モブは主役になれますか? ⑫
週末に潤理の自宅に誘われて、今度は彼の部屋でおうちデートとなった。休みにこれほどアクティブに動くのは椎にははじめてだ。
椎の自宅から電車で二十分ほどでついた彼の部屋は椎のところより広くて、カウンターキッチンにリビングダイニング、他に居室がふたつある。リビングダイニングのインテリアはブルー系でまとめられている。三つの本棚には本が整然と並ぶ。
「本がいっぱいですね」
「昔は狂ったように読んでたぞ」
「へえ」
本が好きなのははじめて知った。こうやって彼の新たな一面を知るたびに嬉しくなる。
リビングダイニングのふたり掛けソファに並んで座り、潤理がタブレットを操作する。
「映画観るか?」
「恋愛映画はだめです」
「じゃあなに観る?」
タブレットを渡され、配信映画の一覧を見る。スワイプしていくと動物のほのぼのした日常を追った映画があった。
「これがいいです」
「椎は動物好きか?」
「好きです」
こうやってお互いに知らない部分を埋めていくのが楽しい。
映画は子犬が産まれるところからはじまり、ほのぼののわりには泣けるシーンが多々あった。涙ぐんでいたら肩を抱かれて、その涙は引っ込んだ。突然の接触は心臓に悪い、と胸もとを手で押さえて深呼吸をする。
夕食のあとに車で送ってくれると言うので、ふたりで食事を作ることにした。メニューを相談して、コンソメを使った簡単なポトフを作ることに決める。カウンターキッチンで並んで野菜の皮むきをしていたら、くすぐったい気持ちになった。
驚くほどに温かな時間だ。以前の自分からは信じられない。
「指切るなよ」
「はい」
椎を気遣ってくれる言葉のひとつひとつに胸が高鳴る。ときおり肩が触れあい、そのたびに心拍が異常になる。
甘い時間を揺らすようにインターホンが鳴り、潤理が隣からいなくなった。少し寂しくてその背をじっと見る。
モニターを確認した潤理が椎を見てため息をつく。その表情は苦々しく歪んでいて、誰が来たのだろう、と考える。友だちにしては様子がおかしい。
「出ないんですか?」
「……出るけど」
なぜか嫌そうな顔で潤理が玄関に向かった。本当に誰が来たのだろう。
ポトフを煮込む段階になっても潤理は玄関から戻ってこなかった。あまりに長々と話し込んでいるようなので気になり、そっと玄関に行ってみた。
「俺、やっぱ潤理が好きなんだよ」
聞こえてきた言葉に身体が動かなくなった。
「今さらなに言ってるんだ」
「なあ、またやり直そう?」
来客は潤理が以前つきあっていた人だとわかり、椎はその場で立ち尽くす。これは聞いてはいけない、とキッチンに戻ろうとするのに足が動かない。
ふたりの会話が聞こえてくる。
「そんな気はまったくない。さっさと帰れよ」
「冷たいな。やっぱあれのせい?」
「あれなんて言うな」
「だってあんな地味な男」
地味という言葉で自分のことだとわかった。
なぜ潤理の元彼が椎のことを知っているのか、やり直したいというのは本気なのか――ふたりのあいだに割って入って問いかけたいことを無理やり喉の奥に呑み込んだ。
「会社の近くの公園でランチなんて可愛いことしてんだもんな。潤理らしくない」
「うるさいな」
「潤理の好みと正反対じゃん。地味で目立たない男って」
言葉のひとつひとつが胸を貫く。潤理の好みのタイプなんて知らなかった。自分がそれに当てはまらないことに深く傷ついた。
「おまえには俺みたいなのがいいと思わない?」
自信のある口ぶりの男性を、玄関に続くドアの影から盗み見る。潤理と並ぶと見映えがいい、高い身長に整った顔立ちだった。明るい髪色がとてもよくあっている。襟もとの大きく開いたグレーのシャツとネイビーのデニムを身につけた、モデルのような男性だ。
椎とは大違いで悲しくなり、慌ててキッチンに戻る。煮詰まらないように鍋の中を見ながら、つま先から凍りついていくように感じた。
潤理の好みは椎とは違う。それならばどうして恋愛指導なんてしてくれているのだろうか。聞いてはいけない会話を聞いてしまった罪悪感と疑念が胸を占める。
自分が潤理につりあっていないことなどわかっていた。でもそれをはっきりと認識させられるとつらい。ふつふつしているポトフを、ただじっと見つめる。
「椎?」
「え……」
「どうした?」
顔をあげると、いつの間に戻ってきたのか、心配そうな潤理の瞳が椎をとらえていた。頭の中を読まれないように焦りながら、それでも平常心で首を横に振る。
「いえ……。お客さまは?」
「あれは客じゃない」
ひどく憤然としている様子で、こんなに不機嫌な潤理は見たことがない。
椎は思わず目を伏せた。たとえふりでも、自分はこの人の隣にいていいのだろうか。
ポトフは椎の舌には味がしなかった。たぶん今はなにを食べても同じだ。
向かいの椅子に座る潤理はまっすぐ椎を見ていたけれど、見つめ返せない。あの男性の姿が頭の中にまわり続け、片づけのときにはお皿を割りそうになった。様子がおかしい椎を潤理が心配してくれていたが、「大丈夫」と何度も答えた。本当は全然大丈夫ではないけれど強がった。
「結局、椎にひとりで作らせたな」
「難しいことはしてないので」
「でも、椎と料理するのは楽しかった。また一緒に作ろうな」
「……はい」
帰りの車の中で、椎はずっと前だけを見ていた。潤理を見るのがつらかった。自分のような地味な男が彼と並んでいることが間違っているように感じて仕方がない。
「椎?」
それでも自然と視線が潤理に向いてしまうくらい、彼の姿を求めている。
「潤理さん」
「どうした?」
「……いえ」
ただ見つめる椎の視線に気がついた潤理が信号待ちで振り向いてくれた。少し笑んだ綺麗な表情が真剣なものに変わる。ゆっくりと顔が近づいてきて、椎はそっと瞼をおろした。
吐息が重なるように柔らかく触れるだけの感覚が唇に訪れる。すぐに顔が離れてまた運転に集中する潤理の姿をじっと見つめた。
これも恋愛指導の一環だと思うと胸が苦しい。それでも自分のはじめてのキスはこの人がいいと思った。
胸に宿る気持ちの名前を椎は知っている。認めたくなくても認めざるをえないほど、それは大きくなっている。
帰宅して大きく息を吐き出した。潤理の優しさが痛い。唇に触れ、重なった温もりを思い出す。
どうして潤理につりあう見た目を持って生まれてこなかったのか。ごちても仕方がないことだが、悔しさがこらえられない。
目を閉じたら潤理の優しい笑顔が瞼の裏に浮かび、慌てて瞼をあげた。
彼の笑顔が自分に向けられることに慣れてしまった。そんな椎をあざ笑うように今度は潤理の元恋人である男性の姿が脳裏に浮かんでは消える。
自分はあの人のようになれない。決定的に違うことは、あの人は「恋人」だったのに対し、椎は「恋人のふり」だということだ。恋愛指導がこんなにつらいものだとは思わなかった。
悔しい、悲しい、つらい――心のるつぼで感情がぐちゃぐちゃに溶けあう。
自分はモブなのに主役の階段に足をのせたことを惨めに感じた。モブでも主役になれるかもしれないと期待した心が、空気が抜けていく風船のようにみるみるしぼんでいった。




