4
感傷に浸っている暇など一秒たりともなかった。
この『魔薬』は私がこれまで築き上げてきた、そしてこれから築き上げようとしている秩序と安定の全てを根底から腐らせる劇薬だ。
私は即座に執務室から矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「ウィリアムの屋敷は完全に封鎖しなさい。生存者は私の組織が管理する医療施設へ極秘裏に移送して、治療と同時に薬物の影響に関する詳細なデータを収集するのよ。彼らは貴重な症例サンプルでもあるわ」
――人道的な観点など二の次だ。
まずは敵を知る。
そして管理下に置く。
それが私のやり方だ。
「それから諜報部門は総力を挙げてウィリアムが王都に滞在していた間の足取りを洗い出しなさい。彼が接触した全ての貴族、商人、その末端の使用人に至るまで一人残らずリストアップするのよ。時間はかけられないわ。今すぐに動きなさい」
私の命令で巨大な組織の歯車が凄まじい速度で回転を始める。
ウィリアムが王国に滞在していたのは、わずか数か月。その間に彼がどれだけ深くこの国に毒の根を張ったのか。
報告は数日のうちに私の元へと集まってきた。
「ウィリアム侯爵と密会していた貴族五名と商人三名の身柄を確保いたしました」
「いずれも侯爵から『気分が高揚する素晴らしい香』として魔薬のサンプルを受け取っていた模様です」
幸い、ウィリアムの滞在期間が長くなかったことと、彼が慎重に相手を選んでいたことから汚染の範囲はまだ限定的だった。
私は拘束した貴族や商人たちが収容されている部屋へと足を運ぶ。
彼らは私の姿を認めると一様に恐怖に顔を引きつらせたが、私が魔薬について尋ねた途端にその表情は一変した。
「あの薬は素晴らしい!まさに神の恩寵です!」
「リリス様、どうか我々をウィリアム様にお取次ぎください!あの薬を安定して供給できるのであれば我々はどんな協力も惜しみません!」
「あれほどの品を貴族たちの間で流行らせれば莫大な富を築ける!これはかつてない商機なのです!」
彼らの瞳は恐怖ではなく狂信的な欲望で爛々と輝いていた。
魔薬がもたらす快楽と、それが生み出すであろう莫大な利益という二つの魔力に彼らは完全に取り憑かれていた。
……仕方ないわね。
私は心の底から冷たい溜息をついた。
彼らにはもはや道理は通じない。
薬の恐ろしさを説いたところで、馬の耳に念仏だろう。
「この者たちは使用者として先の者たちと同じ施設に合流させなさい。商人たちには今後一切、この件に関わらないように我が組織の名において最大限の圧力をかけること。もちろん四六時中監視の目もつけなさい。少しでも不審な動きがあれば即座に報告を」
力には力で蓋をするしかない。私は部下に命じて部屋を後にした。
執務室に戻り、新たに作成された『魔薬関係者リスト』を睨みつける。
――これでも、全ての痕跡を辿ったわけではないでしょうね……。
ウィリアムほどの男が浅い根回しで終わるとは思えない。
水面下にはまだ私の知らない人脈が、毒のネットワークが潜んでいるに違いない。
私にとってはその「不確定要素」の存在が何よりも不快だった。
◇◇◇◇
拡散ルートの封じ込めと並行して私は製造拠点の特定を急がせた。
ウィリアムが残した屋敷には大した資料は残されていなかった。彼の頭脳は重要な情報を紙媒体で残すほど迂闊ではない。
だが手掛かりがゼロというわけではない。
私は王国の広域地図を執務室の壁に広げて思考を巡らせた。
――報告によれば魔薬の原料は特殊な植物。つまり大規模な栽培には人里離れた広大な土地が必要になる。
そして秘密裏に製造して完成品を流通させる必要がある。隣国にいるウィリアム本人とのアクセスも考えれば、国境付近かつ人の目が届きにくい場所……。
いくつかの条件を重ね合わせていく。
候補地はある程度限られてきた。
「この三国国境にまたがる山脈の麓。古くから痩せた土地として打ち捨てられて開発も進んでいない。ここなら大規模な農地を開墾しても我々の目に届くまで時間がかかるわ」
「そして、ここ。西部の湿地帯の奥にある旧時代の砦跡。こちらも誰も近寄らない広大な場所」
私は地図上の数箇所を赤いインクで囲んだ。
「この候補地を今すぐ徹底的に調査なさい。どんな些細な変化も見逃しては駄目よ」
組織の調査能力が試される。
そしてその答えは三日も経たずに私の元へともたらされた。
「ご指定の山脈麓にて不審な大規模開墾の跡を発見いたしました!」
「土壌から見たことのない植物が栽培されているとのこと。間違いありません。ウィリアムはこの地に巨大な魔薬農場を建設しようとしていました!」
報告を聞きながら私は静かに目を閉じる。
……間に合った。
最悪の事態は、まだ防げる。
だがこれは、長い、長い戦いの始まりに過ぎない。
ウィリアム・マセリンという、最も厄介で最も相性の悪い宿敵との。
私はゆっくりと目を開き、傍らに控える部下へ静かに告げた。
「出発の準備を。その毒の根は私が直々に断ち切ってあげるわ」




