第17話 影が重なる
朝光祭の翌朝、父は話した。
直継が道場での稽古を終えて戻ると、父が仏間にいた。由緒書を膝の上に置いて、開かずにいた。
「座れ」と父は言った。
直継は座った。仏間の薄暗さの中で、父の横顔が北向きの窓の光を受けていた。
「影を見たな」と父は言った。
「はい」
「あれは何か、わかるか」
「わかりません」
父は由緒書を少し動かした。膝の上で、ずらした。開くかと思ったが、開かなかった。
「朝比奈家の由緒書に欠落がある。お前は気づいていたか」
「はい。ずっと気になっていました」
「あそこに何が書いてあったか、俺も全部は知らない」と父は言った。「俺の父から聞いた断片だけ知っている」
直継は少し驚いた。父が「知らない」と言うことを、予想していなかった。
「断片では、こういうことだ」と父は続けた。「かつて、御岳神は一つだった。東と西に分かれる前、川が今の形になる前、神はひとつの形をしていた。それを二つに分けた者がいた。分けた理由は記録にない。ただ分けたことで、川が生まれ、東と西が生まれた」
「分けた者というのは」
「水無瀬家だ、と俺の父は言っていた」
直継の中で、何かが組み直された。静馬の家。中間区の旧家。部室の鍵がかかった棚。「三分の一ずつ」という言葉。
「なぜ水無瀬家が?」
「わからない」と父は静かに言った。「それが記録にない。由緒書の欠落はおそらくそこだ。なぜ分けたか、という理由が書いてあって、誰かが消した」
「消したのは誰ですか」
「朝比奈家の誰かだろう」と父は言った。「俺たちの先祖が、その理由を残したくなかった」
仏間に沈黙が来た。北向きの窓から、朝の余光が入っていた。由緒書の表紙の朱印が、その光の中でうっすらと浮かんで見えた。
「影は、何ですか」と直継は聞いた。
「神が分かれたときの、痛みの残りだ」と父は言った。「分けられた傷が、今も川底に残っている。周期が来るたびに、その痛みが動く。お前が見た影は、それが地上に出てきたものだ」
「周期」
「何十年かに一度、均衡が乱れる。そのとき東の剣は川へ向きたがり、西の鈴は鳴り方を変える。今年がその周期だ」
剣先が川に向く。稽古のたびに感じていた引力の正体が、少し見えた気がした。
「どうすればいいんですか」と直継は聞いた。
「何もしなくていい」と父は言った。「ただ、今年は自分の型を守れ。朝比奈の剣は東の神に捧げるものだ。それだけを忘れるな」
直継は頷いた。でも、何かが引っかかっていた。
「何もしなくていい、というのは、何かができる、ということですか」
父は直継を見た。しばらく、黙っていた。
「......お前は静馬を知っているか」と父は言った。
「はい。郷土史編纂部の部長です」
「水無瀬家の子だ」
「知っています」
「あの子が今、何をしようとしているか、俺にはわからない」と父は言った。「ただ、水無瀬家の者がこの周期に御岳にいる。それは偶然ではないと思っている」
「危険なんですか?」
「わからない」と父はもう一度言った。「ただ、近づきすぎるな。川には近づくな。わかったか」
「はい」
父は由緒書を棚に戻した。それ以上は何も言わなかった。仏間を出ていく父の背中を、直継は見ていた。
全部は教えてくれなかった。でも、欠落の輪郭が少し見えた。
その日の放課後、直継は部室に向かった。
扉を開けると、柚羽が先にいた。
作業台に古地図が広げられていた。序章で三人が見た地図だ。三本の大木が描かれている。川の東に一本、西に一本、川の真ん中に一本。禁足地の文字。
柚羽の横に、布に包まれた帖があった。
「写本を持ってきました」と柚羽は言った。
直継は作業台の前に立った。古地図と写本を交互に見た。静馬はまだ来ていなかった。
「昨夜、影送り祭でした」と柚羽は言った。
「知っています。薄藍の灯りが見えました、東から」
「そうでしたか」柚羽は少し目を上げた。「西からも、東の灯りが見えました。消えていなかった」
「あの夜、橋に行きましたか」と直継は聞いた。
柚羽は一瞬、言い淀んだ。「なぜそう思ったんですか」
「わかりません。なんとなく」
「行きました」と柚羽は言った。静かに。「禁忌を破って。橋の上で、布が動きました。風もないのに」
直継は古地図を見た。川の真ん中の禁足地の印。
「俺は朝光祭の夜、舞台の端を影が走るのを見ました」と直継は言った。「川の方向から来た。誰も気づいていなかった」
柚羽は直継を見た。二人はしばらく、互いの顔を見ていた。初めて、同じものを共有した感覚があった。夢の話をしたときとは少し違う。あのときは「同じ夢を見た」という事実の共有だった。今は、「同じ川に動かされている」という感覚の共有だった。
扉が開き、静馬が入ってきた。
作業台の上の写本と古地図を見た。それから直継と柚羽を見た。何も言わなかったが、表情がわずかに変わった。予測が当たった、というより、来るべきものが来た、という顔だった。
静馬は鍵の棚に向かった。金属の錠を外した。
初めて開く。
棚の中には、古い巻物が数本と、薄い帖が一冊あった。静馬は帖を取り出して、作業台に置いた。
「原本断片です」と静馬は言った。
柚羽の写本の隣に、並んだ。
直継が写本を開いた。柚羽が原本断片を開いた。静馬は二つの間に立って、両方を見ていた。
しばらく、三人は無言だった。
「同じ時代のことが書いてある」と柚羽が最初に言った。「写本には『三の木が倒れた』とある。原本断片には——」
「『三の木の根を断ちたり』と書いてあります」と静馬が言った。「断った、ということは、切ったということです」
「切ったのは水無瀬家だ、と今朝父から聞きました」と直継は言った。
柚羽が直継を見た。「お父さんから」
「はい。断片的にしか知らないと言っていたけど」
静馬は二つの帖を並べたまま、少し視線を落とした。
「朝比奈家の由緒書には、欠落のページがあります」と直継は続けた。「消された跡がある。父もその理由は知らないと言っていた」
「霞沢家の写本にも、書き写さなかった部分があります」と柚羽は言った。「写本の末尾近くに空白があって」
「原本断片には、その空白の部分が書いてあります」と静馬は言った。「どちらも同じ時代のことを、それぞれの側から記録している。欠落と空白は、同じ出来事について書かれていた部分です」
直継は原本断片を見た。崩し字で、速く書かれている。所々しか読めない。でも「朝比奈」という文字が見えた。「東」という文字が見えた。「川」という文字が見えた。
「原本断片に何が書いてあるか、全部教えてもらえますか」と直継は聞いた。
静馬は少しの間、答えなかった。
「今日は、ここまでにしましょう」と静馬は言った。「二つが並んだことは重要な一歩です。でも今日一度に全部開けるより、順を追ったほうがいい」
柚羽が直継を見た。直継も柚羽を見た。
「また今は、ですか」と直継は言った。
「今日は、です」と静馬は言った。「今日ではなく、次に」
それはいつものとは少し違う言い方だった。
「今は」ではなく「今日は」。期限が、少し近くなった気がした。
古地図の禁足地の印を、直継は見た。
柚羽の指が、そこを指さしていた。
直継の指も、そこへ向かった。
二人の指が、地図の上で重なった。
川の真ん中の、三本目の木があった場所の上で。




