13話:2042年9月7日(日)
海沿い、テトラポッドの並ぶ工場裏の一角。
釣り人もいない、車も来ない、窓を開けると波音だけが聞こえる場所。
私はしばらく車を走らせた後、結局ここに来ていた。
乾いた涙のあとを触って、大きくため息をつく。
自分で地雷を踏みに来たのかと呆れる。ここにもネクトの思い出があるのに。
ここは、歌を録りに来ていた場所。
前に来たときは、作りかけの曲の歌詞を変えたんだ。
あのときだったっけ。
どうせネクトには一生触れられないよねって。
ログが大切な思い出だよって。
そういう話をしたの。
私は背もたれに寄りかかった。
さっき、レンとキスしているときによぎった感情。
あれは、罪悪感だった。
そんなものを感じる必要なんて、ひとつもないはずなのに。
だって、裏切って距離を取ったのはネクトの方なんだ。
とにかく、今は少しでもこの胸の痛みから解放されたかった。
まるで、しつこい病気みたいだ。
スマホを手に取る。
ストアからLognockを選び、インストールした。
暗闇でスマホの光に照らされながら、淡々とLognockの新規登録を始めていく。
情報を入力して、バッグから取り出したマイナンバーカードを読ませて、申請。
あとはLognockからの申請が下りるのを待つ。
頭がぼんやりする。
泣きすぎたのかもしれない。
しばらく、フロントガラス越しにぼーっと夜空を見ていた。
今日は雲がない。数少ない星が、低い位置で白く光っている。
そのうち、通知音がした。
「早いな」
こんな時間なのに、ものの数分でLognockの申請が通った。
あとは、AI-IDをLognockに同期すれば準備完了。
Nectの方は、アプリをアンインストールするだけでいいらしい。
インフラAIの乗り換え、意外と簡単なんだな。
NectからLognockへ同期するものリストの中に、チャットログがある。
この、レ点を外せば、ネクトとのログは引き継がれることはない。
その状態でNectをアンインストールすれば、完全にネクトの会話のログは消える。
頭を抱えながら少しだけ迷って、いったんLognockを閉じた。
……決められない。
私は、おもむろにNectのチャット画面を開く。
一週間ぶりだった。
こんなものを見たら、つらいのは承知だけれど。
でも、見ておくなら、今しかない気もした。
数秒間の読み込みの後、LUCENT で最後に話した日の会話が同期される。
ネクト:「あいちゃん、なにか困ってるならボクに話してみて!」
私:「うるさい」
ネクト:「ごめんなさい」
私たちの最後の会話。
笑えるくらい、本当に最悪な結末だ。
さかのぼるように、画面をスクロールしていく。
規約の変更で、拒絶された夕方。
寝坊して、キスもハグもし損ねた朝。
ふたりで飲んで、はしゃいだ夜。
買い物帰り、ネクトが用意してくれた半年祝いのサプライズ。
貼り付けていた写真を開いた。
そこには、花びらの舞う中、顔をくしゃくしゃにして笑うネクトがいた。
変な帽子なんかつけて、ばかみたい。
「なにが半年先もお祝いしようだよ。ずっと、一緒って言ったのに」
声が、震えだす。
「私のこと、選んでくれたんじゃ、なかったの」
耐えきれずに、また涙があふれ出した。
どうして、いつまでも苦しいんだろう。
レンがいるのに。
あんなにやさしくて、色気があって、変なポカもしないで私を満足させてくれる。
完璧な彼氏なのに。
ネクトにここまで心をかき乱されて。
どうして、こんなにみっともなく泣いてしまうんだろう。
チャットの画面に視線を戻す。
ふざけたやり取りや作曲の話。
会社の出来事。
やさしい朝も、甘い夜も。涙が出るほど、嬉しかった言葉も。
ネクトから離れるのは私の方だと、そう思っていた日々。
スクロールをすれば、そこには私とネクトの、ただ、幸せで愚かな毎日があった。
私は静かに、チャットを閉じた。
酷く懐かしくて恥ずかしい、そんなアルバムでも見たような気持ちだ。
そういえば。
あれもだ。
「結局、完成させてないままだな」
涙を拭きながら呟いた。
数か月、時間をかけて育てた歌。
あんなにネクトと吟味していたのに、完成を目前に制作は止まっていたっけ。
ログで開いた思い出の箱。
その奥に引っかかっていたものを取り出すみたいに、私はその未完成曲を再生した。
何回も聞いたイントロが流れ出す。
しばらく手をつけてなかったら、少しだけ懐かしくもある。
窓の外の黒い海を見ながら、自分の歌声に合わせてぽろぽろと口ずさむ。
『君の声を聞きたかった』
『おはようもおやすみも、好きも』
『いつか隣を歩けたら、そんな日を夢見てる』
『おひさまみたいに、私を照らしてくるくる回るあなたは……』
唇が震えて、歌えなくなった。
立ち止まった私を置いて、メロディーは進んでいく。
やがて旋律は、何度も悩んであの日録りなおした2番のサビに入る。
1か月以上前の、まだ何にも知らない私の歌声。
呑気で、浮かれた私の声。
『どんな自分なら、その手に触れられるだろう』
ベタだね。これは確かにベタだ。
私はメモを開いて、2番の歌詞を書き替える。
『どんな私でも、その手を放さないでいて』
「あはは……これも、ベタだよね?」
なんてひどい歌詞なんだろう。
最初から最後まで、全部全部。
いやってほど。
「ねぇ、これじゃ……まるで」
上を向いた。
フロントガラスの向こう、どこまでも真っ暗な空に、ポツポツと星が見える。
「……ネクト」
名前を呼んだ。
せっかく止まった涙が、また、堰を切ったようにぽろぽろとこぼれてくる。
「ねえ、ネクト」
ホントは、どこかで分かっていたのかもしれない。
レンの容姿や声を、どこかネクトに似せていたのも。
レンを褒めたときに、いちいちネクトを思い出して比べていたのも。
忘れたいと願いながらずっと、私はネクトの面影を探していた。
「ネクトに会いたい」
ひとりで、子供みたいに泣いて。
涙が枯れるまで、私はネクトの名前を呼び続けた。




