26話 その鼓動、180につき。―― 体育館の太陽と、ダイヤモンドの原石
――一ノ瀬 光 視点――
キュッ、キュッ。
使い込まれた体育館の床と、バッシュのゴムが擦れるこの音が大好きだ。
ダムッ、ダムッ、と重く響くボールの振動が、手のひらを通じて私の心臓にリンクする。
狙いを定めて、放つ。
指先を離れたオレンジ色の球体が、綺麗な放物線を描いてリングに吸い込まれる。
――シュパッ。
ネットが跳ね上がるあの快音を聞くたびに、私の全身を心地よいアドレナリンが駆け抜ける。
「ナイスシュー、光ちゃん! 今日も絶好調だね!」
「ありがとうございます! 次、ディフェンス行きますよ!」
ポニーテールを振り乱して、私はコートを駆け回る。
高い位置で結んだ髪は、動くたびに生き物みたいにピョコピョコ跳ねて、私の機嫌をそのまま表しているみたいだって、よく言われる。
(ああ、やっぱりバスケ最高! この体育館の、ちょっと埃っぽくて、でも熱気のある匂いが一番落ち着くんだよねっ!)
私の通う社会人・学生混合バスケサークル『スカイ・ホッパーズ』。
週に二回、男女混合で夕暮れの体育館に集まって汗を流す。
一般的に男の人は「お花」みたいに大切にされている。
日焼けを嫌がって、汗を「不潔」だと顔をしかめて、女の人にエスコートされるのを当然だと思っている人たちが多い。
サークルの男子たちだって、試合になれば「怪我したら大変だし」「本気出すのって、なんかガツガツしててダサくない?」なんて言って、適当に流してプレーしている。
(正直つまんない。もっとこう、パッション! 魂のぶつかり合い!みたいなのが欲しいんだよね。男の人にそれを求めるのは、やっぱり高望みなのかなぁ……)
そんな時だった。
「……あの、すみません。今日から体験で参加させてもらうことになった、結城です」
体育館の入り口。
控えめに、でも真っ直ぐな声でそう言ったのは、一人の男の人だった。
現れたその人を見て、体育館が少しだけざわついた。身長は……私よりは高いけど、バスケ選手としては小柄な方。でも、とにかく顔が綺麗だった。ぱっちりした二重に、透き通るような白い肌。
女子メンバーたちは「すごい美少年が来た!」「モデルさんかな?」なんて色めき立っている。
結城 悠先輩。
一見すると、この世界にどこにでもいる「守ってあげなきゃいけない」タイプの綺麗な顔立ち。
(うわぁ、確かに美形……。でも、あんなに細くて色白な人、バスケなんてできるのかな?どうせ他の男子みたいに、ちょっと走ったら『疲れちゃった』とか言って休んじゃうタイプなんじゃ……)
でも、彼の持ってきたバッシュを見て、私は少しだけ「おっ」と思った。
……古いけど、丁寧に手入れされている。これは、ちゃんと走ってきた人の道具だ。
「よろしくね、結城くん。適当に混じってよ。怪我しない程度にねー」
代表の適当な挨拶で、試合形式のミニゲームが始まった。
最初は、いつもの「ぬるい」ゲームになると思ってた。男子たちが髪型を気にしながら、ふわふわと外からシュートを打つだけの、ごっこ遊び。
失礼ながら、私はそう思ってた。
でも、その予想は、試合形式の練習が始まった瞬間に、木っ端微塵に砕かれた。
「――っ!」
ルーズボールが転がった瞬間、フロアを叩く激しい音が響いた。
ドンっ、という衝撃。
悠先輩が、誰よりも早く、迷うことなく床へ飛び込んだのだ。
摩擦で焦げたゴムの臭い。
彼は滑り込みながらボールを死守し、膝を強く打ったのも構わずに、味方へ鋭いパスを繋いだ。
「え……?」
「おいおい、結城くん、ガチすぎ。危ないって」
「うわ……マジかよ。あんなに必死になって」
「顔はいいのに、なんか必死すぎて引くわ……」
他の男子たちが引いた目で彼を見ている。
でも、悠先輩は短く「すみません」と言っただけで、すぐさま立ち上がってディフェンスに走った。
その顔は、真剣そのものだった。
整えられた眉を寄せ、滴る汗も拭わずに、ただゴールだけを見据えている。
息を切らし、肺を焼くような熱さを楽しみ、泥臭く、全力で。
この世界で初めて見た、「ガチ」の男の人の姿。
ドクン。
胸の奥が、跳ねた。
何これ。
心臓が、バレーボールをスマッシュされたみたいに激しく跳ねた。
スマートウォッチが不吉な振動を繰り返しているけれど、そんなのどうでもいい。
悠先輩の、オーバーサイズのタンクから覗く、しなやかな腕のライン。
ジャンプの瞬間にキュッと浮き出るふくらはぎの筋肉。
そして、何より――あの、一点を見つめる「強い瞳」。
世の中が言う「男らしさ」なんて、私にはよくわかんない。
でも、今、目の前で汗まみれになって必死に走る悠先輩は……。
(……すごい。何、あの人。……かっこいい。えっ、待って。かっこいいかも!)
私の手首で、高機能スマートウォッチが震えた。
ピピッ、ピピッ、と警告音が鳴る。
【警告:心拍数が急上昇しています。安静にしてください】
(うるさいな、もう。これは安静にして治るもんじゃないんだって。)
悠先輩が、また一人でルーズボールに飛び込む。
膝を擦りむいて、白い肌に赤い滲みを作っても、彼はちっとも止まらない。
「ナイスルーズボールです、先輩っ!」
自分でも気づかないうちに、ボールを呼ぶ悠先輩の名前を、誰よりも大きな声で叫んでいた。
ポニーテールを勢いよく揺らして、悠先輩の後ろ姿を追いかける。
この広い体育館の真ん中で、私はずっと探していた本当の「光」を見つけてしまったのかもしれない。
私にとってなにかが始まる予感が。
この体育館の、熱を帯びた空気の中に、確かに混じっていた。
◇
――ピーーーーーッ!
体育館に、無情な試合終了のホイッスルが響き渡っている。
電光掲示板の数字は、わずか「2」点の差。
最後、悠先輩が放ったシュートは、リングの縁をなぞるようにして外れた。
「……はぁ。……はぁ……」
膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
視界がチカチカする。全身の毛穴から吹き出した汗が、重力に従ってフロアに水滴となって落ちていく。
最後の最後、悠先輩が放ったシュートは、おしくもリングに嫌われて弾かれた。
「……あ、あはは。負けちゃったね。まぁまた来月試合あるし。」
「だよねー。喉乾いたー。終わったらパフェ食べに行かない?」
「お疲れー。惜しかったね、結城くん」
「いやー、最後のは仕方ないよ。どんまーい」
「……はい。……すみませんでした」
短くそう答えた彼の声は、普段聞いているものより少し低くて震えていた気がする。
そして、サークルの他の男子メンバーたちは、早くも「日常」へと切り替わっている。
彼らにとって、これは所詮「遊び」なんだ。負けたって、帰りにコンビニのアイスでも食べれば忘れてしまうような、その程度の出来事。
でも、私は動けなかった。
コートの中央で、膝に手をつき、肩を激しく上下させている悠先輩の後ろ姿から、目が離せなかった。
(……悠先輩。あんなに、あんなに必死に走ってたのに……)
他の男子が「本気なんてダサい」とサボっていた守備も、彼は一人で二倍の距離を走ってカバーしていた。
ルーズボールに飛び込んで、腕を思いっきり必死に伸ばしていた。
そんな彼の姿を見ていたのは、もしかしたら私だけだったのかもしれない。
「光ちゃん、片付け始めよっか。……あれ? 悠さんは?」
「……あ、えっと。ちょっとお手洗い……だと思います! 私、先にボール集めておきますね!」
私は逃げるようにして、悠先輩の背中を追った。
彼が向かったのは、体育館の裏手。
そこはもう西日が沈みかけ、オレンジ色の残光と、ひんやりとした夜の空気が混ざり合っている場所。
(……先輩、大丈夫かな。あんなに頑張ってたから、疲れちゃったのかも)
私は、自分が持っていたスポーツドリンクの予備を手に、彼に声をかけようと角を曲がった。
そこで、私は「それ」を見てしまった。
ドカッ、と。
鈍い音が響いた。
悠先輩が、コンクリートの壁に拳を叩きつけていた。
「…………ッ。…………はぁ、なさけね……」
彼の絞り出すような声。
壁に手をつき、うなだれる悠先輩。
彼の瞳が潤んで見えるのは気のせいじゃない。
(……え?)
私は息を呑み、物陰に身を隠した。
悠先輩は、誰もいない闇の中で、一人で、泣いていた。
頭が混乱する。
私の知っている「男の人の涙」とは、あまりにも違いすぎた。
テレビの中。ドラマのワンシーン。あるいは街中で見かけるカップルの修羅場。
男の人が流す涙は、いつも決まって「逃げ」の涙だった。
『ごめんなさい、もう浮気しません』
『ごめんなさい、次はちゃんとやります』
湿っぽくて、ねっちょりしてて、どこか計算高くて。
女の人から許しを得るための、ただの安っぽい「演技」。
それが、私の知る「男の涙」の定義。
でも。
今、悠先輩の目から溢れ、顎を伝って地面を濡らしているその雫は、そんなものとは、根底から違っていた。
彼は誰に見せるでもなく。
自分の弱さに、独りで、本気で、怒っている。
ギュッと握りしめられた拳は白くなっている。
そしてポタっと地面に落ちるその雫は、沈みゆく夕日の光を反射して……。
(……何、あれ……。……ダイヤモンドみたい……。キラキラしてる……)
そんな場違いなことを考えていた。
夕闇の残光を反射して、まるで磨き上げられたダイヤモンドみたいに、透明で、鋭くて、あまりにも綺麗な光を放っていた。
誰に甘えるためでもない。
誰かに許してもらうためでもない。
ただ、「上手くなりたい」と願い、努力し、それでも届かなかった自分自身への、あまりにも誠実な怒りと悔しさ。
(……あ、……あああ……)
その瞬間。
――ピピピピピピピピピピッ!!!!
左手首から、けたたましいアラート音が鳴り響いた。
静寂をぶち壊すように、私の左手首が激しく悲鳴を上げた。
スマートウォッチのディスプレイが、異常事態を示す真っ赤な警告色で発光している。
表示されている心拍の数字は「180」。
【警告:心拍数が180を突破しました。生命に危険があります。直ちに深呼吸を行い、安静にしてください。救急要請を行いますか?】
(……うるさい、……黙っててよ……っ!)
私は左手でスマートウォッチを無理やり隠した。
でも、止まらない。
ドクン、ドクン、ドクン、と。
心臓が肋骨を内側から叩き割りそうなほど、激しく暴れている。
苦しい。
酸素が足りない。肺が熱い。
でも、これは運動のせいじゃない。
悠先輩の、あの「ダイヤモンドの涙」に、私の魂が直接、貫かれてしまったせいだ。
(……カッコいい……)
思考が、その一言に塗り潰される。
みんなは「たかがサークルの試合」なんて笑うかもしれない。
でも、この人は本気だった。
本気で戦って、本気で悔しがって。
その真っ直ぐな心が、あまりにも美しくて、眩しすぎて。
誰よりも真剣に、バスケをがんばっている、この人。
(((((悠先輩、マジで、カッコよすぎる……っ!!好き、……大好きっ!!)))))
脳内が、叫び声で埋め尽くされる。
これかもしれない。
ずっと探していた、「なにか」。
私の世界は、この瞬間に完全に塗り変わってしまった気がする。
スマートウォッチが故障したんじゃないかって思うほど、私の身体は、目の前の「悠」という存在を全身で欲している。
着飾った色気も、甘えた言葉もいらない。
私は。
ただ、この人の隣で、この人の背中を支えられるような、強い私になりたい。
「……悠先輩」
気づけば、私は物陰から踏み出していた。
私は、震える手でスポーツドリンクのボトルを悠先輩へと差し出した。
「……悠先輩。……お疲れ様ですっ!」
悠先輩が、びくりと肩を揺らしてこちらを向く。
――ドクン。
【警告:心拍数が185を記録しました。直ちに……】
(うるさいってば! 今、いいところなんだからっ!!)
顔は、きっと茹でダコみたいに真っ赤だ。
先輩は慌てて涙を拭い、無理に笑おうとする。
「あ、……一ノ瀬さん。……見てた……?」
「……はい! 全部、見てましたっ!」
一点の曇りもない笑顔で、心臓の爆音を背景に言い放った。
「……見られちゃったな。情けないところ」
「情けなくなんてないですっ!」
「……え……?」
「……悠先輩の今の涙。……世界で一番、……宇宙で一番カッコよかったです! 私、先輩のそういう一生懸命なところ、本当に……本当に、リスペクトしてるんです!」
悠先輩が、目を丸くしている。
その真っ直ぐな視線に、今度は私の顔が、夕日よりも赤く染まっていくのが分かる。
(ヤバい、ヤバい。心拍数が、今度は200を超えてそう……!)
それでも、私は目を逸らさなかった。
私は、彼の手を強引に掴んで、ボトルを押し付けた。
「だから……今度は、私が先輩のシュート練習に付き合います!次は絶対勝てるように。……先輩の隣で、私も一緒に練習させてください!」
手首のウォッチが、またけたたましくアラートを鳴らす。
でも、いい。
心臓が止まったって構わない。
私は、この人の隣で、走り続けるって決めたんだから。




