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私の執務室の机には、今日も報告書の山が築かれている。
紙に踊るインクの黒は、すべて私の事業が叩き出した莫大な黒字。
しかし、その数字の羅列を眺める私の口から漏れたのは、乾いた溜息だった。
「さすがに……まずいかしら……」
事業が傾いているわけではない。
――むしろ、その逆だ。
上手くいきすぎているのだ。
私の張り巡らせた事業という名の蜘蛛の巣は。
今やこの王国全体を覆い尽くし、その心臓部さえも雁字搦めにしようとしていた。
考えてもみてほしい。
今やこの王都は、私の物流網がなければ、翌日には食料が食卓から消える。
市民が身にまとう服は、私の息のかかった紡織工場で織られたもの。
労働力の大半は、ジェームズが開発し、私の工房が生産する『魔導エンジン』と『魔導調速機』が肩代わりしている。
夜、人々がグラスを傾ける酒場の樽は、私の輸送路を通って運ばれる。
揉め事があれば、店の主は騎士団ではなく私の組織の「用心棒」を頼る。
食、インフラ、製造業、エネルギー、そして治安。
国家を構成するあらゆる要素が、リリス・ヴォルテクスと通じている。
王都だけではない。
魔導エンジンや良質な布地は、他の領地や隣国へも輸出される。
天文学的な利益となって私の金庫に流れ込み続ける。
もはや、国家予算の十倍以上の金が、私のサイン一つで動くのだ。
やっかみを持つ貴族?
とうの昔に、そんな気骨のある者は残っていない。
私に逆らうことが、社会的、経済的、そして物理的に何を意味するのか。
彼らは嫌というほど学習済みだ。
「このままでは、私が国そのものになってしまうわ……」
それは私の望むところではない。
だが、このまま野放図に組織が肥大化すれば……
いずれ誰かが私を神輿に担ぎ、「リリス様こそ、この国の新たな王に!」などと叫び出しかねない。
実際、すでに部下の一部からは、そういった視線を感じる。
(アロイスの一件で、理解者との結婚も無理な気がしてきたし……)
『慈愛の紡ぎ手』という聖人の仮面を被った男。
あの男との一件で、私の心はまたしてもささくれ立っていた。
私の事業の闇まで理解してくれる伴侶など、この世のどこにも存在しない。
そんな諦観が、胸の奥に澱のように溜まっている。
「……真面目に、王族とでも政略結婚すべきかしら」
それが最も合理的だ。
この膨大すぎる資金と商業網の一部を、名目だけでも王家に譲渡し、富を分散させる。
そうしなければ、アンバランスになりすぎた権力の天秤は、いずれ国そのものを転覆させかねない。
私の望まぬ形で。
感傷に浸るのは非効率だ。
私は思考を切り替え、執事を呼びつけた。
「王宮に使者を。至急、国王陛下にご相談したいことがある、と」
◇◇◇◇
私の使者が王宮の門を叩いた瞬間、王国の中枢は蜂の巣をつついたような騒ぎになったらしい。
リリス・ヴォルテクスからの謁見要請。
それは最高優先事項として扱われた。
国王の予定はすべて白紙に戻され、諸外国の使節との会談さえも延期。
私の謁見は、使者が王宮に到着してからわずか数時間のうちに、即日でセッティングされた。
もはや、どちらが王に謁見を願っているのか分からない。
案内された謁見の間。
本来ならば、臣下が玉座の前にひれ伏す場所だ。
しかし、重々しい扉が閉まり、人払いが行われた瞬間。
玉座にふんぞり返っていたはずの国王が、満面の笑みで駆け寄ってきた。
「いやはや、リリス殿! この度はご足労いただき、誠に痛み入りますぞ!」
その態度は大口の取引先を迎える商人のそれに近い。
私は表情を変えずに会釈を返す。
「陛下、本日はお時間をいただき感謝いたします。ご相談と申しますのは、私と王家の縁組について……」
「おお! やはり! その件ですな! 実は使者の方からお話を伺い、我が王家一同、歓喜に沸いておったのです!」
国王は手を叩いて、興奮を隠せない様子だ。
そして、声を潜め、とんでもないことを言い出した。
「早速ですが、リリス殿には、我が息子である王太子とご結婚いただくということで、よろしいですかな? もちろん、王太子の正妃の座は、今すぐにでも『空け』させますので!」
私は思わず眉をひそめた。
王太子は現在、別の公爵家の令嬢と婚約中だ。
それも、社交界では「理想のカップル」として知られるほど仲睦まじい二人。
(……空ける、ですって? さすがにそこに割り込むのは、後味が悪いと言うか……馬に蹴られて死にかねないわね)
恨みを買うのは、後々の事業展開において無用なリスクでしかない。
私はやんわりと首を振った。
「陛下、お気遣いは無用です。王太子殿下には、素晴らしい婚約者の方がいらっしゃると伺っております」
「そ、そうですか……?しかし……」
「私の目的は、あくまでヴォルテクス家の資産と権力を王家と結びつけることです。王太子でなくとも、現在、空いている王子はいらっしゃいますか?」
私の言葉に、あれほど上機嫌だった国王の顔が、一瞬で曇った。
急に歯切れが悪くなり、視線を泳がせ始める。
「あ、いや……その、空いている王子、と申しますと……現在、一人しかおりませんで……」
「結構ですわ。その方で」
「し、しかしですな! その……我が息子ながら、少々、いや、かなり出来が悪く……リリス殿のお相手には、とても……」
国王は必死に何かを言い募ろうとするが、私はそれを遮った。
ーーどうせ愛のない結婚だ。
相手が優秀だろうが愚鈍だろうが、私の事業に影響はない。
むしろ、下手に賢い相手より、飾り物として置いておける人形の方が都合がいい。
「問題ありませんわ。どうせ政略結婚ですもの。その方との縁談を進めてください」
私のきっぱりとした口調に、国王はもはや反論できなかった。
彼は安堵と、そして拭いきれない不安が混じった複雑な表情で、深く頷く。
「……か、かしこまりました。では、そのように手配を」
こうして、私の婚約はあっさりと決まった。
相手の顔も、正確な名前すらまだ知らない。
ただ、「出来の悪い王子」だということだけ。
けれど、その時はそれでいいと思っていた。
ただの形式的な結婚。
一つの事業契約のようなものだと。
まさか、この安易な決断が大惨事を引き起こすとは……
この時の私は、まだ思いもよらなかったのだった。




