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その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果  作者: ヤッくん


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27話 そのスプレー、過剰につき。――執拗に、霧が白く淀むほどに

――一ノ瀬 光 視点――



その時、体育館の入り口の方から、場違いなほどに静かで、重厚な「車の音」が聞こえてきた。


夕闇を切り裂く、青白いLEDのヘッドライト。


(……? 誰だろう、お迎え……?)


私は悠先輩の服を掴んだまま、その不気味なほどに手入れされた高級車の影を、不思議そうに見つめる。


体育館の出口。


夕闇を切り裂くように、一台の漆黒のセダンが鎮座していた。

鏡面仕上げのボディは、街灯の光を不気味なほどに反射し、周囲の喧騒をそこだけ吸い込んでいるみたいに静かだ。


「……? 誰かのお迎えかな。すごい車ですね、悠先輩」


私は、まだドキドキが止まらない胸を抑えながら、隣を歩く悠先輩に話しかけた。

先輩は、私が貸したタオルで顔を拭きながら、その車を見てあからさまに肩を強張らせた。


「あ……。……凛、さん……」


その時、車の後部座席のドアが、音もなく滑るように開いた。


ぬるり、と。

夜の闇を纏ったような一人の女性が、そこから姿を現した。

一分の乱れもないタイトなスーツ。清潔感の塊のような白いブラウス。そして、夜の静寂よりも冷たい、透き通るような肌。


(……わ。……綺麗な人……)


一瞬、見惚れてしまった。

都会的で、完璧に「管理」された美しさ。

でも、彼女がこちらへ一歩踏み出した瞬間、私の本能が、激しい警報アラートを鳴らし始めた。


冷たい。

彼女が歩くたびに、体育館の熱気が急速に奪われていくような錯覚。


ピピッ、ピピッ、ピピッ――。


【警告:周囲の温度が急激に低下……ではなく、心拍数が異常な変動を検知しました】


スマートウォッチが、恐怖からくるものとは違う、異質な緊張感を拾っている。


「……凛さん。どうしてここに?」


「……お疲れ様です、結城くん。……少し、帰りが遅かったから心配になって」


女性――凛さんは、悠先輩の目の前で足を止めた。


その瞳は、悠先輩の後ろに隠れる私を、まるで「排除すべき不潔な雑菌」でも見るように冷徹に捉えている。


「凛さん、今日はバスケの試合があって……」


「……試合、だったのね。……見て。汗だくじゃない」


凛さんは、うっとりと、けれど獲物を品定めするような爬虫類のような目で悠先輩の首筋を見つめた。


そして、私が悠先輩の腕を掴んでいることに気づいた瞬間、彼女の瞳から温度が完全に消えた。


「……悠くん。……動かないで」


彼女は懐から除菌スプレーを取り出すと、悠先輩の腕――ちょうど私が触れていた場所――に向かって、執拗に、霧が白く淀むほどにスプレーを吹きかけた。


シュゥゥゥゥゥッ!


「……あ。……凛さん、冷たいですよ……っ!」


「我慢して。……たくさん汗かいたんだから汚いわよ……鳳の時もそうだったけれど、あなたは少し無防備すぎるわ。……リスク管理がなってないわよ」


(……は? ……何、今の……)


私は呆然とした。

悠先輩が必死に流した、あのダイヤモンドみたいな汗を。

私たちが一緒に流した、あの熱い努力の証を。

この人は今、……「汚れ」として、不浄なものとして消毒したの?


胸の奥で、カチリ、と何かが弾ける音がした。


「あ、あのっ!」


私は、悠先輩の前に一歩踏み出した。

凛さんの、冷たい視線が私を射抜く。


でも、逃げない。

バスケで鍛えた反射神経は、こういう時こそ前に出るためにあるんだから。


「……悠先輩は、一生懸命バスケをしてたんです! 練習して、汗をかいて、……それは、全然汚いことなんかじゃありませんっ!」


私はあえて、先輩の腕に軽く触れながら、その女性――凛さんに真っ直ぐな視線を向ける。


「あ、ああ、一ノ瀬さん。こちらは浅見凛さん。俺がお世話になっている……その、猫の里親の恩人、ってことになるかな」


「お世話になってる……? へぇー、そうなんですね!」


凛さんの眉が、ミリ単位で動いた。

彼女はゆっくりと視線を落とし、私の握りしめた拳、そして悠先輩の腕を掴んでいる私の手を、忌々しそうに見つめた。


「……悠くん。……そちらの、……『賑やかなお嬢さん』は、どなたなの?」


「あ、えっと……サークルの後輩の、一ノ瀬さんです」


悠先輩の紹介に、私はいつもの元気な笑顔を作った。

この不気味な空気、私が明るくしなきゃ!


「初めまして、一ノ瀬光ですっ! 悠先輩には、いつも居残り練習に付き合ってもらってるんです! 先輩、ほんとにお世話になってます!」


私は、凛さんの無表情な顔を真っ直ぐに見つめて、屈託のない疑問をぶつけた。


「……ところで、凛さんは……悠先輩の、ご親戚の方ですか? ……もしかして、……親戚の『おばさん』……あ、失礼しましたっ! ……お姉様、ですか?」


――ピキッ。


静寂の中で、確かに何かが砕け散る音が聞こえた。

凛さんの、完璧に維持されていた微笑みが、一瞬で凍りつき、崩れ落ちる。


彼女の瞳から光が消え、一瞬だけ「白目」の状態へと変わって、すぐ元の状態に戻った。


(……え、……何……今の?)


周囲の空気が、ドロリとした重油のように重くなる。


凛さんの唇が、音もなく動いている。


「(…………)」


凛さんは、再び悠先輩へ向き直った。

その手は、冷たく、そして抗いようのない力で悠先輩の腕を掴む。


「……行こう、悠くん。……ここで着替えたら風邪ひくし……はやく車の中に入って。着替えが中にあるから。」


「え、……あ、凛さん……っ?というかなんで着替えがあるんだよ。なんで場所わかっ......」


凛さんは悠先輩の話も途中に強引に車の中へと押し込んだ。


「あ! 待ってください! 先輩、明日も練習――!」


私が駆け寄ろうとした瞬間、凛さんが振り返り、私を睨みつけた。


そこにあったのは、もはや人間の瞳ではなかった。

獲物を囲い込もうとする、冷徹な捕食者の、絶対的な拒絶。


「……さようなら、一ノ瀬さん。……わるいけど悠くんは、しばらく来れないかも……バイトで忙しくなるからって。」


バタンッ。


重厚なドアが閉まる。

高級セダンは、不気味な静寂を保ったまま、夜の闇へと滑り出していった。


残されたのは、私と、静まり返った体育館。

そして、手首で鳴り止まないアラートの音だけ。


ピピッ、ピピッ、ピピッ――。


【警告:心拍数が190を超えました。これは恋ではなく、生命の危機です。救急車を――】


「……違うよ。……死ぬほど、……悔しいだけだよ……っ!!」


私は、闇に消えていったテールランプを、涙で滲む目で見つめていた。


(……悠先輩……)


太陽の下で、あんなにキラキラ笑っていた先輩が。

あの冷たい「月」のような女の人に、連れ去られてしまった。


(……待ってて、先輩。……絶対に、……あの変な女から、助けに行くから……っ!!)


私は、ポニーテールをきつく結び直し、闇に消えていったテールランプを、涙で滲む目で見つめていた。

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