第15話 柚羽と静馬
翌日の放課後、柚羽は足早に旧校舎へ向かった。
板張りの廊下は踏みしめるたびに軋み、中庭の枝葉が伸びすぎたせいで、この場所は昼間から仄暗い。だが、その湿り気を帯びた暗さが、今の柚羽の心にはかえって心地よく馴染んでいた。
部室の扉を開けると、そこには静馬が一人きりだった。
彼は作業台に何かを広げていたが、柚羽の気配に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。
「来ましたね」
その声には、彼女が来ることを確信していたかのような、妙な落ち着きがあった。柚羽は喉の奥に小さなひっかかりを覚えたが、今はそれを詮索する時ではない。
「話したいことがあって」
静馬は短く「どうぞ」と促した。
柚羽は彼の向かいに腰を下ろした。かばんの中にある写本の重みを手に取ろうとして、思い留まる。蔵に置いてきた、あの古びた帖の言葉。そして、昨夜母と交わした言葉。そのすべてを、柚羽は頭の中で懸命に反芻し、整理していた。言葉をこぼさないように、確かな形にして彼に差し出すために。
「鈴の音が止まりました」と柚羽は言った。「稽古の最中に。残響の途中で急に消えて、川の音だけが聞こえたんです」
静馬はただ聞いていた。相槌も打たず、表情も変えない。
「東から来る音でした。ここからは届くはずのない距離なのに、耳のすぐそばで水が鳴っていた」
「そうですか」と静馬は静かに言った。
「そうですか、だけですか?」
柚羽の問いかけに、彼は「まず聞かせてください」と短く返した。
柚羽は続けた。母から聞いた話を。この地には境界が薄くなる周期があること。霞沢家の女たちが代々、同じ体験を繰り返してきたこと。そして、境界を適切に開けなければ影が溢れ出すという、母の重苦しい戒めを。
静馬は途中で一度も遮らなかった。作業台の上で組んだ指を少しだけ動かしながら、柚羽の言葉を一つ残らず拾い上げるようにして聞いていた。
「お母さんは今年が周期かもしれないと言っていました」と柚羽は続けた。「確信はないと言っていたけど、表情は確信していた。あなたはどう思いますか」
「今年だと思います」と静馬は言った。
間がなかった。柚羽は少し驚いた。「今は」と言わなかった。
「なぜわかるんですか」
「朝光祭の夜、東の提灯が消えませんでした。夜明けまで。それは以前にも一度だけあったことで、そのとき同じ年に影送り祭でも異変があった、という記録が部室にあります」
「記録が?」
「はい」
柚羽は少し間を置いてから、次の話題に入った。
「蔵で古文書を読みました」
「ああ」
「写本です。曾祖母が書き写したもの。そこに『三の木が倒れ、川の流れが変わった』と書いてありました」
静馬の目が、わずかに動いた。動いた、というより、少しだけ止まった。柚羽はその変化を見逃さなかった。
「あなたは以前、その木が根から切られたと言いましたよね」
「言いました」
「倒れたのか、切られたのか。どちらが正しいんですか」
静馬はしばらく黙った。作業台の上の手を、少し動かした。
「どちらも正しいと思います」と静馬は言った。「切られたことで、倒れた」
「じゃあ切ったのは誰ですか」
また沈黙が来た。今度は少し長かった。
「今は」と静馬が言いかけた。
「また今はですか」と柚羽は言った。
声が思ったより強くなった。静馬が少し、目を上げた。
「私は整理してから来るつもりだったのに、整理できなかったから来たんです。話せることを話してください。全部じゃなくていい。でも、嘘はつかないでください」
静馬は柚羽を見ていた。表情が読みにくい。感情を奥に入れているというより、今何かを測っているような顔だった。
「切ったのは、水無瀬家です」と静馬は言った。
柚羽は息を止めた。
「私の家の先祖が、三本の木のうち、東と西の木の根を切りました。川の流れを変えるために。そのことで三本目の木も、やがて倒れた」
「なぜ?」
「神を分けるためです」と静馬は言った。「東の神と西の神を、永遠に混じり合わないように。川を境界にして、二つに分けるために」
柚羽は黙った。稽古場の壁に映る布の影のことを思い出した。布より先に動いた影。あれは何だったのか、と今更のように思った。
「なぜそんなことをしたんですか」と柚羽は聞いた。
「私にもわかりません」と静馬は答えた。「記録が残っていない。水無瀬家の由緒書にも、この部室の資料にも、なぜ分けようとしたのかは書かれていない」
「書かれていない、というのは」
「消されたのかもしれない。あるいは最初から書かなかったのかもしれない」
柚羽は「あの古文書」という言葉を頭に浮かべた。序章で部室に持ち込んだ、布包みの古文書。静馬が受け取ったとき、「確認した」顔をした。
「私が最初に持ってきた古文書」と柚羽は言った。「あれに、何か書いてありましたか」
静馬は少しだけ間を置いた。
「はい」
「何が書いてありましたか?」
「霞沢家の写本に書き写されなかった部分が、あの古文書の原本断片に残っていました」と静馬は言った。「写本には『三の木が倒れた』とある。原本断片には、もう少し具体的なことが書いてある」
「なぜ写し残さなかったんですか」
「書いた人が、書きたくなかったからだと思います」と静馬は言った。「霞沢家の誰かが、あの記述を残したくなかった。でも捨てることもできなかった。だから写本には書かず、原本は蔵の奥に置いておいた」
「それを家の人が捨てようとした」
「捨てようとするくらい、残したくない記述だったということだと思います」
柚羽は考えた。
「原本には何と書いてありましたか」
今度の沈黙は、これまでで一番長かった。静馬は窓の外を見た。中間川が見える方向。夕方の光が反射している。
「まだ、話せません」と静馬は言った。
柚羽は反論しようとして、止めた。今日の静馬は、いつもより多く話した。「今は」と言いながら、水無瀬家が木を切ったことを話した。それは以前の静馬にはなかった動きだった。
「一つだけ聞かせてください」と柚羽は言った。「私が知ったとき、困ることになりますか」
静馬は柚羽を見た。
「困る、というのは」
「怖い、でも知りたくなくなる、そういう内容ですか」
静馬はしばらく柚羽の顔を見ていた。それから、「そうではない」と言った。「ただ、順序があります。今がその順序ではない」
柚羽は窓の外を見た。川が夕方の光の中で流れている。普通に流れている。昨日、川の音が聞こえた稽古場は、今ごろ母が一人でいるかもしれない。
「直継さんにも、こういう話をしていますか」と柚羽は聞いた。
「彼にも、順序があります」
「同じ順序ですか」
静馬は少しだけ考えてから「似ていますが、違います」と言った。
部室の外が暗くなり始めていた。柚羽はかばんを持って立ち上がった。帰り際に、もう一度だけ振り向いた。
「次に来るときは、写本を持ってきます。あなたが持っている原本断片と、並べてみたい」
静馬は何も言わなかった。でも、否定もしなかった。
それで十分だった。
廊下に出ると、きしむ床の音が戻ってきた。中庭の木の葉が、風で揺れていた。




