モブは主役になれますか? ⑮
事務部に駆け込んだ椎に、デスクに腰を預けている潤理が驚いたような顔をする。
「森部? どうし――」
「主任、好きです!」
勢いのまま抱きつく。しっかりと受け止めてくれた腕に安堵して、大好きな人の顔をまっすぐ見あげた。
「もう嫌です。こんなにつらくて苦しいなんて、耐えられないです」
「椎……?」
「それでも俺は主任を諦められません」
目を見開いた潤理が、信じられないものを見るように椎を視線で捕まえる。恥ずかしくなるほど真剣な瞳に、椎は一度唇を引き結んで気合いを入れてから言葉を続けた。
「昼休みに主任が今出ていった男性と話しているのを聞きました。他の人に恋愛指導なんてしないでください。ずっと俺だけ見ていてください……!」
一気に言いきった椎を、やはり驚いた表情で見つめる潤理はなにを思っているだろう。
振られるかもしれない。振られる未来しか見えない。
それでもこの人を諦めたくない。モブだからとここで引いたら、絶対に一生後悔する。潤理が奪われそうになったら奪い返せと本人が言っていたのだから、そのとおりに行動したのだ。
「椎……、本当に?」
椎が一方的に抱きついていた恰好だったが、潤理が椎の背中に腕をまわす。どくんと心臓が激しく暴れはじめた。
「ようやく俺を好きになってくれたのか?」
「え?」
「ずっと待ってた」
潤理は優しく微笑んで椎の頭を撫でる。その言葉がどういう意味かわからない。
「椎のこと、ずっと好きだった」
「はい……?」
「でも椎は全然俺を見てくれないから、どうやったらこっちを向いてくれるかと必死だった」
「あの……」
なにを言われているのか本当にわからなくて潤理の顔を見あげると、その目が柔らかく細められた。黒い瞳が椎だけを見ている。
椎が望んだのはこれだ。この瞳が自分だけを映している。他の誰かではなく、椎だけを。
「椎が好きで好きで、どうしたらいいかわからなかった」
彼の目を見てはっとする。この人の瞳は、いつからこんなに雄弁になったのだろう。なにを考えているかわからない深淵はどこに行ったのか。黒い瞳が椎を切望している。言葉以上に「好きだ」と言っている。
「モブCって呼ぶとたくさん反応返してくれるからそう呼んでたけど、主任以上には見てくれないし」
「はい?」
「いつもチョコ食べてるから好きなんだろうと思ってチョコあげ続けてもいい反応が返ってこないから、椎の恋愛対象になるにはどうしたらいいか、すごく悩んでた」
「……話が見えないのですが」
彼の揺れる瞳が饒舌に語っているが、それをまだ信じられなかった。彼の口から出る言葉がすべて、あまりにも現実離れしている。椎のリアルにはありえない言葉ばかりが紡がれていて、目がまわりそうだ。
頭の中がごちゃごちゃになっている椎に困ったような笑みを向ける潤理は、とても嬉しそうに見える。優しく手を取られ、肩が跳ねた。
「俺の中で主役はずっと椎だったってことだよ」
潤理の言葉を頭の中で繰り返す。
「なぜ⁉」
「言っただろ。飾らなくて真面目な椎が好きだって」
「だって、主任の好みは前の恋人のような人で……」
「なんであいつのこと知ってるんだ?」
潤理が訝るように椎の顔を覗き込むので慌てて頭を引く。正直に答えても怒られないだろうか。一瞬悩んで、この人に嘘はつきたくない、と口を開いた。
「前に主任の部屋に行ったときに来たお客さまですよね? すみません。ちょっと盗み聞きして、姿もちらっと見ました」
「だから客じゃない。そうか、聞かれてたのか……。悪かった」
なぜか潤理も謝る。椎が疑問符を浮かべると彼は深く嘆息した。
「若気の至りっていうか、ああいうのが好きだったときがあったんだ。気を悪くしたよな」
「あの方、俺のこと知ってましたよね? どこかでお会いしたんでしょうか」
「車でこの辺り通ったときに、公園でランチしてる俺たちを見たらしい」
それで椎の外見を知っていたのか、とひとつ納得した。でも本題がまだ残っている。
「主任はああいう人が好みなんじゃ……?」
「好みなんて変わるだろ。今の俺には椎しかいないんだ」
「えっと……」
「モブ顔モブ思考が好きって言ったけど、本当は椎をモブなんて一度も思ったことない。椎は可愛い」
そんな話ははじめて聞いたし、信じられず唖然としてしまう。それでも潤理の本音は椎の胸を甘く揺らした。
「な、なんですか。それ」
ようやく状況が理解できてきたら、まだ抱きついたままでいたのが恥ずかしくなった。慌てて離れると潤理は残念そうにしたが、今はそれどころではない。
火が出そうなくらい猛烈に頬が熱くて目が泳いでしまう。じっとしていられず逃げ出したいけれど逃がしてくれる人ではないことは椎がよく知っている。両手を包まれ、いつも温かった彼の指先が嘘のように冷えていることに驚く。緊張しているのだろうか。顔を見あげると、真剣な瞳が椎をとらえた。
「椎の中で俺はモブだったから、主役として見てもらえるように頑張った」
「……主任がモブ……」
潤理がモブなんてありえない。けれど、たしかに以前の椎の人生にとってはあまりに別次元の人だったので、そうだったかもしれない。会社で会う人のひとりとしか考えていなかった。
「な、なにを……。だって俺が主任を好きになったら恋愛指導は終わりだって……」
「椎が俺を好きになったら、本当の恋人になるんだろ?」
本当の恋人になる…………。
「はあっ⁉」
情報の許容量を超えて脳がパンクしそうになっている。なにがどうなってそうなるのだ。潤理が話してくれた内容があまりに椎からかけ離れたものすぎて理解できない。ずっと椎が主役だった……本当の恋人――。
「俺ははじめて椎に会った瞬間から、ずっと椎しか見えてなかった」
「そんな……」
「椎にゲイか聞いたのも、社内で可愛いって騒がれてる女性社員が近づいてもぴくりとも表情変えないから、そうだったらいいなって願望から言ってみただけで、本当は仲間なんてわからない」
「願望……」
それはありなのか、そんなことがあっていいのか。自分にこんなことが起こっていいのか。
「俺、苦しくて……」
悩んで苦しんだ時間を返せと言って実際に返してもらいたい。ここはまっすぐ文句を言うのが正しい、と潤理を睨みつけた。
「なん――」
「ああっ!」
突如、潤理でも椎でもない大きな声が部署内に響き、声のもとに顔を向ける。先ほど事務部を出ていったあの男性社員が戻ってきていた。潤理に手を包まれているというまずいところを見られた焦りに冷や汗をかく。それに、この人のことが解決していない。
「まだ残ってたんですか!」
「悪い悪い。すぐ帰る」
なぜか潤理に対して怒っている男性に椎は状況が読めず、潤理と男性を交互に見る。潤理はまったく悪びれずに口先だけで謝っている。
「行くぞ、森部」
「え……え?」
背中を押されて部署をあとにする潤理と椎を、男性は険しい表情で見送っている。どこか恨みがましく見えるのは気のせいではない。
「あの男性、次の恋愛指導の人では……?」
「そんなわけないだろ」
「えっ」
それならばいったい誰だろう。他部署の人と個人的な用事で話していたのか。
「人事の社員だ。最近俺の残業が多いって人事部から指導受けてたんだよ。勤怠につけてないのにどこかから嗅ぎつけられて」
「人事……?」
指導は指導でも、恋愛指導ではなく人事指導――力が抜けた。
「そんなに仕事が詰まってましたか?」
「帰っても悩んでつらいだけだから、急ぎじゃない仕事しながら椎のこと考えてた。なにを思ってるんだろう、なにを感じているんだろうって」
ビルを出たところで潤理が手を握ってきた。素直に甘い拍動を響かせる心臓に、椎はくすぐったくなる。もうこのどきどきを隠したりごまかしたり、逃げたりしなくていい。ただまっすぐに受け止められる。
「ちゃんと話がしたい。うちに来ないか?」
真剣な表情が街灯の明かりに照らされて、妙に色っぽく見えた。
「モブを誘うとは」
「モブじゃないだろ。俺の主役は椎だけなんだよ」
潤理のような男の主役が椎なんて、まだ信じられない。冗談と言われても受け入れるだろう――それなりに怒るけれど。
でも潤理の瞳はそれが真実だと教えてくれる。
「お供します」
「よし。行くぞ」
「手はつなぎません」
潤理の手のひらから逃げて、駅に向かって歩き出す。
今朝、この道を歩いたときに絶望がいつまでも続くと思っていたのが嘘のように、晴れた心で潤理の隣を歩いた。




