モブは主役になれますか? ⑬
この恋愛指導は椎が彼を好きになったら終わる。その日が早く来るように急いで潤理を好きになるなどと宣言したが、そんなのはつらいに決まっていると今さら気がついた。好きになったら終わりなんて、潤理もひどいことを考えるものだ。ひとつ吐き出したため息は、心情と同じく重苦しいものだった。
絶対に好きになってはいけない相手だ。この関係が終わるのに恋情だけが残されるなんて耐えられない。
自覚してしまった感情の苦しさに眉を寄せる。手遅れになる前に、気持ちを切り替えないといけない。
夕暮れの街路樹の葉が初夏の風に揺れる。心地よいさざめきが聞こえて、椎はすうっと深呼吸をした。
潤理は真剣にずっと椎の恋人役をしてくれている。対して椎は、優しくされるたびに胸が痛むようになり、強張る身体が軋むのがおさまらない。もう手遅れであることは自分でもわかっている。
恋がはじまれば関係が終わるなんて残酷すぎる。潤理を好きなんてことはない――そう何度も言い聞かせても、優しくされて笑顔を見せられるとひとたまりもない。
椎を「モブ」と言う潤理が苦手だった。でも、この関係がはじまってから彼は大切そうに「椎」と呼ぶ。本気で恋人扱いし、主役にしてくれているのに喜べない。
こんなのは自分が望んだ主役ではない。椎が望んだのは、もっと甘くて楽しくて優しくて――涙が溢れそうになって、こらえるために唇を噛んだ。
甘くて楽しくて優しいのは、潤理との時間だ。夢見た主役ではなくても、彼が与えてくれた主役のほうが嬉しい。嬉しいのに、つらい。
「椎、どうした?」
潤理に顔を覗き込まれて、距離の近さに身体を引く。彼が隣にいることを失念していた。
仕事が終わり、食事に誘われて会社のビルを出たところだ。自分の足が止まっていたことにも気がつかなかった。
「ちょっと……考えごとをしていました」
「それは俺のこと?」
「……そう、です」
「なら許す」
そんなふうに無邪気に笑うので、椎の心臓は壊れてしまいそうなくらいに暴れる。潤理は椎を苦しくさせるのだから早く離れたらいいのに、それができない。
「潤理さんはどんな人が好きですか?」
聞いてから、これは聞くべきではないことだ、と後悔したが遅かった。
「好みのタイプってことか?」
「……そうです」
今さら「やっぱりいい」と言ったら変に思われるから、仕方なく潤理にあわせた。
彼の好みのタイプを椎はすでに知っている。以前つきあっていたあの人のように、見た目の整った人だ。
「真面目で飾らない人が好き。年下でモブ顔モブ思考だったらもっといい」
「それは……」
「椎のことだよ」
「……俺の、こと……」
あの男性が言っていたタイプと違う。嘘をついているようには見えないが、元彼も嘘をついているようではなかった。どちらが本当なのか、椎にはわからない。
「俺には椎しか見えないんだ」
つらくなるばかりなのに、どうしてそんなことを言うのだろう。向けられる笑顔が徐々に滲んで見えはじめる。
「椎?」
溢れそうな涙をこらえるために俯いて、手を握り込む。
「どうした?」
様子がおかしいと感じ取ったのだろう、椎を心配するような声が聞こえる。
優しい呼びかけも、心配してくれるのも、そういう役割だからだ。潤理が優しいから、練習につきあってくれているだけ。
勘違いしてはいけない。これは「恋愛指導」だ。
「ありがとうございます。こうやって一時的にでも主役になれるのは、潤理さんのおかげです」
だからもういいです――口から滑り出そうになった言葉をぐっと呑み込んだ。言えば楽になれるかもしれないが、それをしたくない。
顔を見られず、俯いたまま動けない。目を見たらその優しさから逃げられなくなる。
「はっきり言っておくけど」
低い声が空気を揺らす。ただならぬ雰囲気にゆっくり顔をあげると、険しい表情の彼と出会った。
「俺は、なんとも思ってない相手をこんなふうに言わない」
言葉を発したら、同時に悔しさからくる涙まで零れ落ちてしまいそうで、なにも答えられない。震える唇を噛んで平静を装う。
「椎だから言ってるんだ」
それは今、椎の恋愛指導をしてくれているからだ。もし他の人の指導をしていたら、その人にも同じことを言っていたはず――そう考えたら視界が涙で大きく揺らめいた。
出ようとしている言葉を止めなければいけない。この気持ちの暴走を抑えなければ――。
「椎、どうした?」
「……やめてください」
「椎?」
心配そうに椎を見つめる潤理を睨みつける。ひどく困惑した色をたたえる瞳に、歪んだ表情の自分が映った。
「『椎』なんて呼ばないでください。俺はモブです。主役なんて無理です」
一度口から出たら止まらず、溢れる感情のままに言葉を吐き出した。それはとげとげしく、口にした椎自身も痛みを伴った。
「急にどうした?」
「俺はモブでいいんです。だってモブなら、こんなに苦しくならずに済んだ……!」
主役の恋を応援して、大多数に埋もれて誰にも覚えてもらえないくらいがちょうどいい。潤理に「モブC」と呼ばれて、たまにチョコレートをもらって――そんな平凡な日々でいい。「主役になりたい」なんて、過分な願望を口にしたから罰が当たったのだ。
「モブはモブでしかありません」
「椎……」
傷ついた瞳をした潤理がじっと見つめてくる。その視線を拒絶するように顔を背けた。
吐き出してしまえば楽になれると思ったのに、どんどん苦しくなっていく。
「もう無理です。主役は降ります。本当は全然好みのタイプじゃない俺につきあわせてすみませんでした」
「椎!」
潤理を置いて駆け出す。
椎は逃げた。主役から、潤理から。
彼を好きになったと言ったら結末は同じだったのだから、せめて自分からその座を降りたい。
主役になりたいなんて、二度と考えない。
またスマートフォンの着信音が鳴っている。潤理からだとわかっていても出ない。わかっているから出ない。
逃げ出して一週間が経っても潤理は連絡をしてくる。その意図がわからない。責任感だろうか。でも主役を降りると言ったのは椎なのだから、これ以上追いかけないでほしい。
なにをするでもなくベッドに横になり、休日をやりすごす。土曜日も日曜日も、仕事のある平日だって潤理との思い出だらけだ。こうなることはよく考えればわかったはずなのに気がつかなかった――気がつきたくなくて、わからないふりをしていたのかもしれない。
仕事中には彼もいつもどおりに接してくれるが、以前のように「モブC」と呼んでくれない。椎は今、そう呼ばれるのを待っている。「潤理さん」から「苦手な一星主任」に戻ってほしい。こんなに苦しい気持ちはもう嫌だ。
しんとした部屋の空気が冷えている。あの日、おうちデートをしたときは、あんなにも温かく感じたのが嘘のようだ――深くため息をつく。また潤理のことを思い出していた。
どうやったら本当にモブに戻れるのか。時計の秒針がゆっくり時を刻むのを、ぼんやりと眺めた。




