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最後の客が去り、扉が閉ざされた。
リリスはふう、と大きく息を吐く。
先ほどまで流していた『女芝居』の色は消え、冷たい眼差しだけがクロヴィスに注がれた。
「さて、出資者もいなくなった。私を花嫁にする夢も終わり。困ったわね、クロヴィス侯爵」
クロヴィスはなおも手を床についたまま、必死に許しを乞う。
「……婚約は解消した。指輪も解除してもらえるのか……?」
リリスは首を横に振る。
「解消はしたけれど、あなたの負債はどうなるの? ギアフォード家が抱えた借金や未払い賃金……出資者がいなくなった今、首が回るかしら」
「そ、それは……」
クロヴィスの唇が震え、歯が鳴る。
出資者たちが全員引き上げてしまった以上、資金繰りはもう不可能だ。
破産するばかりか領地まで差し押さえられるだろう。
もはや貴族としても終わりだ。
リリスがすっと屈み込んでクロヴィスの耳元に唇を寄せる。
「大丈夫よ、私があなたに手を差し伸べてあげる……」
微笑を携えつつ、リリスは続ける。
「もちろん、引き換えにあなたの領地の工房と、そこにいる技師たちは全部私のものにさせてもらうけれど?」
クロヴィスはがくりと肩を落とす。
――工房はギアフォード家の宝。
精密な時計技術を誇りとし、職人たちの技と特許が詰まった場所。
クロヴィス自身も、その工房によって、今まで贅沢に生きてこられた。
それを失うということは、力を完全に失うということ。
「し、しかし、工房と技師まで……私に残るのは……」
「命と爵位は残るかもしれないわよ?」
言葉尻に優しげな響きを混ぜつつ、凍えるような現実を突きつける。
クロヴィスは絶望と安堵を混ぜ合わせた表情でしばらく沈黙する。
「わかりました……私の工房を、すべて……お譲りします……」
その言葉が出た瞬間、リリスの背後で待機していた部下たちがすぐに動き出す。
契約書の束を取り出し、領地や工房の譲渡などを整理した書類を並べていく。
「では、こちらに血判を。あらかじめ準備してあるから手続きもすぐ済むわね」
リリスは淡々と微笑む。
「いつこれを用意したんだ……?」
こんなもの、クロヴィスの資産を事細かに調べなければ作れない。
クロヴィスは恐ろしげにその束を見やる。
リリスはわざわざ答えない。
──最初から、この結末は決まっていたことなのだ。
◇◇◇◇
かくして、クロヴィス侯爵は一夜にしてすべてを失った。
翌朝には工房や技師たちがリリスの管理下に置かれることが正式に発表される。
クロヴィスの債務不履行も合わせて記録される。
「婚約式の大失敗」として王都中が噂するところとなり、ギアフォード家の名声は地に落ちる。
しかし、負債と爆薬指輪を抱えたクロヴィスには反論の余地はない。
接収した工房では、専門技師たちが戸惑いつつも意外なことに安堵を覚えていた。
「クロヴィス様の気まぐれで商品を修正するのは大変だった」
「リリス様は報酬面で期待できそうだぞ」
リリスは持ち前の財力と組織力で工房の運営体制を一新し、時計技術や歯車加工の職人たちを丁重に迎え入れた。
「給料は倍、休暇も保証する。――代わりに、魔導エンジン関連の新技術開発に協力してもらうわ」
条件は明快で、工房の生産効率はたちまち跳ね上がった。
そしてリリスはジェームズと共に、新たな開発に着手した。
歯車式の精密な計時技術を魔導エンジンに組み込む装置――『魔導調速機』だ。
速度制御や稼働リズムを最適化し、汎用性を飛躍的に高める狙いだ。
「今までは魔鉱石の純度で運転が不安定な場合もあったけれど、この調速機を使えば安定した動力を得られるわ。工業区の設備や都市のインフラにも展開できる」
リリスが横目でジェームズに確認する。
彼は図面を繰り広げながら、技師たちと打ち合わせを進める。
「はい。魔導エンジンに歯車式の時計技術を合わせれば、極めて正確な回転数を得られるはずです」
時計工房の古参職人も大きく頷く。
「歯車の精密度には自信があります。クロヴィス様の祖父の代から研鑽を積んできましたので」
こうして時計技術と魔導エンジンの融合が進み、新しい市場が拓く。
奴隷制度廃止、魔導エンジン普及、さらにはこの調速機。
王都はさらなる近代化を遂げる。
――とりわけ効果が顕著だったのは紡績だ。
調速機を組み込んだ紡織機は糸の撚りムラを激減させた。これまでにない均質な布地が次々と生産されていく。
こうして魔導エンジンと魔導調速機は、王都の繊維を支える心臓となった。
機械が脈動するたび、工房の織機は絹のような手触りの反物を繰り出す。
──やがて王都のみならず各地の都市へ。
魔導エンジンの低い唸りと調速機の歯車の音が、近代化の合図として轟き渡った。
◇◇◇◇
一方、クロヴィスは『時間』で管理される日々を送る。
首元に下げた懐中時計の内部には、小型の魔導アラームが仕込まれた。
決められた時間までに作業が終わらなければ耳障りな警告音が鳴る。
そして、首元にわずかな痛みを与えるのだ。
「こんなの、まるで家畜扱いではないか……!」
クロヴィスが嘆いてもリリスは淡々と返す。
「もともと、あなたが『人を支配する指輪』を作ったのよ。人に使うなら自分が先に試すのが筋でしょう?」
その場に居合わせた技師が進言する。
「リリス様、ここに新たに測定魔法を組み込めば、クロヴィスが睡眠不足によって精神にどのような障害を受けるか確認できますよ」
リリスは楽しげに頷いた。
「いいわね。心身がどれほど睡眠不足に耐えられるか、実験データは貴重よ!」
こうして、クロヴィスの睡眠時間は最低限しか与えられなくなる。
睡眠不足から思考能力も奪われる。
しかし、規定の作業時間になるとアラームが鳴る。
階下へ行って雑務を処理しなければならない。
「どうしてこうなった……」
カチ、コチ──。
懐中時計が一刻を刻むたび、鼓動がやけに速くなる。
秒針の跳ねるわずかな振動が神経を直撃する。
胸の奥で心拍が跳ね上がるのを止められない。
やがて警告時刻になると、あの甲高いアラームが鳴り響く。
キィン、と金属を裂くような音色が耳朶を貫いた瞬間。
クロヴィスの背中からは滝のように冷や汗が噴き出した。
喉はひゅうひゅうと痙攣し、視界が白く揺らめく。
わずかな遅延も許されぬ苛烈なスケジュール。
心身は常に極限へ追い込まれる。
ついには「時計の音」そのものが恐怖の呼び水と化してしまう。
──彼の精神は、音のたびに凍りつくように怯え続けている。
◇◇◇◇
昼下がりの工房区画で、リリスが試作の魔導調速機を視察していた。
歯車と水晶板、魔鉱石の小型炉が噛み合い安定した回転数で駆動する。
クロヴィスが無駄に贅沢を注ぎ込んだ歯車技術がリリスの手で活きる。
なんとも皮肉な結末だ。
「ふふ、上々ね。ジェームズ、しばらくはここで彼らと新製品の研究を続けて。量産ラインが整ったら私に報告してちょうだい」
「承知しました、リリス様。これが普及すれば王都の産業界にも一気に需要が広がるはずです」
「ええ。私の物流網に乗せればあっという間に隣国へも輸出できるわ」
リリスの瞳はさらに先を見据えている。
この技術は工場にとどまらず、輸送列車や船舶の航行にも応用できるはずだ。
機巧の力がリリスの支配を加速させていく。
ジェームズは図面を大事そうに抱えながら、どこか複雑そうに言う。
「にしても、クロヴィス侯爵……あの懐中時計にすべての生活時間を縛られて大変そうですね。休息すら許されないなんて……」
ジェームズの同情にリリスはゆるく首を振った。
「彼は私に同じことをしようとしたのよ。それを自分で体験してもらっているだけ」
ジェームズは「……そ、そうですね」としか返せない。
「私のほうが睡眠の限界データを取りつつ、必要最低限以上は壊さないでおいてあげるから優しいわ」
ゾッとするような笑顔でそう言い放つ。
改めて触れたリリスの本質に一瞬背筋を凍らせた。
――リリス様と会う前に、妻と噛み合っていて助かった……。リリス様の時計に組み込まれたら、一秒ごとに寿命を削られそうだ。
心の底からそう安堵する。
ジェームズにとって一秒ごとに命をすり減らす恋など、まっぴらなのであった――。
◇◇◇◇
私は工房のガラス越しに、新型の魔導調速機が規則正しく回転する様子を眺めていた。
歯車の噛み合う澄んだ音が黒字の確信を数値以上にはっきりと伝える。
帳簿は今日も潤い、部下たちの足取りは軽い。
けれど私は思わず、頬杖を突いて自嘲気味に笑った。
──気づけばまた一つ、婚約解消の記録を上書きしてしまった。
工房の権利書やクロヴィスの血判状は手許に揃う。
事業そのものは過去最高に順風満帆だ。
それなのに男運だけは、鉱石を掘り尽くした坑道みたいに乾いている。
私を爆薬で縛ろうとした時計屋など論外としても……。
世の男たちはどうしてこうも脆いのかしら。
──どこかにいないかしら。爆薬も牙もまとめて引き受け、なお退屈させない男が。
歯車の音を聞きながら、私は次の帳簿をめくった。
数字の行進は止まらない。
恋愛損益だけが、今日も真っ赤なままなのであった。
一秒ごとに寿命を削る恋なんて…… 完




