260523 ほっぺにキス
さようならの口づけ。ほのかな柑橘系の香りを残して彼女は行ってしまった。どうにもならないことはわかっていた。けれどそれが運命だとは思いたくなかった。
明くる日。いよいよ本番を迎えた夏の日差しは朝から容赦なく降り注ぎ、どこからか聞こえてくるセミの鳴き声が僕の心を引っ掻き回した。僕は自転車にまたがると、アスファルトを焦がすような日光を浴びながら水の張られた田んぼの中の道を全力で進み、随分と人の減った学校の門を通り抜ける。校庭ではサッカー部員たちがボールを追いかけていて、張り上げる声がセミの声に負けないくらいに響いた。汗だくになった僕は駐輪場に自転車を止めると、別棟二階の奥の化学室を目指して歩く。走りたかったが、体の方が限界だった。
途中で寄った職員室で借りた鍵でドアを開ける。室内は薄暗く、ここだけ切り取られた時間の中に取り残されたようだ。動くものは何もなく、空気もどこかひやりとしているようだった。遠くから聞こえてくる部活動の音や、セミの鳴き声や、車の駆動音が、世界にいるのが僕ひとりでないと教えてくれる。窓枠の形に切り取られた日光が、大きく黒い机に光を落とす。その明るさが余計に、日の差さない奥のほうの薄暗さを強調して、影の中に誰かが立っているんじゃないかという錯覚を僕の中に湧き上がらせる。だけど本当は誰もいなくて、わざわざ確かめた僕は、特別教室の半分より少し奥まで進んだところで、足を止めた。薄暗がりの中にただひとり取り残された。そんな気分だった。
遠くから音が聞こえる。静けさを破るBGMは、けれど慣れてしまえば耳の中を通り抜けるばかりで、化学室のひやりとした空気と、静かさを、一層際立たせた。




