モブは主役になれますか? ⑯
潤理の部屋に到着して、大変なことに気がついた。いろいろなことを教えられたらどうしよう。
「なに赤くなってるんだ?」
「俺には刺激が……」
「は?」
「そんな……いけません」
頭をこぶしで小突かれて、膨らんだ妄想が飛んでいった。
「なに期待してんだ。今日は話がしたいだけだ」
「そ、そうですか」
呆れられて少し残念に思った椎自身に気がつき、自分はモブだ、と言い聞かせた。そうしたら冷静でいられる。
「なに飲む? 梅酒のソーダ割りも作れるぞ」
「じゃあ梅酒をお願いします」
「オーケー。好きなところに座ってて」
好きなところもなにもわからないので座らずに、カウンターキッチンに立つ潤理に視線を向けた。なぜか男らしさが増していて見ていられない。なんとなく室内を見まわすと、以前来たときより本が増えているように感じられた。
「最近はなにか読んでるんですか?」
「面白そうと思って買って読みはじめても、どれも集中できないんだ。誰かさんのせいで」
「誰かさん?」
「そう。誰だろうな」
少し意地悪に微笑まれて心臓が甘く高鳴った。
それはもしかしなくとも椎のことだろうか。なににも集中できないくらいに想ってくれていたことに、胸が甘みに支配されて仕方がない。
グラスをふたつ持った潤理がソファをすすめてくれて静かに座る。グラスに口をつけると、しゅわっとしておいしい。煮詰まった脳みそも一緒に弾けそうだ。
「あの、主任が俺を好きとか……勘違いじゃないですか?」
ようやく行きついた答えは「勘違い」だ。そうとしか思えない。諦めないと言ったのは椎だけれど、実際に諦めなくていい状況になったら戸惑っている。
「傷つくこと言うんだな」
「す、すみません」
椎と同じ梅酒のソーダ割りが入っているグラスに口をつけた潤理は、ひと口飲んで濡れた唇を指で拭った。
「勘違いだったら楽だろうな。でも、俺の世界の中心は椎で、椎のことしか考えられないんだ」
せつなげな笑顔に胸がくすぐられた。信じられないが、潤理のこの表情は椎への思いが表れているものなのだ。
「なぜモブがそんなことに」
「好きだからだよ。椎ならモブでも主役でもいい。俺の隣にいるのは椎じゃないと嫌だ」
椎だって、潤理が隣にいてくれたら嬉しい。
水滴の浮かぶグラスをローテーブルに置き、言葉に迷うままその縁をなぞって隣を見る。目があい、椎の手に潤理が触れた。
「俺、いろいろ悩んだんです」
「そうか。ありがとう」
「なぜ『ありがとう』なんですか?」
これ以上ないくらい優しい微笑みが向けられた。拍動が激しくなり、耳に心音が響く。恥ずかしいけれど熱くなった頬を隠すこともできず、ただまっすぐ潤理を見つめ返す。
「それだけ俺のことを考えてくれたのが嬉しいから、『ありがとう』」
結果としてはよかったけれど、自分は最後の最後に思い直しただけで、ずっと潤理を諦めるつもりだった。だからお礼なんて言われると申し訳ない。
「椎が好きなんだ。ずっと俺を見てくれるのを待ってた」
「モブモブ呼びながら、そんなふうに思ってたんですか?」
つい苦笑すると、穏やかな手つきで髪を撫でられた。ゆるやかな動きに、心臓が跳ねておさまらない。
「俺は好きな子ほどいじめたい」
「ひどいですね」
この人がこんなに可愛い人なんて知らなかった。隣にある肩に寄りかかると、背中をとんとんとリズムよく叩かれる。
「捕まえていてください。モブはすぐ大多数に埋もれてしまいます」
そんな自分に戻りたいと思ったのが嘘のように、今は潤理の唯一でいたい。潤理だけの主役になりたい。
「俺には椎しか見えないけどな」
梅酒のせいではなく頭がふわふわして、気持ちが弾んで心が温かい。愛されるとこんなに幸せな気分になれるのだとはじめて知った。恋はせつなくて苦しいだけではない。
「主任が好きです。ずっと主任のそばに戻りたかった」
「早く言えよ」
肩を抱き寄せられ、さらに潤理と密着した。優しいムスクのようなにおいが椎を包む。
「言えないですよ」
「まあ、俺を奪いにきてくれたのは嬉しかったからいいか」
「あれは勢いで……」
「椎の告白、もう一度聞きたい」
横から顔を覗き込まれて頬が火照り、鼓動が異常なほどに刻まれる。今さら緊張して震える唇をぎゅっと一度引き結んでから口を開いた。
「主任が――」
「待った」
大きな手のひらで口を覆われて、椎は言葉を止める。
「『主任』はやめろ。なんて呼ぶんだっけ?」
意地悪な瞳が椎を映し、この人は本当に椎をいじめるのが好きなのだな、と呆れるが嬉しい。声が震えそうになるのを抑えて、唇が懐かしがっている呼び方を口にする。
「潤理さんが、好きです」
「俺も椎が好きだ」
頬を撫でられ、整った顔がゆっくりと近づいてくる。椎が瞼をおろすと、柔らかい唇が重なった。唇が離れたと思ったら続けてキスをもらい、頬が熱を持つ。今度こそ離れた顔を至近距離で見て、額をあわせた。
「潤理さんは最初から自分に惚れさせるつもりで、俺の恋愛指導をすると言ったんですか?」
「そうだ。椎が主役になれる恋ができただろ?」
「なんだか悔しいですが、できてます」
潤理が微笑んで椎の頭をぽんと撫でるから、椎の口もとも自然と緩んだ。好きな人の笑顔は優しさの栄養になる。
「モブにこんな本気の恋は、重すぎてつらすぎてせつなくて、幸せすぎます」
「そんなに本気なんだ?」
からかうように目を覗き込まれ、椎はふいっと視線を逸らす。
「失言です」
「なんでだよ」
力強く抱きしめられ、その背に縋りつくように腕をまわす。
こんなふうにきちんと温もりを感じられる日が来るなんて思わなかった。込みあげる涙を、唇に力を入れてこらえる。
「ほんと、椎は可愛い」
どこかとろんとした声に潤理の顔を見ると、瞼がおりかかっている。今にも眠ってしまいそうな様子なので、慌てて彼の肩を揺らした。
「潤理さん、ここで寝ないでください」
「ああ……。悪い、ずっと椎のことばっか考えてて全然眠れてないんだ」
そんなに嬉しいことを言われたら、口角があがったまま戻らなくなる。本気の恋が実ると幸せすぎて困る。
潤理の身体を支えて寝室に連れていく。ベッドに寝かせようとしたら、なにもないところで躓いた。どさりとふたりでベッドに倒れ込む。
「椎……」
シーツの上できつく抱きしめられ、これはまずいと身体を離そうとするがびくともしない。頬が熱くなって、湯気が出てもおかしくないくらいになっている。
「潤理さん、だめです。まだ早いです」
「ん……」
「潤理さん?」
顔を見ると、潤理はすでに寝ていた。椎は鼓動を早くしながら、仕方ないな、とその腕に頬を寄せた。
「潤理さん、ありがとうございます。俺、主役になれました」
聞こえていないだろうな、と思ったが、潤理の口もとが緩んだ。それが嬉しくて何度も「ありがとう」と囁いた。
「え……」
「おはようございます」
朝になって起きた潤理が椎を見て驚いている。ひと晩同じ体勢で、今も椎は彼の腕の中だ。
「えっと、あれ……俺?」
慌てたように椎を捕まえていた腕がほどかれ、ほっとしながらも寂しくなった。潤理は片手を額に当ててなにか考え込んでいたかと思ったら、状況を思い出したようで「そうか、俺は……」と呟いた。
「悪い。窮屈だっただろ」
「ほどほどに」
「本当にごめん。スーツもしわになったな」
申し訳なさそうに、でも少し照れている様子が可愛くて椎は幸せを実感した。
「一度帰りますね。そろそろ始発が出るので」
「いや。車で送ってく」
彼が言葉どおりすぐに車を出してくれた。車内では特に会話はなかったけれど、空気が穏やかだった。
帰宅してシャワーを浴びる。朝食を済ませて着替え、出勤する。
いつもの職場、いつもの顔ぶれ。それなのに椎には世界が違って見える。
「おはよう、森部」
潤理が微笑んでいる。この人は椎の本当の恋人だ。




