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ウィリアム・マセリン侯爵との婚約準備は、恐ろしいほどに円滑に進んだ。
それはまるで、精密に組み上げられた二つの機械。
寸分の狂いもなく噛み合っていくかのようだった。
二つの国を跨ぐ巨大な商業網の統合計画。
複雑に絡み合う利権の調整。
貴族間の力関係を考慮した上での、新たな物流ルートの構築。
本来であれば、数年を要してもおかしくない難事業だ。
しかし、それらを、私たちはまるでチェスでも指すように、一手一手、淀みなく、そして着実に進めていく。
彼の知性は、紛れもなく本物だった。
私が提示した複雑な事業計画の意図を即座に理解する。
時には私の想像の斜め上を行く、より洗練された最適解を提示してくる。
「リリス様、この鉱物資源の輸送ルートですが、陸路ではなく、一度、中立都市の港を経由させるのはいかがでしょう。第三国を経由することで、両国の政治的緊張が高まった際の、資産凍結リスクをヘッジできます」
「こちらの繊維製品の販売網ですが、あえて寡占状態を作らず、現地の中小ギルドをいくつか保護・育成する形で参入しましょう。結果として我々の利益を守る防波堤となります」
その思考の応酬は、間違いなく快感だった。
育てようとした部下たちが、私を『崇拝』対象にしたのとは違う。
ウィリアムは、私を神格化しない。
ただ、対等なプレイヤーとして認め、その上で、全力で思考をぶつけてくる。
その知的興奮は、これまでの人生で味わったことのない種類のものだった。
――しかし。
その心地よい興奮の裏で、私の心の片隅に引っかかった小さな棘。
それは、日増しにその存在感を増していた。
彼の瞳の奥に揺らめく、あの虚ろな光。
ある日の打ち合わせの最中、私は鎌をかけてみた。
「ウィリアム。あなた、何か……身体に良くないものを常用してはいらっしゃらない?」
あくまで何気ない世間話のように。
しかし、その瞳を真っ直ぐに見据えて問いかけた。
一瞬、彼の動きが止まる。
だが、すぐに彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべ、軽く肩をすくめた。
「おや、リリス様は心配性だ。ただの気付け薬ですよ。思考を明晰に保つための、我が家に伝わる秘伝の調合でしてね」
その答えは、あまりにも白々しかった。
彼はそれ以上、その話題に触れさせようとはしなかった。
(……聞く耳を持たない、というわけね)
私の懸念は、確信へと変わっていく。
彼は意図的に、何かを隠している。
◇◇◇◇
そんな折、ウィリアムがしばらく自国へ一時帰国すると言い出した。
大規模な事業再編が完了した今、現地の最終調整が必要なのだろう。
「しばらく国を空けることになる。僕がこの国で一時的に使用していたこの屋敷だが、君に管理を任せてもいいかな? 僕の不在中、自由に使ってくれて構わないよ」
彼はそう言って、一軒の屋敷の鍵を私に渡した。
王都の一等地に立つ、壮麗な屋敷だ。
そして、彼は去り際に、悪戯っぽく笑った。
「そういえば、以前、自由の考え方について、意見を対立させることがあったね。僕は『完全な自己決定権』こそが真の自由だと主張したと思う。……僕が過ごしたこの屋敷を見てくれれば、その言葉の真髄が、きっと分かると思うよ」
その言葉は、まるで謎かけのようだった。
彼はさらに、私の心をかき乱す一言を付け加える。
「屋敷の中を見て、それでも君が望むなら、この婚約を続けよう。決めるのは君だ」
言い終えると、彼は私の返事を待たず、軽やかな足取りで去っていった。
残された私は、ただ、首をかしげることしかできなかった。
◇◇◇◇
翌日、私は護衛だけを連れ、ウィリアムから預かった屋敷を訪れた。
重厚な扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間――私は、その異様な光景に言葉を失った。
広々としたエントランスホール。
そこには、十数名の男女が、まるで打ち捨てられた人形のように転がっていた。
仕立ての良い衣服を身につけていることから、彼らも貴族や裕福な商人なのだろう。
しかし、その姿は常軌を逸していた。
突然、床に突っ伏したまま、全身を小刻みに痙攣させる男。
壁に背を預け、虚空に向かって甲高い笑い声を上げ続ける女。
そして、自らの喉を血が滲むほどかきむしり、獣のような絶叫を上げる者。
その地獄絵図の中で、屋敷の中には、嗅いだことのない、噎せ返るような甘ったるい匂いが充満していた。
「……っ! 全員、この者たちを保護しなさい! すぐに私の医療班を!」
私は即座に叫び、部下に指示を飛ばす。
私の胸に、得体の知れない、巨大な不安が渦を巻いていた。
部下たちが手際よく、錯乱した人々を保護し、別室へと運び出していく。
私は屋敷の奥へと進んだ。
全ての部屋が、同じような惨状だった。
そして、どの部屋からも、あの甘い匂いが漂ってくる。
――これは、ただの毒ではない。
人の精神そのものを、内側から破壊する何かだ。
背筋を、冷たい汗が伝った。
◇◇◇◇
翌日、私の執務室に、医療班と調査班からの報告が同時に届いた。
「リリス様、屋敷から未知の薬物が検出されました。植物性の毒だと思われますが、これまでに確認されたどの毒物と異なるものです」
「薬効を分析したところ、恐るべきことが判明しました。これを摂取すると、脳内の快楽中枢が直接刺激され、強烈な多幸感が得られます。同時に精神は極度に覚醒し、五感は鋭敏になる。いわば、一時的に超人のような集中力と活力を得るのです」
調査班の男は、ごくりと唾を飲み込み、言葉を続けた。
「しかし、その代償はあまりにも大きい。一度でもこの快楽を知った脳は、二度とそれを忘れられない。薬が切れればただひたすらに、次の快楽を求め続ける……極めて強力な、依存性を持っています」
その報告を聞いている間にも、医療班からの連絡が入る。
保護した者たちの体調が、一応は回復した、と。
私はその者たちが収容されている区画へと、自ら足を運んだ。
そこに広がっていたのは、新たな地獄だった。
彼らは鉄格子の向こうで、狂ったように叫んでいた。
「薬を……! あの薬をくれぇっ!」
「お願いだ、一口だけでいい! あの天国をもう一度……! そのためなら、金も、地位も、家族さえも捨てる!」
理性は完全に失われ、ただ、薬への渇望だけがその瞳を支配していた。
私は部下に命じ、屋敷で押収した薬を絶叫する男の一人に与えさせてみた。
男は震える手でそれを受け取ると、貪るように摂取する。
すると、あれほど狂乱していたのが嘘のように、その表情は穏やかになった。
涙と涎をだらしなく垂らし、恍惚とした表情で、ただ虚空を見つめている。
その瞳は――そう、ウィリアムの瞳と、まったく同じ色をしていた。
その瞬間、私はすべてを理解した。
ウィリアムが語った『完全な自己決定権』。
その言葉の本当の意味を。
快楽に溺れ、自ら破滅する自由。
彼はそれを肯定し、そして、この国に持ち込もうとしているのだ。
私は、直感的にこの薬の恐ろしさを理解できてしまった。
人の理性を対価に、決して満たされることのない需要を生み出す最悪の商品。
そして、これほどの莫大な利益を生む市場を、闇の商人が見逃すはずがない。
供給者はどんなリスクをも厭わず、湧き出てくる。
(これは……この薬は、駄目だ。絶対に、無くならない)
一度でもこの快楽を知ってしまえば、人間は理性を失い、ただの獣になる。
そして、この薬が異様な高値で取引されるだろう。
裏社会の資金源となり、経済を歪める。
やがては国のシステムそのものを、内側から完膚なきまでに破壊する。
戦争や革命よりも、静かで、そして恐ろしい侵略。
人の欲望そのものを兵器とした、悪魔の所業。
私は、この世に存在してはならないその薬を、静かに名付けた。
――悪魔の薬、『魔薬』と。




