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廊下に敷かれた赤絨毯の先、重厚な扉が開き、華麗な足音が聞こえた。
――リリスが到着したのだ。
前回よりも一段と映える深紅のドレスが揺れる。
肩からは透きとおった金糸のショールが垂れ、胸元には宝石が控えめにあしらわれている。
意外にも、指輪以外の装飾は少なく、むしろ指先に視線を集中させるかのよう。
「リリス様のご到着です!」
使用人が高らかに告げると、貴族たちが一斉に拍手と歓声で迎える。
ホールの照明が一段階落ち、ダウンライトが中央を照らし出す。
リリスは主役としてゆっくりと歩み出た。
――クロヴィスの存在が霞んでしまうほどの存在感。
クロヴィスは引きつった笑みを貼りつけながら、一歩前へ。
「リ、リリス様……本日はお越しいただき、誠にありがとうございます」
その声の奥に揺れる緊張を、リリスは見逃さない。
「ええ、クロヴィス侯爵。……先日はとても感激しましたわ。こんな素敵な指輪を頂いて」
こう言いながら、リリスは右手を掲げる。
確かにそこには赤い宝石がはめ込まれた指輪が輝いている。
(よかった……! 外していない!)
クロヴィスは思わず心中で安堵の息を吐く。
その一瞬、彼の顔から笑みが自然にあふれ出て、会釈の角度すら深くなった。
まわりの貴族たちは
「なんだかクロヴィス様、随分と嬉しそうね」
「リリス様もまんざらではなさそうだわ」
などと囁き合っている。
クロヴィスは壇上へリリスを誘い、軽快な口調で宣言する。
「本日は、リリス様との幸福な未来を祝うための婚約式でございます! 多くの投資家諸侯や貴婦人の皆さまにご参集いただき、私は感無量で……」
声が高まるたびに、豪奢な照明が舞台を照らし、周囲の反響も高まる。
ところが、リリスは壇上に上がっても拍手に応えず、むしろ別の方向へ視線を送る。
続いて、護衛が小さな銀盆を差し出した。
その上には、もうひとつ赤い宝石の指輪が載っている。
「……これは?」
クロヴィスは嫌な予感を覚えた。
リリスが微笑みを湛えたまま、銀盆から指輪を取り上げ、クロヴィスの左手を取ったのだ。
「せっかくだから、おそろいの指輪をつけましょう? 私だけがこんなに素敵な宝石を頂いているのは不公平だもの。クロヴィス侯爵にも、ぜひ……」
そう言いながら、その指輪をクロヴィスの薬指にはめていく。
会場中がいっそう沸き立つ。
「おお、なんとロマンチックな……!」
「素晴らしいわ。歯車が噛み合うように、指輪の輝きも対になるのね」
見守る人々の目には、求婚への返礼としてリリスがおそろいの指輪を返す最高のシーン。
クロヴィスもまた、外見だけを見ればこの上ない幸せそうな男に見える。
だが、クロヴィスの心は凍りつきそうだった。
(まさか……短時間でこんな指輪を事前に用意していただと……?)
その指輪の表面は、昨夜の自分が用意したものよりはるかに洗練されていた。
宝石の奥にも複雑な歯車飾りが透けて見える。
そしてなにより──見覚えのある魔術の痕跡を、うっすらと感じるのだ。
すぐに外そうと思った瞬間、リリスが微妙に力を込めてクロヴィスの手を握り留める。
「あら、外さないで?『あなたとおそろいの指輪』を返したのよ?」
ほんの一瞬、リリスの笑みの向こうで閃いた氷の刃。
その言葉を聞いた瞬間、クロヴィスは息が止まりかけた。
「そ、そんな……」
周囲はまだロマンチックなムードの拍手に包まれている。
リリスはクロヴィスの手を離し、壇の中央で向き直る。
そして、右手に着けた指輪を……指ごと軽く振りかざした。
一瞬、赤い宝石がきらめく。
次の瞬間、硬質な音とともに指輪が砕け散った。
宝石片が壇上に散乱し、一瞬遅れて参加者たちのざわめく。
「え? 壊した……?」
「ど、どういうことなの……?」
クロヴィスは言葉を失った。
(まさか……外すどころか、自ら砕いた!? 爆発は? 起爆装置は?)
確かに昨夜、彼女がはめていたはずの『爆薬指輪』
砕かれたそれが偽物だったと、この時になってようやくクロヴィスは悟る。
周囲の貴族や投資家らは唖然としている。
あんなに高級そうな硬い宝石が跡形もなく粉砕されるなんて……理由がわからない。
しかし、リリスはまるで何事もなかったかのように、涼やかな声を落とす。
「まあ……侯爵様の自信作、ずいぶん華奢だったのね。触れただけで崩れ落ちるなんて、錆びた歯車が散るみたいだったわ!」
その言葉に籠った棘を、クロヴィスははっきりと感じていた。
同時に、左手の薬指にある『新たな指輪』が重く感じられる。
そしてようやく観客たちにも不穏な気配が伝わり始めた。
壇上の二人を見比べ、誰かが息を呑む。
「もしかして……クロヴィス様がリリス様に渡した指輪は、何か裏があったのでは?」
あちこちで小声の囁きが連鎖反応を起こす。
クロヴィスは必死に体裁を取り繕おうとするが、何を言えばいいのか分からない。
リリスはクロヴィスの横へそっと歩み寄り、頬が触れそうな距離で囁く。
「さて、クロヴィス侯爵。――残念だけれど、この婚約は解消させてもらうわ。先ほどの指輪、あまりにも粗悪だったもの」
砂糖菓子のように甘い声が、耳奥に氷柱を差し込む。
そしてリリスはにっこり笑って続ける。
「……外したら爆発するのは知ってるでしょう? でもね、あなたが手と膝を床につけていないと、起爆機構は止まらないようにしておいたの」
クロヴィスの思考が一気に混乱する。
(な、何だそれは……? 土下座している時だけ回路が停止する仕組みだと?)
「今、あなたが立っているせいで、指輪は常に起動中。起爆するのは時間の問題ってことかしら?」
クロヴィスは「ぐ……」と声にならない叫びを漏らす。
それを見てリリスは、さらに畳みかけるように微笑む。
「床に手と膝をついて私に婚約解消と許しを請うべきでは?……そうすれば、声紋で解除してあげるかもしれないわよ?」
ささやきは低く、凍てついた響きがクロヴィスの耳を打つ。
彼はためらいを飲み込み、震える脚を折った。
――ドサリ。
深紅の絨毯に額が触れる土下座。
ホール中がざわめき、ワイングラスの揺れる音さえ止まる。
「リリス様……! ど、どうか……婚約を……婚約解消を……お願い申し上げます!」
床に手を突き、声をふり絞る。
婚約式のはずが、一転して解消の嘆願だ。
気づけば、会場中が異様な空気に包まれている。
「ひどい! 先程まであんなに情熱的に求婚していたくせに、婚約解消を望むだなんて……!」
リリスはわざと泣きそうな声色を作り、周囲に向けて悲嘆を訴える。
クロヴィスは抵抗しようにも、下手に立ち上がれば起爆する恐怖がある。
「い、いや……それは……!」
声は上ずり、額に汗がにじむ。
「いいんですよ、クロヴィス様。私がそんなに嫌なら……この婚約、解消して差し上げますわ……」
リリスは声を震わせてみせる。
だが、その瞳には冷静な光が宿り、クロヴィスのすべてを見透かしている。
「どうか、解消を……してください……!」
クロヴィスは追い詰められた獲物のように叫ぶしかない。
その光景が、招待客たちにはどう映るか――
十人いれば十通りの解釈がある。
「あら、リリス様がかわいそう……」と同情する者もいれば、
「クロヴィスが仕掛けた罠を返り討ちにされた」と真相を察する者も多い。
そもそも、リリスは裏社会の大物。
貴族ならば薄々感づいている場合も少なくないのだ。
わいわいとざわつく投資家たち。
特に慧眼の者たちはクロヴィスの怯え切った表情から「完全に敗北したな」と確信する。
「こりゃ、出資金は回収したほうがいい」
「今からでも間に合うぞ」
そんな囁きが飛び交い、ひそやかに引き上げの動きが始まっていく。
観客席の最前列から、あるいは奥のほうから、契約書を仕舞い込み始める者たち。
クロヴィスにとっての数少ない支援者は、ここで雪崩のように離れていく。
やがて、王都で名高い銀行家までもがこの会場を後にする。
祝宴のシャンデリアが暗澹とした影を作り出す。
グラスを持った給仕たちだけが取り残され、ホールには葬式のような静寂が落ちる。
中央ではリリスがすらりと立ち、クロヴィスが土下座のように伏している。
そのまわりの床には、砕かれた赤い宝石の破片が散乱。
――華々しい婚約式のはずが、一転して凄惨な図となっていた。