不本意な名前で呼ばないで!
――私はリリス・ヴォルテクス。
公爵家の令嬢にして、一部では「悪役令嬢」などと揶揄される者。
……そして、先日また婚約者候補に逃げられた。
まったく、慣れっこではあるけれど、さすがに少しくたびれてしまう。
立て続けに痛手を負った私の心は少々荒み気味。
今日から都会の喧騒から離れて、ひっそりとした田舎の古びた宿で静養中。
――静養と言って聞こえはいいけれど、要するに「やさぐれ休暇」である。
干上がった心を赤ワインで強制潤滑。
澱の多い地酒めいたワインを、ボトルごと抱えて窓辺に陣取る。
そして、グラスに注いでは一口、注いでは二口。
香りも酸味も凡庸だが、舌に残る渋みがちょうどいい。
底光りする液面を眺めつつ、半分残ったボトルに「もう少しだけ聞き役を続けなさい」と命じてからグラスを置く。
窓辺に腰掛けて外を眺めていると、雨がぱらつき始めた。
「はあ……フィリップも、あっという間に逃げていったわね」
窓に映る自分の顔を見ながら、ひとりごちる。
「何が『勇敢な好青年』よ。銃撃戦に巻き込まれただけで、怯え切って尻尾を巻いて……」
ちょっと思い出すだけでも胸中にイラッとした感情が湧き上がる。
銃撃戦の最中、私を庇おうと半歩前に出たのは確かに立派だった。
――が、そこで彼の肩が震えた。
膝をがくがくさせて……
お前は生まれたての小鹿か!?と言いたい。
『心臓に生えた毛さえ抜き取る女は御免だ』だと……?
心臓に産毛しか生えていないような男、こちらから願い下げだ!
「そして問題のトーマス……婚約しようかという矢先に婚外子がいたなんて……」
続いてトーマスをまな板の上に乗せる番だ。
どういう神経をしてるのか?
世の男とはそんなものなのか……??
あれだけ「僕は野心家だ」「君と対等になりたい」と豪語していたくせに。
やっていることは不誠実そのものではないか!
しかも、最終的には砂漠へ逃げるように姿を消したとは。
「灰になっても土を肥やす」と豪語していたが、灰になる手前で自ら風に舞い上がったではないか!
ぎらぎらした眼差しが少しは魅力的だったのになぁ……
ギラギラ砂漠の太陽に照らされて干からびればいい!
「次に会ったら、本当に南方に売り飛ばしてやる……!!」
――長い年月の末、帰ってくるトーマス。
丸くなったせいか、別の事情があるのか。
リリスはそんなトーマスを許すことになるのだが……それはまた別の話だ。
◇◇◇◇
そんな調子で飲んでいると、持ち込んだワインがついに空になった。
「……あら。もうないのね」
最後の一滴をグラスに注ぎきって、赤紫の残滓を見やる。
確かにたいした味ではなかったけれど、何もないよりはずっとマシ。
もう少しだけ酔っていたかったのに……
仕方なく、私は宿の主人を呼ぶ。
暇そうにあくびをしていた主人に声をかける。
「そちらにワインの在庫はないかしら? 私、まだ飲み足りないの」
主人は、慌ててバタバタとこちらへ駆け寄ってきた。
照明の不足したランプの下で、主人は気まずそうに眉根を寄せる。
「ワインですか…… 一応あるにはあるんですが、ちょっと妙な代物でして」
「……妙?」
「はい。なんだか泡が出るようになっちまった変なワインなんですよ。お腹を壊しても保証はできねぇですよ?」
「いいから持ってきなさい」
私は即答する。
この宿は辺鄙な場所にあって、他に酒屋も見当たらない。
多少酸っぱかろうが、このやさぐれ休暇に付き合ってくれる酒なら歓迎だ。
「で、でも、やめたほうが……」
「いいから、早く。今すぐにね」
有無を言わさぬ声色で催促する。
主人は首をすくめて古びた貯蔵庫へと姿を消した。
数分もしないうちに、瓶を抱えて戻ってくる。
「こ、これがその変なワインです。なんか泡が浮かんでる……」
言われてみれば、瓶の中には小さな気泡が絶えず立ち昇っている。
「ふふ……面白いじゃない」
私は不敵に笑いながら、コルクを抜いてグラスに注ぐ。
細かい泡。
口元に近づけただけで、ほのかに甘い香りが鼻をくすぐる。
「……どれ」
一口含むと、想像よりもずっと甘みが強い。
そのうえ、舌の上でシュワシュワとした感触が弾ける。
なんとも爽快で、ちょっとくすぐったい刺激だ。
「へえ、悪くないわね。もしかすると、かなりイケるかもしれない……」
「そ、そうですか? 酢になりかけてるんじゃないかって不安だったんですけど」
主人は半信半疑そうに首を傾げている。
私はもう一口、さらにもう一口とグラスを空ける。
「おいしいわ、これ。もっとちょうだい」
「え、ええと……まだ何本かあるはずです……」
あれほど「やめたほうが」などと言っていた主人。
だが、私の勢いに呑まれたのか、その場で追加の瓶を抱えてきた。
私は満面の笑みでそれらを受け取る。
その夜はとことんグラスを傾けることにした。
◇◇◇◇
翌朝――
「頭が割れそう……」
羽根布団の中で身を縮こまらせながら呻き声を上げる。
見渡せば、床の上に空き瓶がごろごろ転がっている。
どれも昨夜の泡ワインの残骸だ。
調子に乗って飲みすぎたらしい。
しばらくベッドで耐えながら、ようやく体を起こす。
例のワインが予想外に飲みやすく、そのせいで深酒に拍車がかかった。
だが、二日酔いの苦痛の合間に、ふと記憶の中に浮かぶあの味。
――甘くてさっぱりした泡立ちの心地よさだけは鮮明だ。
「あんなワイン、初めて飲んだわ……」
私はしばらくぼんやりと瓶を見つめていた。
「なかなか美味しかったわよね……」
私は宿の主人にもう一度頼んで、残りのボトルを全部買い取って帰ることにした。
◇◇◇◇
王都の屋敷に戻った私は、早速あの泡ワインを部下たちに試飲させる。
彼らも口々に「おいしい!」と絶賛し始めた。
「リリス様、これはどうやって作られたんでしょう? 独特の泡立ちがありますね」
「私も詳しいことはわからないの。宿の主人は『失敗したワイン』としか言っていなかったけれど……」
そのまま飲めば十分美味しいが、私の頭にはある疑問が浮かぶ。
「もしかして、この泡の正体さえ突き止めれば、安定して生産できるのでは?」
そこで私は技術や調合に長けたスタッフを呼び寄せる。
この泡ワインの仕組みを調べさせることにした。
◇◇◇◇
調査の結果、どうやら「発酵の途中で封をしてしまった」こと。
そして「甘い果汁や蜂蜜が追加されていた」ことが泡の正体らしい。
宿の主人が熟成途中の樽に慌てて蓋をした。
そのうえ、別の蜂蜜酒と混ぜるような形になった。
そして偶然、発泡甘口ワインができあがったのではないか――というのだ。
「なるほどね。じゃあ、それを意図的にやってみれば再現できるわけ?」
私が問いかけると、技術者たちは大きく頷く。
「はい。甘さの調整のために蜜や果汁を足して、さらに気圧が逃げないよう密封すれば、理論上は似たようなものができます」
「なら、それを量産しなさい。具体的な設備や樽の管理にはコストを惜しまなくていいわ」
そう言い放つと、部下たちは目を輝かせて作業工程を組み上げ始める。
数週間後、テスト的に造られた泡ワインの数々が並んだ。
「こちらがやや甘口。こちらはスッキリした辛口。どれも泡が逃げにくい特殊な瓶で密閉しています」
試飲すると、いずれも爽やかな舌触り。
酒精が苦手な人でも飲みやすそう。
「これなら食前酒にもいいですわ」
「フルーツポンチと相性が良さそう」
料理人や執事たちも好評だ。
「いいじゃない。どうやらこれはビジネスになりそうね。瓶を大量に調達して、すぐに生産に入るわよ」
こうして私の新商品の発泡ワインプロジェクトは、あっという間に事業拡大の軌道に乗り始める。
そして、いざ市場に出してみると、これが大好評。
とくに若い貴族の女性や、酒に弱い人たちがこぞって購入している。
店頭には「ピリピリはじける甘いワイン」という触れ込みの看板がかかげられる。
売れ行きは急上昇。
「……本当に、仕事運だけは絶好調なんだから」
私は新たに届いた売上報告に目を通しながら、半ば呆れたように笑う。
◇◇◇◇
しかし、順調に広がる生産ラインの中で――問題は商品名だった。
試作品を並べていた技術班が頭を寄せ合い、なにやら楽しげに盛り上がっている。
「さて、ラベルに載せる正式名称を決めないとな。高級感も大事だけど覚えやすさも欲しい」
「甘くて泡が弾けるし、『恋泡ワイン』とか?」
「いやいや、ボスが失恋で見つけてきた酒なんだろ? だったら――『失恋ワイン』だ!」
瞬間、背後の扉が音もなく開く。
赤いドレスの裾がひるがえり、リリス本人が静かに現れた。
「……誰が失恋よ?」
低温のひと言に研究室の空気が凍りつく。
ふざけていた技術者たちは一斉に背筋を伸ばし、顔をひきつらせた。
「け、けっして悪気は――!」
「変な名前で呼ばないで。正式名称は『スパークリングワイン』。それ以外は却下よ」
ぴしゃりと言い切ると、リリスはくるりと踵を返す。
ヒールの音も高らかに去っていった。
技術者たちは肩を落としつつも、こっそりと耳打ちし合う。
「……でも、『失恋ワイン』って覚えやすいよな」
「内緒で呼ぶぶんには、いいんじゃないか?」
◇◇◇◇
数週間後。
王都の酒場やパーティー会場で。
「今日は失恋ワインある?」
「ああ、あの甘くて泡立つやつな!」
すっかり俗称が定着していた。
ラベルには堂々とSparkling Wineと記されているのに。
誰もが親しげに『失恋ワイン』と呼ぶ。
ついに流通帳簿にも(別名:失恋ワイン)の追記が挟まる始末である。
「不本意だわ……!」
売上報告書の備考欄にその俗称を見つけるたび、リリスはこめかみを押さえて小さく呻く。
だが、皮肉なことに――『失恋ワイン』という呼び名が話題を呼び、商品の勢いはさらに加速していた。
こうしてまたひとつ、リリスの傷心は泡と消え、財布だけが華やかに膨らんでいくのだった。