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夜明け前、錬鉄の雨どいを叩く霧雨がわずかに鳴っていた。
部下の報告書を睨みつける私を、執事のノックが遮る。
「お届け物でございます、リリス様。ギアフォード侯爵家より」
「――誰それ?」
顔を上げない私に、執事はわずかにまばたきし、言葉を継いだ。
「機巧師クロヴィス=ギアフォード。精密な時計製作が得意な工房を運営する侯爵です」
なんとなく、社交界でそんなやつを見た気もするが……
記憶を探っていると、執事が続ける。
「最近は宝石を張った歯車時計を『運命の逸品』と売り歩いております」
そこで、ようやく思い出す。
「ああ、あの歯車時計に宝石を貼り付けて売る男ね。で?」
社交界で名前も覚えなかった、趣味の悪い小物だ。
「ギアフォード家は昨年まで宮廷時計局を賄賂で取り込んでおりました。今は資金難につき投資家を探しているようです」
「なるほど。急ぎで金を欲しがっているわけね。からかったら、暇つぶしぐらいにはなるかしら?」
執事は銀盆を差し出す。
薄い真鍮板が乾いた音を立てた。
紙ではなく、打刻招待状。
私は盆の板を指で弾いた。
澄んだ高音が静かな書斎に硬質の余韻を残す。
「紙ではなく真鍮板に刻んで『重厚さ』を演出したつもりでしょうけれど、ただの悪趣味ね」
苦笑の内側で、表面の書体を読む。
『公爵令嬢リリス・ヴォルテクス殿
三日後の宵、新型機巧完成披露ならびに
資本提携契約の公示を執り行いたく――
(中略)
当夜、貴殿との永続的パートナーシップを万機の前で宣言する所存』
私は板を軽く持ち上げた。
意外に軽い。
厚みに見合わぬ質量差。
——おそらく、中空構造になっている。
裏へ返すと、蝶番の脇に針穴ほどの通気孔がひとつ。
「反応時間を測る仕掛けね。開封が遅ければ『気難しい投資家』とでも判定するつもりかしら」
詳細はどうでもいい。
クロヴィスは、分不相応にも投資家を値踏みしているようだ。
それも、招待状に細工をするという無礼を働いて。
「応対済みの印を」
指示一つで銀盆に私の家紋を刻んだ返礼章が入っている。
私は走り書きのメモと一緒に封筒に入れる。
『出席の意あり。条件は当夜聞こう』
資金繰りも上手くできない小物らしいが、小細工をするほど本気らしい。
一応、話だけは聞いてやろう。
「使者に渡して。開封は侯爵本人の前で、と念を押してね。——針穴が役立つかどうか、試させてあげましょう」
銀盆が去ると再び霧雨の音だけが残った。私は帳簿へ視線を戻しながら、小さく笑う。
「時間で人を値踏みする男か…… 『時計屋らしい』と言えばそうだけど、どんな小心者が現れるのかしら?」
◇◇◇◇
――そして三日後の夜。
クロヴィスが『機巧宮殿』と呼ぶ館の大階段を踏み上がった。
ネーミングセンスもいちいちキザで嫌味だ。
外灯が深紅のドレスに流れる影を落とす。
遠くでオルガン式自動演奏機が歯車をうならせる。
今日の主は音楽も情報集めも、なにかと機械任せらしい。
招待状どおり『新型機巧完成披露と資本提携公示』と銘打たれた舞踏会。
滑稽な看板を横目に、私は軽く息を吐く。
クロヴィス=ギアフォード侯爵は客席を縫うように歩む。
銀盆を片手に、歯車を象った指輪を一つずつ投資家たちに配って回る。
まるで露天の口上師だ。
彼が言葉を張り上げるたび、宝石に仕込まれた紅い光石が瞬き、拍手が湧く。
「ご出資の証の新型機巧でございます! 発声と共に赤く煌めくこの宝石のように、皆様の未来を同じ歯車で結びましょう!」
貴族たちは面白半分の好奇心で指輪を受け取った。
すると、壇上手前で彼がくるりと向きを変え、黒檀の小箱を両手で掲げた。
空気の粘度がわずかに変わった。
「公爵令嬢リリス・ヴォルテクス様には、こちらの特別仕様を。永続的パートナーシップを!」
クロヴィスの視線が微妙にぶれるのを見逃さなかった。
私は微笑みひとつで受け取り、蓋を親指でわずかに押し上げた。
鉄粉と硝石が混ざった匂い――嗅ぎ慣れた危険の香りが真っ直ぐ鼻腔を刺した。
(火薬……何を企んでいるの?)
それ以上は顔に出さず、私は箱を閉じ会釈する。
観衆は赤い宝石の煌めきに夢中。
私がほんの少し眉尻を動かしたことさえ見落とした。
◇◇◇◇
控室へ抜ける導線の途中、執事が影のように寄り添った。
私は短く命じる。
「本物を保管、偽物を五分で」
言葉はそれだけだが、彼の理解は早い。
裏手の小間に入ると、専属技師が薄い銀枠と赤ガラスをテーブルに並べている。
工具が跳ねる。
外装を被せ、家紋刻印を上書き。
重さを合わせるため内側に細粒の鉛砂を振り入れる。
最後に薄い歯車飾りで封をした。
物音はほとんど無い。出来上がった指輪は箱に戻されても見分けがつかない。
本物の指輪を耐爆の黒革鞄へ納めた。
「まだ爆薬量は測っていない。安全距離を確保して保管を」
とだけ告げ、偽指輪を薬指に滑らせる。
◇◇◇◇
控室を出ると、ホールの空気がひときわ熱を帯びていた。
クロヴィスは壇上に立ち、銀盆を高く掲げて拍手を煽っている。
私は赤いドレスの裾を翻し、中央まで進み出た。
「せっかく用意してくださったものですもの。どう、似合うかしら?」
照明が集まり、偽指輪の赤石が星の粒を映す。
ざわめきの中、クロヴィスが目を細めて近づき、姿勢を崩さぬまま私の耳へ囁きを落とした。
「その指輪は特別製です――私の言を裏切れば、爆ぜる。外そうとしても同様です。どうかご承知のうえで」
声は甘く、しかし湿った熱がこもっている。
私は返答の代わりに唇で淡い笑みを描き、あえて指輪をひらひら掲げた。
クロヴィスは勝利の確信を得たように壇上の中心へ戻り、胸を張る。
「諸君、今宵ここに私はリリス・ヴォルテクス公爵令嬢へ正式に婚約を申し込む!我がギアフォード家と永遠の歯車を――」
貴族たちの歓声、ワインのグラスが触れ合う澄んだ音。私は静かに瞬きをひとつ。
(なるほど、出資者全員の前で既成事実を作るつもりだったの……実に姑息)
彼は私にだけ聞こえる声で、また囁いた。
「その美貌、そしてその偉大なる資本力。社交界で目にした時から、貴方を我がものとしたかったのだ――」
ねっとりとした彼の言葉に、頭の芯が冷えていく。
頭の中で損益表を開く。
ギアフォード領の時計技術は私の魔導エンジン事業と親和性が高い。
職人と特許だけ下げ渡させれば、シナジーは大きい。
そして、結婚相手を探しあぐねていたのも事実……
だが、切羽詰まると爆薬を仕込むほどの小物男と人生を共有?
止まった腕時計の方が、まだ有用と言うものだ。
「軸を砕き切って、歯車だけ取り上げるか……」
方針が決まった。
「そのお言葉、光栄だわ。クロヴィス侯爵」
客席の空気がひと息に凍りつく。
リリスの艶やかな声色と、削り出した氷のような微笑。
誰も口を開けず、拍手さえ忘れていた。
光栄と讃えられた当のクロヴィスでさえ。
頰を引きつらせ、襟の内側に冷たい汗を滲ませた。
クロヴィスは気づかない――彼の切り札が、既に別の箱の中で静かに眠っていることを。