の匂いだった。
中には、巻物が三本と、薄い帖が一冊と、折り畳まれた紙が数枚入っていた。
「帖が原本断片ですか」と柚羽は聞いた。
「そうです」と静馬は言った。「以前に少し確認しました。写本と対応している部分と、写本にない部分が混在しています」
「全部は読んでいないんですか」
「崩し字で、読み解くのに時間がかかる」と静馬は言った。「一人で読むより、三人で確認したほうがいいと思っていました」
直継は巻物を見た。三本並んでいる。紙の色が違う。一番右の巻物は他よりも古く見えた。紙が薄く、端が茶色くなっていた。
「巻物は何ですか」と直継は聞いた。
「それも、まだ全部は把握していない」と静馬は言った。「今日は一本だけ、確認したいものがあります」
静馬が一番左の巻物を取り出した。他よりも新しそうな巻物だった。新しいといっても、五十年以上は経っているだろう。
作業台に広げた。
縦書きの文字が並んでいた。崩し字だったが、他の巻物よりは読みやすかった。ところどころ、図のようなものが描かれていた。川の形、山の稜線、建物の記号。地図と文字が混在した記録だった。
「これは......」と柚羽は言った。
「場所の記録です」と静馬は言った。「儀式に関係する場所が書いてある。東の大木の位置、西の大木の位置、そして——」
静馬の指が、巻物の中央付近で止まった。川の形が描かれた部分だった。川の中央に、小さな印が描かれていた。丸に縦線を引いた記号で、地図で神域や禁忌の場所を示すときに使う形に似ていた。
その印の横に、細い字で何か書かれていた。
静馬がゆっくりと読み上げた。
「『三の木の根跡。川の流れの緩む場所。近づく者あらば——』ここから字が崩れて読めなくなっています」
「近づく者あらば、何なんですか」と直継は言った。
「読めません」と静馬は言った。「今日のところは」
柚羽が印を覗き込んだ。「これが禁足地ですか。川の中央というのは、橋から見える場所ですか」
「橋から見えると思います」と静馬は言った。「川の地形と合わせると、大橋と小橋の中間あたりになります」
「行けますか? ここに」と直継は言った。
静馬は少し間を置いた。直継を見た。
「今日行ってみますか?」と静馬は言った。
「地図があるなら」と直継は言った。「場所がわかるなら、確認したい。記録の中だけにあるより、実際に目で見たほうが、何かわかることがある気がする」
「橋から見るだけ、という条件で」と静馬は言った。「川に入ることは、今日はしない。それでよければ」
「それで構いません」と直継は言った。
柚羽は巻物の印を見た。それから直継を見た。「私も行きます」と言った。
* * *
三人は部室を出た。
大橋と小橋の間の道は、学校から川沿いに少し歩く。放課後の時間帯で、川沿いの道に人はほとんどいなかった。秋の午後の光が、水面に斜めに当たっていた。
直継は歩きながら、父の言葉を思い出した。「川には近づくな」。父が言ったのは、この川のことだった。この川の、具体的なある場所のことだった。近づくなと言われた場所に向かっている。
足は止まらなかった。
「この橋です」と静馬が言った。
木造の小橋だった。年季の入った橋板。欄干が低い。川幅はそれほど広くないが、水量はある。流れは今日も穏やかに見えた。
三人で橋の中央まで歩いた。
橋板が、一歩ごとに微かに軋んだ。直継はその感触を、以前どこかで感じたことがあると思った。夢の中だった。霧の中の川底を歩く夢。あの夢の水の感触と、今の橋板の感触が、どこかで重なった。
「あのあたりです」と静馬が欄干の向こうを指した。
橋の下流側、少し先の川の中央あたり。川面は普通に流れているように見えた。ただ、じっと見ていると——。
「流れが遅い」と柚羽が言った。
「そうですね」と静馬は言った。
確かに遅かった。ほんの少しだけ、その場所だけ、川の流れが緩んでいた。周囲の水は普通に流れているのに、そこだけ滞留するような、渦を巻く前の水面のような、静けさがあった。
「何があるんですか、川底に」と直継は聞いた。
「根の跡が残っているはずです」と静馬は言った。「切られてから何十年も経っているから、木そのものはない。でも根が張っていた場所は、川底の地形として残る」
「何か見えますか?」と柚羽は川面を覗き込んだ。
光の角度によって、川底が透けて見えることがあった。今日の光ではどうか。直継も覗き込んだ。水は透明度が高かった。川底が少し見えた。石と砂と、水草の揺れと——。
「あれが」と柚羽は言いかけた。
確認できなかった。水の揺らぎで川底が見えなくなった。
「見えましたか」と直継は柚羽に聞いた。
「よくわからなかった」と柚羽は言った。「でも、川底の形が、普通じゃない場所があった気がして」
三人は橋の上でしばらく川面を見た。
風がなかった。
それでも、川の音だけが、低く続いていた。
* * *
「静馬さん」と直継は言った。「ここには来るなと言われていたと言いましたね」
「はい」と静馬は言った。
「誰にでしょうか」
「祖父に」と静馬は言った。「この橋に来てはいけない、川の中央を見てはいけないと言われていた。理由は言われなかった。言われなかったから、余計に気になった」
「今、その場所に来ていますよね」と直継は言った。
「そうですね」と静馬は言った。少し間があった。「祖父が禁じた理由が、何となくわかるようになってきた気がします」
「どういうことですか」と柚羽が聞いた。
「ここに来ると」と静馬は言った。「戻せない、という感覚があります。橋に立つ前と後で、何かが変わる。それが何かはまだうまく言えない。ただ、祖父が禁じたのは、知ることへの禁忌だったのかもしれない」
直継は川面を見た。流れの緩い場所は、まだそこにあった。
「知ってしまった」と直継は言った。言い方は平坦だった。後悔ではなかった。
「そうですね」と静馬は言った。
柚羽が欄干から手を離した。橋板に視線を落とした。「開きすぎると影が溢れると、母が言っていました。境界を開きすぎると、この世に留まっていた影が一度に出てくると」
「そうです」と静馬は言った。
「今の私たちは、どのくらい開いていますか」と柚羽は聞いた。
静馬は答えなかった。答えないということが、答えだった。
柚羽はそれを聞いて、少し頷いた。聞いてよかった、という顔だった。はっきりした返答より、静馬が答えなかったことのほうが、正直だと受け取った顔だった。
* * *
三人は橋を渡りきった。
東側の岸に出た。川の向こうに、西御岳の山の稜線が見えた。学校のある丘から見るのとは角度が違う。東の岸から見る西の山は、少し近く感じた。あるいは、大きく感じた。
「棚の巻物は」と直継は言った。「もっと詳しく読む必要がある」
「そうですね」と静馬は言った。「今日の帖——原本断片も、まだ全部読んでいない。続きは次に来たときに」
「明日、また行きます」と直継は言った。
「私も」と柚羽は言った。
静馬は川のほうを振り返った。橋の上から見た、流れの緩い場所はもう見えない。でもそこにあることはわかっている。三人が今日見た。
「一つ聞いてもいいですか」と柚羽が静馬に言った。
「はい」
「写本の空白を書き写さなかった人が、なぜ写本自体は残したんでしょう」
静馬は少し間を置いた。川の音がした。
「消せなかったんだと思います」と静馬は言った。「全部消すことは、できなかった。だから残せる形に変えた。半分だけ残した」
「半分だけ残した」と柚羽は繰り返した。
「写本の空白と、原本断片が揃って初めて、全体が見える」と静馬は言った。「もしかしたら、そうなることを、書き写した人は望んでいたのかもしれない。消しながら、残した。昨日も、そういう話をしましたね」
直継は段ボール箱の底の写真を思い出した。切り取って、折り畳んで、捨てなかった。同じ動作が、別の時代にも繰り返されていた。
三人は川沿いの道を歩いて戻った。
川の音は、行きより少し大きく聞こえた。
距離は変わっていない。
でも今は、川の底に何があるかを知っている。
知ることで、音の聞こえ方が変わる。
直継は歩きながら、そのことを思った。
父に話すかどうかは、まだわからなかった。
でも今日川を見に来たことは、もう取り消せない。
それを取り消したいとは思わなかった。




