第16話 川を渡る夜
影送り祭の夜は、東御岳の朝光祭が纏っていたものとは、異質な暗がりに満ちている。
朝光祭の夜は、夜にあって夜ではなかった。連なる黄丹の提灯が人の熱気を煽り、剣の舞が光を呼び込んでいたからだ。あの夜の東御岳は、陽の気に満ちて煌々と輝いていた。
だが、影送り祭の夜は、徹底して暗い。
薄藍の提灯が落とす青白い光は、人の顔を照らすことを拒む。それはただ路面を冷ややかにさらい、足元だけを白群の光で浮かび上がらせる。参道を行く人々の表情は、深い闇の底へ沈み、誰もが自身の影を重く引きずって歩いている。霞沢家の奉納が始まるのは、夜が極まり、街の息吹が静寂の底へ沈みきった刻限だ。境内から外れた西の山の裾に、ひっそりと石造りの舞台が設えられている。そこで柚羽は、夜気に溶けるような布を手に立ち尽くしていた。
舞台の四隅には藍鉄の地色を宿した提灯が四本。その青白い光の檻の中で、柚羽は四つの型を連ねる。夕霧の招き。影送りの歩み。幽紗の輪。沈みゆく光。
鈴を鳴らし、布をさばき、大地へ祈りを流し込む。
しかし、今年は型の最中、何一つとして揺らぎは起きなかった。鈴の音はただ虚しく夜の静寂を切り裂き、そのまま澄んだ余韻を残して消えていく。あちら側から返るはずの水の調べも、境界を震わせる気配もなかった。
舞い終えた柚羽が舞台で見上げた夜空は、濡羽色を突き抜けた先で、底知れぬ深さを持って静まり返っていた。
鈴の音は、さざ波が引くように何事もなく消えた。川のせせらぎも、あちら側の吐息も、何も聞こえない。昨日までの予兆が嘘であったかのように、異変は影を潜めていた。
その完璧な平穏が、かえって柚羽の心を騒がせる。
舞を終えて神社の側室へ戻ると、待っていた母が「よかった」と漏らした。柚羽は小さく頷く。その言葉に込められた安堵が、今年は例年とは違う、どこか割り切れない重さを伴っているように感じられた。
祭りは、何事もなかったかのように続いていた。
宮司の低い祝詞が境内の夜気を震わせ、参道を行き交う人々は、藍鉄の提灯が落とす青白い光の中で、思い思いに影を揺らめかせながら夜の奥へ動いていた。
柚羽は、誰もいない側室の気配を背中に残して、静かに歩き出した。
川へ向かおうという衝動は、自分でも驚くほど唐突で、抗いがたいものだった。
霞沢家の由緒書には、厳格な禁忌が記されている。影送り祭の奉納を終えた者は、神社の結界を越えてはならない。舞によって境界を開いた身体は、その余韻が消えるまで「あちら」と「こちら」の狭間に漂うことになる。その状態で川へ近づくことは、自身の魂を水の底へ誘い込むに等しいと、母は幼い頃から幾度となく諭してきた。
禁忌の重みは、痛いほど理解していた。それでも、柚羽の足は川の流れる方角へと吸い寄せられていた。
舞の最中に何も起きなかったことが、胸の奥で小さな棘のように刺さっている。鈴の音は最後の一響きまで濁ることなく消え、川の音も、境界の裂け目も、何一つとして現れなかった。静馬も、そして母さえも「今年」という周期を確信していたはずなのに、肝心の本番はあまりに平穏だった。
自分は、何か決定的なものを見落としている。
中間川へ続く道は、祭りの夜であっても人の気配が極端に薄い。参道の賑わいから一歩外れれば、藍の提灯さえも届かない真の闇が広がる。頼りとなるのは、雲間から零れ落ちる月白の月光のみ。柚羽は、岩肌の凹凸を足裏で確かめながら、慎重に歩を進めた。
手には、舞で使った布が握りしめられたままだ。側室に置いてくることも忘れるほど、柚羽の意識は、闇の先で呼んでいる川の流れに支配されていた。
橋が見えてきた。
古びた木造の橋が、闇に浮かび上がっている。月白の光を浴びた橋板は、白骨のように青白く浮かび、その先には中間区が、さらにその向こうには東御岳の灯火が低い帯となって広がっていた。東の光は、今夜も消えることなく、澱んだ夜に滲んでいる。
柚羽は橋の袂に立った。
渡ってはならないという戒めが脳裏をかすめる。だが、橋の中ほどに立つだけなら、という己への言い訳が足を一歩、二歩と前へ運ばせた。板を踏みしめるたび、軋みが夜気に響く。川面が近づくにつれ、水のざわめきが左右から耳を圧した。
橋の中央に立つ。
川は東の上流から西の下流へと、執拗なまでの速さで流れている。手すりに寄りかかり、眼下を見下ろすと、夜の水は濡羽色に塗り潰され、月の光が一筋だけ、銀鼠の線となって細く震えていた。
東の灯りを見やる。
遠く、低い。その灯はいつもとは違う。蜜柑色の温もりを失い、どこか白みを帯びた鋭い光を放っている。距離のせいか、あるいは夜気の濁りか。
西の灯りを振り返る。
西御岳の山麓に散らばる藍の提灯は、薄藍の冷たい光を撒き散らしていた。
東の灯と、西の灯。
ふたつを同時に視野に収めた刹那、色が溶け合った。
重なったというより、世界がその境界を失ったかのような錯覚。東の白みがかった橙と、西の青白い藍が、橋の上に立つ柚羽の瞳の中で混ざり合い、一瞬にして同じ色へ変質した。それは、何の色も持たない、燃えるような白に近い、光そのものの色。
その瞬間、手の中の布が意志を持って蠢いた。
風はない。川の上は、息を止めたように静まり返っている。それなのに、布の端がふわりと持ち上がった。まるで誰か見えざる者が、下からそっと押し上げるように。白磁のように薄い布の端に揺れる飾り糸が、音もなく空中で波打つ。それは、柚羽が舞うべき型の、最初の呼応だった。
柚羽はただ、その布を離さなかった。
布は大きく弧を描いて開いたまま、夜の空中で凍りついたように静止している。川の冷気と闇の中で、ただその白い布だけが、見えざる潮流に抗うように微かに波打っていた。
どれほどの時間が流れたのかはわからない。瞬きをする間さえ、世界は呼吸を止めていたのかもしれない。
やがて、布はゆっくりと、まるで魔力が霧散するように萎んでいく。元の形を確かめるように、重力に従ってふわりと腕の中へ戻ってきた。最後には、ただの布として、柚羽の手の中に大人しく収まった。
川は、何事もなかったかのように流れている。水の音はただの水の音に戻り、ただ淡々と、冷たい水流を運び続けている。
視線を上げた。
東の灯りは、再びいつもの温かな蜜柑色を取り戻していた。西の灯りもまた、夜の闇に沈む薄藍の冷たい青へと戻っている。
先ほどの光の融合は、夢の残滓のように掻き消えていた。柚羽の手の中の布だけが、冷たく、そして少しだけ湿り気を帯びて、重く存在を主張していた。
「柚羽さん」
呼びかける声がした。
橋の西の袂から響いたその声に、柚羽は息を呑んだ。振り返ると、静馬が立っていた。橋の板を踏むことはなく、袂の石畳の上にただ静かに佇んでいる。いつからそこにいたのか、月の月白に照らされたその影すら、輪郭を曖昧にしている。
「戻りましょう」と静馬は言った。「神社に」
声は穏やかだった。柚羽を咎めるような響きはなく、ただ静かな事実を告げるような、確認の声だった。
柚羽は橋の上から動くことができなかった。「......ご覧になっていましたか」
「はい」
「布が動いたのも」
「はい」
「いつからそこにいたんですか」
「あなたが橋の袂に辿り着いた、その瞬間からです」
柚羽は静馬を見つめた。青白磁のような月の光の下で、静馬の表情は影に沈み、読み取ることが難しい。その瞳はどこか遠くを見つめているように見えた。川の流れを見ているのか、それとも水の底に沈む何かを見ているのか。あるいは川の向こう側、この世ではない場所を見ているのか。柚羽には、その視線の行き先を推し量る術がなかった。
「なぜ、ここに?」
問いに答えるように、静馬は静かに言った。「来ると思ったから」
「なぜ、そう思ったんですか」
「舞の最中に何も起きなかったでしょう。そういうとき、あなたは一人で確かめにくる。そう確信していました」
柚羽は橋の上に立ち尽くしたまま、再び黒い水面へ視線を落とした。濡羽色の川面に、月白の月影が鋭く映り込んでいる。
「......布が動いたのは、何だったんですか」
「川の力が、境界に触れた証拠だと思います」と静馬は言った。彼の声は夜の静寂に溶け込み、どこか遠い場所から届くようでいて、すぐそばに響いた。「あなたが橋の上に立ったことで、この場の境界が薄くなった。川底の何かが、その揺らぎを感じ取ったのでしょう」
「川底の、三本目の木の跡地が」
「そうだと思います」
「開きすぎていましたか」
柚羽は母の切実な戒めを思い出しながら、その問いを口にした。もしここで影を招いてしまえば、それこそ取り返しのつかない事態になる。
「今日は大丈夫です。何かが溢れるようなことはありませんでした」と静馬は言った。しかし、その言葉にはどこか冷ややかな響きが混じっている。「ただ、これ以上は近づかないほうがいい。今はまだ、あなたの舞も僕の剣も、この場所に潜むものと対峙するにはあまりにも未熟すぎます」
柚羽は橋の上から足を踏み出した。袂の石畳に戻る。静馬の横に立った。二人で川を見た。
「東でも、何かあったのですか。今夜」
柚羽は橋の欄干に指をかけ、遠い東の気配を確かめるように尋ねた。
「朝光祭の夜の話は、直継さんからは聞いていません」と静馬は淡々と答えた。「でも、東の灯りはまだ消えていない。それが答えでしょう」
二人が視線を向ける先、闇の彼方に東御岳の灯りが連なっている。いつも通りの温かな蜜柑色――そう見えるはずの光が、なぜか今夜は、地に縛り付けられた黄丹の炎のように、夜の深淵で低く、頼りなく揺れ続けていた。
「順序、というのは」柚羽は喉の渇きを覚えた。「いつ終わるのですか」
静馬は沈黙した。彼が何を考えているのか、あるいは何も考えていないのかさえ、この暗がりでは分からない。
ただ、川が流れていた。
上流の東から、下流の西へ。絶え間なく続く水の流れは、深藍を通り越して、光さえ吸い込む黒色となって橋の下をくぐり抜けていく。
その水の底深く、かつて三本目の木が天を支えていた場所がある。今もなお、川底には木の名残である太い根が蛇のように絡みついているのだろうか。その深淵が、今夜の柚羽を呼んでいたのか。
知る術はない。ただ水の冷たさだけが、橋の上に立つ柚羽の肌に、白練の布を通してじんわりと伝わってきていた。
「次に部室に来るとき、写本を持ってきます」と柚羽は言った。「約束です」
「わかりました」と静馬は言った。
二人は川を背にして、西御岳へ戻った。




