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夜明け直後、研究塔の最上階では灯火が揺れている。
隔離実験室のインターロックを開く。
作業台中央に挟まれた指輪。
赤い警告灯を淡く映している。
宝石裏面の外装はすでに剝がされ、内部が露わになっていた。
「安全化は完了した、と報告を受けたわ」
専属技師が頷く。
「起爆装置は遮断済みです。衝撃を与えても不発になります」
「感圧と解呪検知の複合信管――粗雑だけれど、拘束具としては悪くないわね」
ルーペ灯を覗く。
三層に重ねた符文字が『離脱禁止』『拒絶検知』『声紋解除』と脈動していた。
――つまり……
一度はめれば外した瞬間に起爆。
装着者がクロヴィスを拒む魔力振幅を放つだけでも爆ぜる。
そのくせ唯一の解除キーは、当のクロヴィスの声域パターンを含む音信号。
ここまで手が込んでいて、目的は「従順な花嫁の出来上がり」?
滑稽以外の何物でもない、と鼻で笑った。
「声の主を私に書き換えておいて」
ふと、思いつく。
「あと、追加で要素を入れて。身体の重心がある範囲へ沈んだ瞬間だけ回路を眠らせ、それ以外では常に起動させておいて」
技師は小箱から極小部品を取り出し、改造を始めた。
私は内心ほくそ笑む。
この指輪、細部まで手間暇がかかっている。
クロヴィスの工房が抱える技師の、技術力を強く感じる。
――そして、それをこちらが逆手に取る。
むしろ、そんな拘束具をクロヴィスに捧げる形に作り替えている。
世の中は皮肉だ。
◇◇◇◇
その『皮肉』の象徴である指輪を仕込み終えた直後。
ギアフォード邸から早朝の伝令が走り込んだ。
ギアフォード侯爵は、明日の宵に正式かつ盛大な婚約式を挙行する。
そのように王都中へ触れ回ったらしい。
会場は先日の舞踏会と同じ『機巧宮殿』
今回はさらに規模を拡大するらしい。
――噂好きの投資家たちに招待状が一斉に配られる。
クロヴィスは勝利を確信している。
爵位の面子、工房の将来、そして何より自尊心を賭けた大博打――
明日こそ、彼にとって『全ての歯車が噛み合う瞬間』になるはずだった。
けれど、その胸にほんのわずかなノイズが残っている。
昨夜、指輪を受け取った瞬間に浮かべた冷たい笑み。
氷の膜で感情を封じたようなあの表情が、どうしても頭を離れないのだ。
「いや、計画は完璧だ。あの女も指輪の力で逆らえないはずだ」
そう自分に言い聞かせても、耳の奥でリリスの足音が反響する。
――カツン、カツンと石畳を叩くヒール。
歯車が噛み合う音よりも、遥かに不気味な足取り。
クロヴィスは窓辺に置いた懐中時計を開き、脈打つ心臓の鼓動を数えた。
彼の鼓動は、まだ見ぬ『明日』に対して、かすかに震え始めていた。
◇◇◇◇
翌日の宵──
王都に残るすべての噂が、ギアフォード侯爵の婚約式へと集中していた。
機巧宮殿の門前には、まるで祝祭のように華やいだ装飾。
膨大な数の誘導灯。
招待客たちが馬車を降りるたびに自動人形がかしずく。
侯爵が資金や人脈を総動員して準備を整えたことが、この入口だけでも見て取れる。
玄関ホールに足を踏み入れると、そこかしこに金歯車のオブジェ。
それらは確かに豪華絢爛で、細工も緻密なのだが……
見れば見るほど不安定なきらめきが浮き彫りになる。
貴賓たちの視線が宝飾に惹かれつつも、どこか落ち着かない。
前回の舞踏会で奇妙な噂がささやかれていたからだ。
リリス・ヴォルテクス公爵令嬢が、クロヴィス侯爵の『歯車仕掛けの宝石』を受け取りはした。
しかし、その指輪は罠であったようにも見える。
「二人は互いに罠を仕掛け合っているのでは?」
――そんな疑いが参列者のあいだを走り回り、ホール全体へ瞬く間に広がっていった。
当のクロヴィス本人は、前回以上に胸を張り、出迎えの笑みを絶やさない。
宮殿内にはさらなる新作歯車を展示したりして意気揚々。
「やがてリリス様も到着されます。どうぞ皆さま、今しばらく歓談とご試飲の時をお楽しみください」
ワインを振る舞い、自慢の自動演奏機を鳴らし、朗らかに場を盛り上げている。
しかし、その裏側にある思惑は、まったく朗らかではない。
クロヴィスはホールの中央で、来訪客と談笑してはいる。
しかし、しばしば視線を落としては周囲を警戒していた。
――リリスに贈った、あの爆薬仕込みの指輪。
装着者が外そうとすれば、拒絶の魔力をぶつけようとすれば、それだけで起爆する。
(大丈夫だ。リリスはあの指輪を外すこともできまい。もし無理に外そうとすれば爆発する……!)
そう自分に暗示するたびに、胸の奥で不穏なざわつきが少しずつ増えていく。
――そもそもリリスが、あの仕掛けを「初めからお見通し」だとすれば?
常識的に考えれば、あの爆薬指輪は一目で見破れるほど単純ではない。
細工も起爆装置も、相当に技巧を凝らした。
しかし、リリスは社交界で「悪役令嬢」と呼ばれるほど、裏社会に詳しい。
そういった危険にも慣れきっているという噂が絶えない。
小さな蝿の羽音のような疑念が、クロヴィスの耳元を飛び続ける。
「……大丈夫だ。あのとき、指輪をはめていた……」
昨夜の舞踏会で、リリスは確かに指輪をはめていた。
あまつさえクロヴィスに手の甲を示してみせた。
あの仕草が嘘であるはずがない。
外せば起爆するのだから。
クロヴィスは必死に自分を納得させながら、客へ微笑みを投げかける。
――歯車の回転軸がグラついているとも知らずに。