モブは主役になれますか? ⑭
今日も一日が始まる。潤理からの連絡はまだ途絶えないので無視を続ける。椎はもう主役ではないのだ。大多数に埋もれて、いるかいないかわからない自分に戻る。
会社までの道のりが長い。慣れた十分の通勤電車も、最寄り駅から社ビルまでも、異常に長く感じる。こんなに重たい気持ちで出勤する日が続くのかと思うと、それだけで落ち込む。
「おはようございます」
潤理がデスクにいて、慌てて目を逸らして挨拶だけ口にする。顔を見たらつらくなるから、最近はその姿をきちんと見ていない。
「おはよう」
返ってきた低い声は静かだ。怒りを隠しているのかもしれないし、呆れているのかもしれない。
それでも主役には戻りたくない。あの位置は選ばれた人だけがつくべきなのだ。身にそぐわないことをすると痛い目を見ることを学んだ。
無感情に淡々と仕事をこなし、昼休みになった。潤理から視線を感じても気がつかないふりをする。
あれほどスムーズに進んだ仕事がうまくいかない。何度確認をしてもミスがあって、椎をどこまでも落ち込ませた。
昼休みになったので急いでパソコンをシャットダウンする。のんびりしていると、あの人は絶対に声をかけてくる。
「森――」
「ランチ行ってきます」
逃げるように部署をあとにする。声をかけられたのなんて聞こえない、聞きたくない。毎日そうやって逃げ出している椎を、もう諦めてくれていいのだ。
エレベーターの中で、彼が呼びかけてきた低い声が耳に蘇る。
どんなに距離を置いても、潤理は椎を惑わせる。またあの優しい瞳に見つめられたい、温かい手を握りたい――そんな願望が湧き起こる。早く忘れようと何度も決意して、そのたびに失敗した。
つらくても、彼を忘れるなんてできないくらいに幸せな時間だった。まるで本当に主役になれるような、そんな錯覚さえ起こす、ある意味では恐ろしい時間だ。
――今週末どこ行きたい?
優しい響きの声がまた耳の奥に蘇った。平凡なモブといるのに楽しそうにしてくれて、彼はいつも笑っていた。
思い出の場所がひとつひとつ苦しい場所になる。なんとなく入った定食屋も彼と一緒に来た場所で、惣菜の味もひとりだととても味気ない。
まわりを見ると、楽しそうにランチタイムをすごす人、ランチ中もしかめ面の人、食欲がないのか箸を持ったり置いたりしている人――様々な人がいる。今の自分はどのように見えているのだろう。
潤理と一緒に食べた定食は今日も変わらないのに――せつない。
早く忘れたい。最後のひと口を飲み込んだ。
部署に戻ると、すぐ前を歩いていた、見たことのない男性社員が潤理に近づいた。他部署の社員だ。
「また来たのか」
「指導のことです。受けてくださいね」
聞こえてきた言葉に、椎は動きが止まった。
「わかってる。しっかり受け止めるよ」
「絶対ですよ」
指導、受け止める――世界がぐらりと歪んだ。
チャコールのスーツを着た男性は綺麗な顔立ちに背が高い人で、潤理の元彼の姿が重なった。どう見ても「主役」だ。どちらも潤理よりは背が低いが、彼と並ぶと見映えがいい。
潤理は次の人を見つけたのだ。今度は椎のようなモブではなく、彼の好みにあった、きちんとした主役を選んだ。
恋愛指導なんて必要なさそうな人を受け止めて、なにを教えるのか。モブ顔モブ思考が好きだと言っていたくせに――。
話し込んでいるふたりに背を向け、また部署を出て廊下で大きくため息をついた。
引きずっていたのは自分だけだったなんて涙も出ない。それに、泣くなんてモブには似合わない。だからただ普通に、いつもどおりにするのだ。
自分に言い聞かせてデスクに戻った。
頭の中は「指導」のことでいっぱいだった。こんなことはいけないとわかっているのに潤理と昼休みの男性を頭の中で並べて、お似合いだ、と何度も嘆息した。
「お疲れ、森部」
「っ……!」
肩に手を置かれて見あげると潤理の微笑みがあった。ミディアムグレーのスーツの袖から出る手が、椎の肩に伸びている。久々にきちんと顔を見たが、目の下にはうっすらとくまができている。
「あの、まだ就業中で――」
「もう退勤時間すぎてるぞ」
「えっ」
時計を見ると、潤理の言うとおり退勤時間を三十分もすぎている。考えごとを頭から追い払うように集中していた。他の社員はすでに帰宅の途についたようで、部署内は潤理と椎以外に誰もいない。
「すみません。すぐ帰ります」
パソコンをシャットダウンして慌てて立ちあがる。
「ちょうどいいから食事に行かないか? 話がある」
「俺は話なんてありません。次の恋愛指導のお相手を誘ったらどうですか」
淡々と答える。そうしないと気持ちが爆発しそうだった。噴火するように溢れたら止まらなくなるのがわかる。
通勤バッグに私物を入れる手を掴まれ、潤理の瞳を見たくなくて顔を背ける。そこになんの感情の色も見えなかったら、椎は勝手に傷つく。
「なに言ってるんだ?」
「指導のこと、俺だけじゃなかったんですね。あんなに素敵な人になんの指導をするんですか?」
「ほんとになに言ってるんだ?」
「……主任の好みには、あの人のほうがあっているんでしょうね」
冷静に、いつもどおりで――そう思うのに顔が歪んでしまう。
忘れられないのは自分だけだった。逃げ出したくせに勝手だとはわかっているが、潤理にも椎に未練を持っていてほしかった。この人は優しいから頼まれたら断れないだけだろうと思うのに、椎は自分だけの「指導」であってほしかった。
「……!」
昼休みの男性社員が事務部に入ってきて、椎は通勤バッグを持って急いでその場を去る。
あの人はこれから潤理とふたりの時間を持つのだ。胸が苦しい。潤理が食事に誘わなくても相手のほうから来るのだから、主役同士の恋愛指導はどちらも積極的だ。地味な自分と比べて自嘲する。
どこまでも椎はモブで、そこから抜け出せない。潤理に先導してもらうばかりで、椎から自発的になにかをするなんてできなかった。
はじめて人を妬ましく思う。潤理の瞳に映る人が自分以外であることが悔しい。あの黒い瞳に映る次の人を押しのけて、自分がそこに立ちたい。
諦めるはずなのに、こんなにも次の恋愛指導の相手に嫉妬をしている惨めな自分を笑った。モブには不相応な感情だ。
足が重くて、歩いても歩いても前に進んでいる気がしない。
「……」
歩きながら考える。この結末でよかったのか、本当にこれしか道はないのか――彼に好きだと伝えていないのに諦めて終わらせて、本当にいいのか。
頭の中に潤理の姿が浮かんでは消える。その影を追いながら、なんのために潤理のそばにいたのかを考える。彼が主役にしてくれると言ったのがきっかけだが、それだけか。そこに椎の意志はなかっただろうか。
――俺が主役になれるような恋がしてみたいです。
いつかそう言ったのは椎自身だ。
彼のそばにいたい、彼を見つめていたいと願った気持ちは真実で、そこになんの偽りもない。
でも自分なんかが、という思いがやはり胸にある。
目を閉じて想像してみる。潤理があの男性に愛を囁いて、手を握って、キスをする――無理だ。そんなことは耐えられない。瞼をあげて前に出した足を一歩引いた。
本当に諦めていいのか。潤理が他の人の恋人役をやることを、「自分はモブだから」と納得できるのか。
ここまできてもまだ足がすくむ。それでも自分の気持ちに正直になるなら、答えはひとつだった。
「っ……」
引き返し、急いで事務部に戻る。
本当の気持ちに素直になることは怖い。それでも自分以外とふたりの時間なんて持たないでほしい。潤理のそばにいたい。本気の恋の前ではモブも主役もないのだ。
たとえ自分だけが忘れられなかったとしても、彼に思い出させればいい。いつも椎に微笑みかけてくれた日々を。
「お疲れさまです。忘れものですか?」
「あ、はい」
なぜか事務部の前に来たところであの男性社員とすれ違った。どういうことだろう、とその背を見てからはっとする。もう誰かと自分を比べるなんてしたくない。いくらあの人が主役でも、椎だって主役になれる。潤理が主役にしてくれると言ったのだ。
これほど彼を想っていることを伝えずに終わりたくない。
意識が前向きになったら足取りが軽くなって、視界が開けたようにすべてがクリアに見える。
潤理の瞳に映るのは、自分だけがいい。彼を誰にも渡したくない。




