昭和六十二年
当時、わたしには同棲している彼氏がいたけど、いつも23時まで帰ってこなかった。
「ビール、飲む?」
こたつの上に缶ビールを二本並べると、ビデオデッキにダビングしたVHSのコピーを挿し込んだ。
テレビの画面には、モノクロの映像が映し出された。
昭和二年の風景。
駅前を行き交う人々。
背広にソフト帽をかぶった男もいれば、着物に羽織を重ねた男もいる。
女たちは縞や小紋の着物に帯を締め、髪を後ろでまとめていた。
荷車を引く男が画面を横切る。
その後ろを、幾何学模様の銘仙を着た若い女が、裾を揺らしながら歩いていく。
画面の奥には、瓦屋根の商家が並んでいた。
「興味ないって言ったでしょ」
わたしは彼女の抗議を無視してビデオを早送りする。
問題のシーンでわたしは停止ボタンを押した。
腕木門の前に立つ、稗田利八翁。
記録が確かなら、この時、すでに七十七、八歳のはずだけど、矍鑠としている。
でもわたしが見せたかったのはそこじゃなかった。
「稗田の口元が動いているのが分かるかしら?」
誰かと喋っているのだ。
よく見ると画面が切れるギリギリ隅に、ひとりの女が立っているのがわかる。
「ほら、ここ見て、稗田と話してる、この人。富子そっくりじゃない?」
「そうかな」
驚くと思ったのに、彼女の反応は薄かった。
でも、まだ二の矢がある。
「そうよ。それだけじゃない。まって」
わたしはこたつの上に、鞄の資料写真をぶちまけた。
「資料写真も大量に使うんだけど、そのなかに…ほらこれ」
その中から、フィルムの撮影時に使われたらしいスチール写真を選り分ける。
そこにも、その女性が写っていた。
「おなじ女じゃない?」
「似てる人なんて、いくらでもいるでしょう」
富子の返事はやはり素っ気ない。
けど、わたしだけは知ってる。
彼女も、この写真に映ってる女性も、すごい美人だ。
わたしはそのことを、わざわざ本人に教えてやる気にはなれなかった。
もっとも、ずっと後になってから聞いた話では、
彼女が短い期間在籍していた剣道部の部員たちも、彼女の美貌に気づいていたという。
けれど、鈴木富子は高嶺の花で、誰も声を掛けられなかったそうだ。
彼女は、入部初日に全国で優勝経験もある監督から難なく面を取った。
部内は天才の出現に色めき立ったものの、結局彼女は表舞台に立つことを拒んで、一度も試合に出ることなく、辞めてしまったらしい。
「よく見て!この横顔、ね?どう見てもあなたよ」
「そうかな」
「…わたし、思うんだけど、これって富子のご先祖じゃない?」
富子は苦笑いしながらビールに口をつけて、なにも答えなかった。
稗田利八も謎だけど、考えてみればこの富子も謎多き女だ。
忙しい日常は続く。
タイムコードや使用箇所の指定に赤鉛筆を入れ、付箋を貼る。
デスクには古文書のコピーや人物相関図、年表がうず高く積まれていた。
資料の選定も大詰め。
記録の中の池田七三郎は、鶴ヶ城(会津城)で土方歳三と袂を別った斎藤一に付き従い、会津郊外にある如来堂に陣を敷いた。
しかし慶応四年九月五日未明、
三百を超える新政府軍が、わずか二十名足らずの斎藤隊を急襲する。
この絶体絶命の危機に、池田は数名の仲間と敵の囲みを破り、九死に一生を得ている。
ここが、彼にとっての戊辰戦争におけるクライマックスと言ってもいいだろう。
けど、後世に残された彼の証言にはこの部分がすっぽりと抜け落ちてる。
「おいおい、いつまでやってるんだ」
チーフディレクターからは毎日矢の催促だ。
けど、この部分の説明があるのとないのでは、動く稗田利八の見え方はまるで違ってくるはず。
カチカチと耳障りな時計の音が、気になってしょうがない。
でも、彼の眼差しには、たしかに死線を越えた者の凄味があるのだ。
任されたからには納得いくまで調べたい。
―わたしの、その熱意は裏目に出た。
それから一か月ほど経ったころ、わたしたちはまた喫茶店で会った。
「そういえば、あれ、新選組の番組、どうなったの?」
富子はお愛想のつもりだったかもしれないけど、その質問はわたしの胸をえぐった。
「あれね、流れた」
「え?」
「権利確認とかに時間を取られてるうちに、他局に先を越されちゃって。企画そのものがなくなった」
「…そうなんだ」
富子の声には、かすかな同情が混じっていた。
わたしは、ずっと我慢していたものが急にこみ上げてきて、みっともなく泣いてしまった。
「…必死で頑張ってきて。やっと仕事を任されたのに、わたしのせいで…」
富子は何も言わず、テーブルの上の水をわたしの方へ押しやった。
「それって、本当にあなたのせい?」
「わたしがモタモタしてるうちに例の映像の存在が知られたの。後発でおなじものを使ったって新味がないでしょ?」
富子は頬杖をついて言った。
「わたしには理解できない。歴史的な事実を『発見』だなんて、変な言葉だと思わない?だって彼らの人生は、わたしたちの現在と連続してるんだよ?」
わたしはしばらく彼女の言葉を反芻して、それからなぜか笑いが込み上げてきた。
「そりゃそうかもしれないけど…」
そこまで言って、仕事が流れたことなんて、どうでもよくなってしまった。
その日から、わたしは気を取り直して仕事に打ち込んだ。
新選組の企画は立ち消えになっても、映像資料を整理する仕事はなくならない。
そんなある日、戦争のドキュメンタリーに使う映像を整理していたわたしは、そこに、また“あの”顔を見つけた。
注釈:
・VHS:家庭用ビデオテープの規格。1980年代から2000年代にかけて広く普及した。
・小紋:細かな模様を全体に繰り返し染めた着物。
・銘仙:平織りの絹織物。大正から昭和初期にかけて、華やかな柄の普段着として女性に人気があった。
・腕木門:柱の上部に腕木を渡し、その上に屋根を架けた門。武家屋敷や旧家などに見られる形式。
・矍鑠:年を取っても、心身ともに元気でしっかりしているさま。
・スチール写真:映画や映像作品の宣伝・記録などに用いる静止写真。
・斎藤一:新選組隊士。戊辰戦争では会津で戦い、後年は警察官としても活動した。
・如来堂:福島県会津若松市にある寺院。戊辰戦争末期、新選組隊士らが新政府軍と戦った場所として知られる。




