3
深夜。
王都の片隅、貧民街へと続く石畳。
暗がりに足を踏み入れれば、ぼろ建物のあちこちに浮浪者や酔っ払いの影。
所々で灯されるランプが頼りない光を投げかける。
街は臭気と湿った空気を漂わせていた。
トーマスは少しばかり鼻をすすり、私の横に並ぶ。
「……本当に人が住んでいるのか、ここは。こんな場所が王都にあるなんて」
「表からは隠された部分よ。案内役はすでに入り口付近で待機しているわ」
やがて、路地の奥で私たちは潜り口を見つけた。
そこには粗末な扉があり、見張りの男が立っている。
しかし、私の姿を見るなり、彼は明らかに慌てた様子。
――どうやら、私の素性を察しているようだ。
「リ、リリス様……な、何用で?」
「ちょっと見学したいの。――私を中へ案内しなさい」
私は静かに言うと、男は青ざめた顔で扉を開けた。
「ど、どうぞ……中へ……」
扉の先は暗い通路になっていた。
水溜まりやヘドロが足元を濡らす。
鼻を刺す腐臭が漂い、トーマスは苦い顔をする。
「ひどい臭いだ……排水溝の水が逆流しているのか?」
「ええ、魔法薬の汚水も混ざっているようね。この先に闇ギルドの拠点があるわ」
私の配下が周囲を警戒しつつ、先頭と後方を固める。
さらに奥へ進むと、視界が開けたスペースに出た。
そこには粗末な仕切りが設けられている。
木箱を積み上げて囲った中に、複数の人間が押し込められている。
(……これは)
奴隷とおぼしき者たちは疲労と衰弱の色が濃く、目に輝きがない。
肌は汚れ、服は引き裂かれている。
苦痛に耐えかねた呻き声が微かに聞こえる。
「ひどいな……まるで獣の扱いだ。これが『闇市場』というわけか」
トーマスが低く呟く。
私もその檻に目を遣り、冷たい声で答えた。
「ええ、どうやら『商売』として成立しているとは言い難いわね。――ここはただ、搾り取るだけ搾って、後は捨てる方針のようね」
「……そ、そんなものは……」
トーマスが言葉を飲み込む。
私だって不快なのは同じだ。
だが、ここに来たのは『見て見ぬふり』をするためではない。
さらに奥へ進む。
下層の薄闇を抜けると、そこだけ鉄格子が分厚く、鍵穴も二重になった区画が現れた。
粗末な檻とは対照的に、床は乾いており、干し藁も替えられている。
中には幼い子どもや十代前半と思しき若者ばかり。
「何故ここの待遇だけ違うの?」
リリスが立ち止まり、近くの看守を顎で呼ぶ。
男は目を泳がせながらも口を割らない。
替わりにリリスの配下が背後から腕を極め、短剣の刃を喉許に押しつけた。
冷えた金属の感触に看守の声が震える。
「い、命だけは……! こ、この牢は『身代金部屋』でして――」
「詳しく教えなさい」
喉をなぞる刃がほんの少し下へ滑り、血が一筋。
看守は悲鳴寸前で言葉を吐き出した。
「貴族の隠し子や婚外子を攫って閉じ込めるんです! 身代金が払われれば引き渡し、払われない『いらない子』は……ここで処分を――ひっ……!」
なるほど、本物の貴族であれば、誘拐など困難だ。
だが、婚外子や隠し子となれば話は別だ。
彼らはそういう子供を誘拐して、身代金を請求する商売をしているらしい。
頭がスッと冷えていくのを感じる。
「隠し子、ね。――もし私の夫がそんなものを作ったら、絶対に許さないでしょうね」
吐き捨てるように言い、格子に近づく。
子どもたちが怯えた目で固まる。
ひとりだけ、腕に鎖をかけられながらも背筋を伸ばして立つ少女がいた。
赤黒い汚れの奥で、微かに宝石のような青い瞳が光る。
私は膝をつき、格子越しに少女の視線と高さを合わせた。
「──あなた、立てる?」
少女は躊躇いながらも頷く。
「鍵を開けて」
声は抑揚がないのに、命令の圧だけが鋭い。
看守が震える手で解錠する。
そっと少女の手を取った。
思ったより体温が低い。
「今から私の保護下に入るわ。名前は後でいい。ついてきなさい」
自分でも理由は気まぐれとしか説明できない。
けれどなんとなく、この子を助けてしまった。
背後で誰かの吐息が乱れる。
振り向くとトーマスだった。
蒼褪めた頬、握り締めた拳。
いつもの自信家の仮面が今にも崩れそうだ。
「どうかした?」
尋ねても、トーマスはかろうじて微笑みを作るだけで言葉にならない。
(何をそんなに怯えているのかしら。──まあ、闇市に来て、狼狽えるのも分かるけれど……)
私は少女をそっと抱え起こし、配下に命じた。
「この子を外で介抱しなさい」
少女の瞳がかすかに揺れた。
トーマスの瞳も同じ色で揺れていることに、私はまだ気づいていなかった。
◇◇◇◇
やがて、傍らの暗がりからスッと人影が現れた。
掌にぶら下げているのはまだ小さい鎖付きの首輪。
――それを、まるで鍵束のようにくるくる指で回している。
「おやおや、教えたことも守れないのかな?」
薄笑いを浮かべた男は若い奴隷の髪を無造作にわしづかみにする。
そして、そのまま床に額を叩きつけた。
ぐしゃり、と鈍い音。
奴隷が痛みで喘ぐのを一瞥すらせず、靴裏で背中を踏みつける。
「頭を下げろ。客の前では『家畜』らしく振る舞えといつも教えているのにまったく……」
床に広がる生ぬるい血溜まりを見ながら、男は袖を払ってリリスに向き直った。
「わざわざいらっしゃるとは、恐れ入ります。『悪役令嬢』どの。ちょうど極上の家畜が揃ったところでしてね」
背後の檻では、鎖を引きずられた少女が悲鳴を上げた。
看守が棒で檻の格子を叩くと、怯え切った子どもたちが縮こまるのが見える。
護衛が一歩前に出かけた瞬間、男は片手をひらひら振った。
「ご安心を。皆さん高値で取引予定の『良品』です。薬の投与量にも気を遣っておりますよ。声帯を潰せば値が落ちる。骨を折るなら場所を選ぶ――心得ていますとも」
言葉の端々に混ざる愉悦。
看守が檻の鍵を開けると、脱水ぎりぎりの少年を引っ張り出す。
腕をねじり上げ、頭を踏みつけ、少年は悲鳴を上げる。
「──ほら、痛みで覚え込ませるのが一番手っ取り早い。慈善事業ではありませんのでね。毎日大変なのです」
男は血と脂汗をまとった少年を突き飛ばし、側面の樽に足を乗せて腕を広げた。
「さて、ご相談は『みかじめ料』ですかな。礼を尽くせば、我々の小商いは公爵令嬢の寛容に守られる――そう伺っておりますが?」
私は目を細めた。
自分でも、威圧的な光を宿しているのが分かる。
「あなたたちに払えるような金額、たかが知れているでしょう。それより、こんな劣悪な環境で奴隷たちを扱うなんて……ずいぶん無茶をしているようね」
私の声が冷たさを帯びると、マスターは乾いた笑い声を洩らした。
「いやいや、奴隷というものは、どうせ使い潰すのが常でしょう? 多少死なれたところで、代わりはいくらでも……」
「そう。――じゃあ、あなたも『使い潰す』のにふさわしいというわけね?」
そこで私は横目で配下に合図を送る。
トーマスが驚いたように私を見るが、私は表情を変えずに続けた。
「私も奴隷商の在り方に口を挟む気はなかったけれど……
『人的リソース』を粗雑に扱うなんて愚の骨頂だわ。
必要悪としての役割さえ果たせないなら、あなたに奴隷商を名乗る資格なんてない」
同時に、暗がりの路地に待機していた私の部下たちが動き出す。
封鎖していた出入口を固め、火種をいくつかの油壺へ落とす。
ぼっと大きな炎が上がり、それが周囲の建材に燃え移った。
「なっ、ま、まて! 何をする気だ!?」
マスターが必死に後退りする。
突然の火勢は、周囲にいた闇市の客や手下たちをパニックに陥れた。
倉庫の天井付近で火が燃え広がり、音を立てて崩れ落ちる箇所も出始める。
「あなたが正規の奴隷商と違うのは『商品』を大事に扱わないこと。むざむざ人材を殺している。――それは単なる犯罪者よ」
私が手首を振ると、配下たちが次々に動く。
逃げ惑う買い手や見張りを取り押さえる。
一部、抵抗しようと武器を構える者もいた。
が、こちらは最初から万全の布陣で臨んでいる。
短い悲鳴と怒号のあと、あっという間に制圧が進む。
「や、やめてくれ! そんな大火を放ったら、正規の市場にも被害が及ぶぞ!」
マスターが必死に訴えるが、私はちらりと燃え上がる炎を見やるだけだ。
「……もう遅いわ。まぁ、正規の奴隷市場も、私の管轄ではないから問題ないわね」
トーマスは、私のそばで唇を引き結んで何か言いたげにしている。
冷や汗が頬を伝うのが見える。
「リリス、これは……本当にここまでやるつもりだったのか?」
「ええ。中途半端に潰しても、またどこかで芽を出すだけ。一度、焼き尽くして跡形もなく壊滅させたほうが、長い目で見て得策だわ」
私の言葉が終わらないうちに、炎はさらに広がっていく。
正規市場へと続く区画にも火が回ったのだろう。
人々の悲鳴が聞こえ始め、ドッと狂乱の騒ぎとなる。
夜の闇を真っ赤に染める火柱と、黒煙が渦を巻く。
部下たちはあらかじめ準備していたルートから、奴隷たちを次々と『回収』していく。
闇市側の人間は次々に倒され、マスターは捕縛された。
火を放つ手段は数か所に分散していたため、もう誰にも止められない。
「こ、こんな……こんなバカな……みかじめ料を払うと言ったじゃないか!」
「そもそも最初から聞く耳なんて持っていないわ。――そうね、あなたには別のところで『働いて』もらいましょうか」
マスターの腕を後ろ手に押さえつけたまま、私の配下が鎖を巻き付ける。
必死に土下座をしようとするが、うまく体が動かない。
「ゆ、許してくれ! ああ、あなたには逆らいません。慈悲を……! 金ならいくらでも出す。……どうか!」
私はマスターの顔を見下ろし、冷ややかに言い放つ。
「……あなたも奴隷の立場になれば、もう少し良い奴隷商に成長できるかもしれないわよ……?」
男は怯え切った瞳でこちらを仰ぎ見ている。
まさか自分が奴隷になるなど、想像もしていなかったのだろう。
私はそのまま部下に指示を出し、男を連行させた。
――南方の過酷な鉱山、重労働を強いられる最果ての地へと『売り飛ばす』手筈だ。
◇◇◇◇
あたりは燃え盛る炎と悲鳴に満ち、修羅場と化している。
私は立ち上る黒煙を見上げながら、涼しい顔でつぶやいた。
「少しやりすぎたかしら。でも、もともと私の管理区域じゃないから、どうでもいいわ。王都はしばらく騒がしくなるでしょうけれど、最終的には奴隷市場も縮小していくでしょうね」
隣でトーマスが真っ青な顔をしている。
彼の肩がかすかに震えているのがわかる。
先ほどまで野心を燃やしていた彼が、ここまで萎縮するか。
(この光景が、彼にとってはどれほど衝撃的だったのかしら? でも……ここに来る前から様子がおかしかったような……?)
私と共に歩むなら、今後も目を背けたくなる現場に何度となく立ち会う。
それでも逃げ出さず、真正面からのみ込む胆力を、彼は持ち合わせていると思っている。
――歴代の元婚約者たちからは感じなかった強い野心を感じたから。
どうにか踏みとどまって、婚約者の席を手放さないでいてほしい。
そう願った瞬間、胸の奥で小さく灯る熱を自覚する。
……私が彼に惹かれ始めている?
そんなはずは、と首を振る。
しかし、微かな高鳴りを、否定しきれなかった。