1
夜明け前。
雨どいを霧雨が叩いている。報告書を睨んでいた私の手を執事のノックが止めた。
「お届け物でございます、リリス様。ギアフォード侯爵家より」
「――誰それ?」
顔を上げない私に、執事が言葉を継ぐ。
「機巧師クロヴィス=ギアフォード。精密な時計の工房を運営する侯爵でございます」
なんとなく社交界でそんな名前を聞いた気もするが……。
記憶を探る私に執事が続けた。
「最近は宝石をあしらった歯車時計を『運命の逸品』と称して売り歩いているとか」
ああ、思い出した。
「歯車時計に宝石を貼り付けて売る男ね。それで?」
名前すら覚えていなかった程度の男だ。
「ギアフォード家は昨年まで宮廷時計局に賄賂を通して時計を売っていましたが、現在は資金難で投資家を探しているようです」
「なるほど。金に困っているわけね」
執事が銀盆を差し出した。
載っているのは紙ではない。薄い真鍮板だ。打刻された招待状。
指で軽く弾くと、澄んだ高音が書斎に硬い余韻を残した。
「真鍮板に刻んで重厚さを演出したつもりでしょうけれど、ただの悪趣味ね」
そう言いながらも、目は表面の書体を追っている。
『公爵令嬢リリス・ヴォルテクス殿
三日後の宵、新型機巧の完成披露の宴を催したく――
(中略)
当夜、貴殿にはひときわ特別なる盟約を衆目の前でお願い申し上げる』
私は板を持ち上げた。意外に軽い。
この厚みにしては質量が足りない――中空構造ね。
裏へ返すと、蝶番の脇に針穴ほどの通気孔がある。
「開封の反応時間を測る仕掛けね。遅ければ『気難しい相手』と判定するつもりかしら」
金に困っている身で、投資家を値踏みしているわけだ。招待状に小細工まで仕込んで。
私は家紋入りの返礼章と、走り書きのメモを封筒にまとめた。
『出席する。条件は当夜聞こう』
資金繰りもままならない男が小細工だけは一丁前だ。
――まあいいわ。話くらいは聞いてあげましょう。
「使者に渡しなさい。――針穴の仕掛け、役に立つといいわね」
銀盆が去り、再び霧雨の音だけが残った。書類へ視線を戻しながら口元が緩む。
「時間で人を値踏みする男か。時計屋らしいと言えばそうだけれど」
◇◇◇◇
そして三日後の夜。
クロヴィスが『機巧宮殿』と呼ぶ館の大階段を踏み上がった。
――ネーミングセンスからして嫌味ね。
外灯が深紅のドレスに影を落とす。遠くでオルガン式の自動演奏機が歯車を唸らせている。
音楽まで機械任せとは、この屋敷の主らしい。
招待状どおり『新型機巧完成披露』と銘打たれた舞踏会。
滑稽な看板を横目に私は軽く息を吐く。
ホールに入ると、クロヴィスが客席を縫うように歩いていた。歯車を象った指輪を投資家たちに一つずつ配っている。
まるで露天の口上師だ。
声を張り上げるたびに指輪の紅い光石が瞬き、そのたびに拍手が湧いた。
「ご出資の証でございます!声に応じて赤く煌めくこの宝石のように、皆様の未来を同じ歯車で結びましょう!」
貴族たちは面白半分の好奇心で指輪を受け取っている。
すると彼がくるりと向きを変え、両手に黒檀の小箱を掲げている。
空気の粘度がわずかに変わった。
「リリス・ヴォルテクス様にはこちらの特別仕様を。ぜひとも永続的なパートナーシップを賜りたく存じます」
声は堂々としているが、視線が微かにぶれたのを私は見逃さなかった。
私は微笑んで受け取り、蓋を親指でわずかに押し上げる。
鉄粉と硝石の混ざった匂いが真っ直ぐ鼻を刺す。
嗅ぎ慣れた匂いだ。
――火薬……何を企んでいるの?
それ以上は顔に出さず、私は箱を閉じ会釈する。
観衆は宝石の煌めきに夢中で、私の眉尻がわずかに動いたことには誰も気づいていなかった。
◇◇◇◇
控室へ向かう途中、執事が影のように寄り添った。私は短く命じる。
「本物を保管して。偽物を五分で仕上げなさい」
それだけで執事は動いた。
裏手の小間に入ると、専属の技師が既に材料をテーブルに並べていた。
技師の手際はさすがだった。外装を被せ、鉛砂で重さを合わせ、歯車飾りで封をする。箱に戻せば本物と見分けはつかない。
五分もかからなかった。
「爆薬量は不明よ。できるだけ安全に保管しなさい」
それだけ告げて、偽物を指に滑らせた。
◇◇◇◇
控室を出ると、ホールの空気がひときわ熱を帯びていた。
クロヴィスは壇上に立ち、銀盆を高く掲げて拍手を煽っている。
私は赤いドレスの裾を翻し、中央まで進み出た。
「せっかく用意してくださったものですもの。どう、似合うかしら?」
照明が集まり、偽指輪の赤石が星の粒を映す。
クロヴィスが目を細めて近づき、姿勢を崩さぬまま私の耳元に声を落とす。
「その指輪は特別製です。私の言を裏切れば――爆ぜます。外そうとしても同様です。どうかご承知のうえで」
声は甘く、しかし湿った熱がこもっている。
私は返答の代わりに唇で淡い笑みを描き、あえて指輪をひらひら掲げた。
クロヴィスは勝利の確信を得たように壇上の中心へ戻り、胸を張る。
「諸君、今宵ここに私はリリス・ヴォルテクス公爵令嬢へ正式に婚約を申し込む!我がギアフォード家と永遠の歯車を――」
歓声が上がり、ワインのグラスが触れ合う澄んだ音が重なる。私は静かに瞬きをひとつ。
――なるほど、出資者全員の前で既成事実を作るつもりだったの……。実に姑息ね。
彼は私にだけ聞こえる声で、また囁いた。
「その美貌、そしてその偉大なる資本力。社交界で目にした時から、貴方を我がものとしたかったのだ――」
ねっとりとした彼の言葉に、頭の芯が冷えていく。
頭の中で損益表を開く。
ギアフォード領の時計技術は私の魔導エンジン事業と親和性が高い。
職人と特許だけ下げ渡させれば得られるものは大きい。
そして、結婚相手を探しあぐねていたのも事実……。
だが、切羽詰まると爆薬を仕込むほどの小物男と人生を共有?
止まった腕時計の方が、まだ有用と言うものだ。
「軸を砕き切って、歯車だけ取り上げるか……」
方針が決まった。
◇◇◇◇
「そのお言葉、光栄だわ。クロヴィス侯爵」
客席の空気がひと息に凍りつく。
リリスの艶やかな声色と、削り出した氷のような微笑。
誰も口を開けない。
拍手さえ忘れていた。
光栄と讃えられた当のクロヴィスでさえ、頰を引きつらせて襟の内側に冷たい汗を滲ませた。
クロヴィスは気づかない――彼の切り札が、既に別の箱の中で静かに眠っていることを。




