第14話 影送り祭の前
西御岳の街の景色は、あわい浅葱から、次第に深い藍鉄の帳へと色を変えていく。
東御岳の朝光祭がもたらした橙の祝祭の熱が、一週間とかからずに冷めきると、西御岳には影送り祭のための静謐な準備が始まる。街の呼吸が、まるで湿り気を帯びた地底の空気に変わるような変容だ。
参道に連なる提灯は、薄藍の地色に銀糸で刺繍が施されている。灯が揺れれば、その青白い光は路面に滲み広がり、石畳はあたかも底の見えない水底のごとく、ゆらゆらと境界を揺らす。豆腐屋の軒先は闇に委ねて灯りを置かず、鍛冶屋は火の粉の気配を嫌ってか、この時期だけは頑なに窓を閉ざす。
人々の所作もまた、影に溶け込んでいく。参道の掃き掃除は、必ず陽が落ちてから。夜の静寂が深まった頃に響く、箒の乾いた音。その微かな擦れ音こそが、柚羽にとってのこの季節の匂いであり、幼い頃から肌に馴染んだ記憶の根底だった。
東が光を呼び寄せ、高らかに謳う祭りならば。
西は、この世にこびりつく影を一つひとつ掬い上げ、あるべき闇の底へと送り出すための、沈黙の行事。
街路を染める空気は、冷え切った利休鼠の静けさを孕み、誰かの足音を吸い込むように、夜の奥底へと続いていた。
今年もまた、奉納の舞を踊る季節が巡ってきた。三年目。柚羽がこの重責を担うことになったのは十四の時だった。母が膝を折るようになり、鏡の前で白塗りをする手が震え始めたとき、代わりは必然として柚羽に回ってきた。押し付けられたというよりも、潮が満ちるように、そうなる以外に道はなかった。霞沢家の血筋において、この型を体現できるのは、今や自分しかいないのだという厳然たる事実が、その細い肩にのしかかっている。
稽古場の扉を引き、冷え切った空気の中で布を広げる。慣れ親しんだ感触が掌に馴染む。
夕霧の招き。影送りの歩み。幽紗の輪。
三つ目の型まで、身体は澱みなく流れた。三年分、骨の髄まで叩き込まれた所作は、意識を介さずとも勝手に律動を刻む。だが、その滑らかさが、柚羽の胸に小さな刺のような不安を残した。思考を差し挟む余地のない身体の動きは、儀式の担い手として清浄なのか、それとも魂を置き去りにした単なる空虚な模倣なのか。
かつて、一つ一つの動作の意味を問い、境界の揺らぎに怯えながら型を刻んでいた頃の方が、よほど「舞」の深淵に近かったのではないか。
柚羽は幽紗の輪の中で旋回しながら、己の動きを客観的な視点で見つめた。布が描き出す軌跡は完璧だ。だが、今の自分の身体には、あちら側の冷気を招き寄せるほどの切実な祈りがあっただろうか。ただ型をなぞるだけの自分を、曾祖母の綴った古文書の言葉が見透かしているような気がして、柚羽は一瞬、指先の力に迷いを生んだ。
沈みゆく光に入った。
床を這う布の感触は、いつものように冷たく、それでいてどこか重々しい。膝を畳に預け、布を扇状に広げる。その所作の終わりと同時に、右手を伸ばして鈴を執った。
一度だけ、打ち鳴らす。
高潔な金属音が稽古場の空間を射抜いた。残響が壁に反射し、揺らぎ、本来であればそのまま静かに収束していくはずの余韻。だが、その音の列は途中で断たれた。
——消えた。
まるで巨大な掌が空間を圧し潰し、響きを根こそぎ奪い取ったかのように。
柚羽は息を呑んだ。鈴が鳴り止んだのではない。鈴を取り巻く世界そのものが、音を立てる権利を剥奪されたかのような静寂だった。いつもなら窓の向こうから届くはずの、秋の虫の微かな羽音も、舗道を歩く下駄の音も、遠くで夕餉の準備をする人々の気配も、すべてが物理的に遮断されている。この稽古場だけが、世界から切り離された孤島になってしまったような錯覚。
膝をついたまま、柚羽は微動だにできず、その静寂のただ中にいた。
だが、その張り詰めた無音の奥底で、何かが確かに鳴っていた。
それは音というよりも、もっと泥のような、粘り気のある気配。呼吸音ではない。心臓の鼓動でもない。それは、布が空気を孕むときよりもはるかに低く、かすれた、獣の喉を鳴らすような音。
——ざり、ざり、と。
まるで、誰かがこの部屋の床の下で、分厚い漆喰の壁の向こう側で、長い間忘れていた「影」を引きずり歩いているような音が、すぐ耳元で聞こえていた。
柚羽は視線を上げられなかった。
視界の端、床に広げた布の縁が、微かに、生き物のように蠢いている。
遠い。けれど、この鼓膜が捉えているのは、紛れもない中間川のせせらぎだった。
西御岳のこの稽古場から川までは、どれほど耳を澄ませても届くはずのない距離にある。山に遮られ、風に掻き消され、地形的に決して辿り着くことのない音。それが今、この閉ざされた空間の内側で、まるで床板のすぐ下を水が流れているかのように響いている。
石を越え、泡が砕け、流れが淀みで渦を巻く。その、水と岩が繰り返してきた永劫の対話が、今まさに柚羽の身体を通り抜けていた。
音がやってくる方角。それは紛れもなく東だった。
川は東から来る。それは地図上の事実であり、幼い頃から刷り込まれた地理の理だ。しかし、いまこの空間でその「方角」を意識した瞬間、柚羽の肌に戦慄が走った。
川の音は東から来る。けれど、それは「川が流れている」という意味ではない。
今ここで聞いたのは、東御岳の側で鳴っている川の音が、境界という薄皮を突き抜けて、こちら側の空間を浸食してきたという事実に他ならない。
その音は、まるで誰かがこちら側へ呼びかけているかのように、執拗に続いた。
そして次の瞬間、何事もなかったかのように日常の気配がなだれ込んできた。
風の通り過ぎる音。参道を歩く人の下駄の音。遠くの家々から聞こえる、生活の匂いを纏った話し声。鈴の余韻は跡形もなく消え去り、さっきまでの「無音」が嘘のようだった。
柚羽は動けなかった。
膝をついた姿勢は、重力に縛り付けられているかのようだった。床に広げた布は、先ほどまでの儀式の道具ではなく、まるで川の水面に浮かべた落葉のように、頼りなくそこに横たわっている。
整理しようとすればするほど、思考が霧散する。
川の音の感触が、耳の奥に、あるいは脳のひだの間に、冷たい水のようにへばりついて取れない。それは物理的な音ではないはずなのに、今も確かに、自分のすぐ背後に「東」の気配が立っているような錯覚を覚える。
自分が舞ったのは、境界を「開く」ための型だった。
もし。
もし、舞によって境界が本当に開いてしまったのだとしたら。
柚羽はゆっくりと、震える手を伸ばして、床の布に触れた。布の表面は驚くほど乾いている。けれど、その指先は、まるで冷たい川水に触れたかのように凍りついていた。この場所は、さっきまで確かに、あの「東」の川底と繋がっていたのだ。
やがて稽古場の外で足音がした。
「柚羽」
母の声だった。
引き戸が開いた。母が顔を出した。西御岳の神社の打ち合わせから戻ったらしく、神社の紋が入った薄い上着を着ている。四十代後半だが、舞を続けてきた体は、年齢より引き締まっている。
「まだやってたの」と母は言った。「もう暗いよ」
「もう少し続けます」
「夕飯の時間だけど」
「わかった。すぐに行く」
母は稽古場を覗いたまま、少し様子を見ていた。柚羽がまだ膝をついていることに気づいたのかもしれない。
「どうかした?」
「鈴の音が止まりました」と柚羽は言った。
「止まった?」
「残響の途中で。急に。それで——川の音が聞こえた気がして」
母の表情が、わずかに変わった。柚羽にはそれがわかった。驚いたのでも、心配したのでもなく、「そういうことが起きたか」という顔だった。確認したような。
「川の音が」と母は繰り返した。
「東から来る音でした。おかしいですよね、ここからは聞こえないはずで」
母はしばらく何も言わなかった。稽古場の入り口に立ったまま、奥の柚羽を見ていた。その目が、いつもより少し遠い気がした。何かを思い出しているような、あるいは何かを決めようとしているような、そういう沈黙だった。
「お母さん」と柚羽は言った。「これって、何なんですかね」
「......夕飯にしよう」と母は言った。「話しながら食べましょう」
いつもなら「古い話だ」と言って閉じる一線が、今日はその手前で止まらなかった。
柚羽は布をたたんで立ち上がった。鈴を柱に戻した。
稽古場を出るとき、東の方向を見た。山の稜線の向こうに、もう光はない。東御岳の街の灯りが、遠く低く、地平線に滲んでいた。
夕飯の間、母は話した。
霞沢家の女が鈴の音の異変を感じたのは、初めてではない、と母は言った。自分も一度だけ経験したことがある。母の母——柚羽の祖母も、若いころ同じことがあったと言っていた。川の音が聞こえた、というのも、同じだったという。
「どういうことなんですか」と柚羽は聞いた。
「東と西が、呼び合っているんだと思う」と母は言った。
「呼び合う?」
「境界が薄くなっているとき——東の力と西の力が、互いを感じようとするとき、そういうことが起きるって、うちの伝えにはある」
「境界が薄くなるのは、なぜ?」
母は箸を置いた。「それは、私にもわからない。ただ、周期があるとだけ知っている」
「周期」
「何十年かに一度、境界が薄くなる時期が来る。そのとき、霞沢の舞手は気をつけないといけない。開きすぎてはいけない」
「開きすぎる、というのは?」
「境界を必要以上に開くと、影が溢れる。この世に留まっていた影が、一度に出てきてしまう」
柚羽は箸を持ったまま止まっていた。
「今年が、その周期ですか」
母は答えなかった。答えないことが、答えだった。
「なぜ教えてくれなかったんですか」
「怖くなると思ったから」と母は静かに言った。「それと——私も確信がなかった。今年かどうか、まだわからないから」
柚羽は夕飯を終えてから、自分の部屋に戻った。
窓から東の方向を見た。遠くに、東御岳の街の灯りがある。朝光祭が終わっても、灯りは残っている。あの中に、朝比奈家がある。剣の舞手がいる。
川の音は東から来ていた。
それが何を意味するのか、まだわからない。でも、一つだけわかったことがある。今年の鈴の異変は、気のせいではない。そしてたぶん、東でも何かが起きている。
部室に行こう、と柚羽は思った。
明日、放課後。静馬に会いに行こう。そしてあの古文書の話をしよう。蔵で読んだこと、母から聞いたこと、鈴の音が止まったこと。整理しきれていなくてもいい。今度は整理してから行くのではなく、整理するために行く。
窓の外で、西の山の影が夜に溶けていった。




