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その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果  作者: ヤッくん


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25話 その日常、かりそめにつき。―― 嵐のあとの、凪のさざめき

――結城 悠 視点――



畳の、い草の匂いが鼻を掠める。

鳳邸の高級なルームフレグランスとは違う、どこか湿り気を帯びた、安っぽい、けれど愛おしい我が家の匂いだ。


(あぁ……やっぱり、この狭さが一番落ち着く。自分の家、最高だな)


三億円という数字。

自分を縛り付けていた法的な鎖。

それが消えた実感が、四畳半の狭い空間に満ちている。


(あぁ……やっぱり普段の生活が一番落ち着く。三億円の借金と不当な契約を結ばれてからは正直、生きた心地がしなかったからな。……さて、夕飯にするか)


キッチンに立ち、使い古した雪平鍋で出汁を取る。


冷蔵庫に残っていたジャガイモと人参、それに特売の豚肉を、少し濃いめの醤油と砂糖で煮詰めていく。


出来上がったのは、黄金色の出汁がしっかり染み込んだ「特製肉じゃが」。

湯気と共に立ち上る甘い香りが、鳳邸での「管理された食事」で冷え切っていた胃袋を、優しく解きほぐしていくようだった。


(……美味しい。やっぱり、自炊が一番だな)



――ガタガタガタガタッ!!ドンドンドンドン!!



静かな夕食の時間は、ベランダの窓を激しく叩く音によって粉砕された。


「おらぁ悠! 生きてるかぁ! 復活記念! 飼い犬の晩ごはん実況ライブ、開始だぜェーッ!」


鍵を閉め忘れたサッシが勢いよく開き、銀髪を振り乱した阿久津魅夜が、スマホを片手に雪崩れ込んできた。


「わっ、魅夜さん!? 危ないですよ、そんな勢いで入ってきたら。というか、普通に玄関から来てくださいよ」


「ギャーギャーうるせぇなァ!ちゃんとタマついてんのかァ!?ケヒャヒャ! ほら見ろリスナー共、俺様のイヌのこの無防備な可愛い顔!あっテメェらには顔は見えてねぇかァ! ケヒャヒャ!悠、敬語やめろ!あと呼び捨て!」


(魅夜さん、どうやって鳳の事件を知ったのかわからないけど、心配して駆けつけてくれたんだよな……相変わらず配信のテンションは激しいけど。)


「……本当にありがとう、魅夜。あぁ、ちょうど夕飯ができたところなんだけど、お礼とかじゃないけど、一緒に食べる?」


「……えっと」


魅夜の動きが、一瞬で凍りついた。

画面越しの視聴者へ向けていた営業用の笑顔が剥がれ落ち、その瞳が、差し出された茶碗と悠の笑顔を交互に見つめる。



「……っ、あ? お、おう。……まぁ、犬がそこまで言うなら、毒味くらいしてやってもいいけど......さ」



《阿久津魅夜。この時、彼女の心拍数は過去最高を記録。悠の前触れなしの『呼び捨て』と、実家の母以上の安心感を与える『手料理』のコンボにより、彼女の脳内麻痺は致死量に達していた》





翌日。


俺は感謝を伝えるために、如月法律事務所を訪れていた。


「如月さん。これ、心ばかりのものですが……本当にありがとうございました!」


とびっきりの笑顔と共に、駅前で買った一番人気の菓子折りを差し出す。


「……え、あ、ええ……。当然のことをしたまでよ。……鳳の横暴を許すわけにはいかなかったし(……あ、あの子、あんな顔で笑うのね。……法律を、正義を信じていて……本当に、良かった……)」


「そうかもしれません。でも、如月さんが助けてくれなかったら、俺は今頃どうなっていたか。如月さんのような立派な弁護士さんがいてくれて、本当に良かったです!」


俺がとびっきりの気持ちを込めて感謝を伝えると、如月さんはフイッと顔を背けた。


(如月さん、照れてるのかな。いつも冷徹な感じだけど、根はすごく優しい人なんだろうな。……弁護士って、素敵な仕事だよな)


その足で、俺は浅見凛さんの自宅マンションへ向かった。  週に一度の、猫のユキちゃんの世話だ。

「悠くん。鳳の呪縛が解けてよかった。ユキちゃんも元気いっぱい。悠くんの解放を喜んでくれてるのね……あ、ところでシャワーでも浴びる?」


「とりあえず水でも飲む?みたいなテンションで言わないでください。今日は雨も降っていないし服も汚れてないです!」


「いいえ! 目に見えないけど鳳の、あるいはあの不潔な銀髪女の残り香が、悠くんの美しい細胞を汚しているかもっ! さあ、脱いで!」


「もう何言ってんですか!言っときますけど、パンツ盗んで匂いを嗅ぐのも禁止ですからねっ!ジャケットも返してもらおうかな〜?」


「そんなっ……!? そんな殺生なっ!!(……ジャケットを絶たれたら、私のエネルギーをチャージする手段なくなっちゃう……!)」


凛さんも相変わらずだ。……でも、彼女たちが鳳の別邸に駆けつけてくれなければ、俺は今頃どうなっていたか。


(……本当は感謝してるんだけど、正直、変態行為と迷惑行為で素直に感謝できないんだよなぁ......)



帰路、俺は以前働いていた『レゼール』の看板を見つめた。

鳳グループが撤退し、今はシャッターが下りている。


(そういえば、麗華さんと九条さんは、あれからどうしたんだろう。……それに、あのドローンの操縦者。お礼を言いたいんだけど、結局一度も会えてないな)


ふと、身体が少し重い。

鳳の一件から知らず知らずのうちに運動不足で筋肉が落ちている気がする。


(よし、少し身体を動かそう。このままじゃ社会復帰に響くしな)


スマホでSNSの募集をチェックする。


【社会人・学生混合バスケサークル『スカイホッパー』体験募集中!】


(これだ。ひさびさにバスケでもして、ただ純粋に汗を流したい。……うん、早速応募してみよう)


俺は迷わず、応募フォームの送信ボタンをタップした。


(普通の友達ができたらいいなぁ)



キュッ、という高い音が、静まり返った体育館に心地よく響く。

バッシュが床をしっかりと噛む感触。手に残る、使い込まれたボールのざらついた質感と、ゴムの匂い。


鳳麗華の理不尽な負債から解放され、俺が真っ先に求めたのは、この「音」だった。


(ただ身体を動かすことだけに集中する時間っていいよな。……やっぱり、俺、バスケが好きだわ)


ルーズボールがサイドライン際へ転がる。

俺は迷わず、硬い床に向かって身体を投げ出した。


ズサァ、と膝が擦れる不快な音がし、摩擦熱が肌を焼く。けれど、指先がボールに届いた瞬間の高揚感が、その痛みを塗り潰した。


「……あ、あの。結城くん、大丈夫? そんなに必死にならなくても……」

「顔、怪我しなかった? 危ないよぉ、男の子なんだから」


サークルの他の部員たちが、引いたような、どこか困惑したような視線を送ってくるのが分かる。

 

《この世界において、多くの男性が『泥臭く本気を出す』ことは、ダサいことだと思っている。頑張って成果を出さなくても、男であるだけで女性から優しくされる環境がそうさせているこの世界。もちろんすべてがそうではないが、そのような男は少数派である》


でも、俺には関係ない。

今はただ、バスケに集中したい。


(なにごとも本気でやらなきゃ楽しくないでしょ)


そんな俺のガチな空気に真っ向から言葉が飛び込んできた。


「ナイスルーズボールです、先輩っ!」


弾けるような声に顔を上げると、そこには誰よりも高く跳び、誰よりも眩しく笑う女の子がいた。



一ノ瀬光いちのせひかり



オーバーサイズのバスケタンクから覗くのは、驚くほど透き通った白い肌と、しなやかに引き締まった二の腕。ぱっちりとした二重の瞳をキラキラと輝かせ、屈託のない笑顔から小さな八重歯が覗く。


石鹸とシトラスの爽やかな香りが風に乗って届く。その健康的な色気と圧倒的な「陽」の輝きを放っている。


このサークルでは先輩だけど年齢的には後輩であろう彼女は、ポニーテールを躍動させながら真っ直ぐな瞳で俺のプレーを見ていた。


(一ノ瀬さんのプレー……。上手いな。それに、何より楽しそうだ。……元の世界で、がむしゃらにバスケしてた頃の自分を思い出すよ)


「ありがとう。……一ノ瀬さんのシュートも、すごかったね」


「ははっ、もっと見ててください!次はスリー決めちゃうんでっ!」


練習の合間、サークル代表の女性が俺に歩み寄ってきた。


「結城くん。君、経験者だよね? 動きで分かるわ。……実は来月、近隣サークルとのリーグ戦があるんだけど、スタメンで出てくれないかな。君みたいな『本気』の選手が、今のうちには必要なの」


「俺が、スタメン……ですか? まだ体験なのに」


「君がいいの。……お願いできる?」


真っ直ぐに見つめられ、俺は短く「はい」と答えた。

必要とされることが純粋に嬉しくて、その場で入会と大会への出場を決めた。



サークルの練習が終わった後は毎回、俺は一人で体育館に残らせてもらっている。


ダムッ、ダムッ、とリズムを刻み、ステップを踏む。

俺が立ち止まるのは、決まって同じ場所だ。

狙うのは――右斜め45度、スリーポイントラインのわずか外側。


(……あの日と同じ)


《結城悠。彼には、この世界へ来る前の苦い思い出があった。高校時代の先輩の引退試合。二点差。残り数秒。放たれた彼のシュートが、この『右斜め45度』から外れ、先輩たちの夏が終わった。あの日、床に滴った自分の涙の熱さを、彼は今も忘れていない》


(……あの時と同じミスだけはしないようにしよう。……練習だ。今の俺には、ひたすら練習しかない)


一本、二本。

何度も、何度も。

右斜め45度から、俺はシュートを打ち続けた。

サークルの練習がない日は近隣のバスケットコートで練習した。





そして、大会当日。

 

会場の熱気。応援の声。

俺たちのチームは、予想外の快進撃で決勝まで勝ち進んだ。


そして決勝、試合終了間際。残り3秒。

スコアボードの数字は、二点のビハインドを示している。

 

会場の喧騒。敵チームのプレッシャー。

ボールを運ぶ仲間が、マークを振り切れない俺を見て、一瞬の判断で一ノ瀬さんにパスを出した。


そこからディフェンスを外した俺にノールックで彼女がパスを出す。

吸い込まれるように、ボールが俺の両手に収まる。

 

立っていたのは――右斜め45度。


(……まじかよ。……っ!)


過去と同じシチュエーションに驚く。


心臓が、耳元で鐘をつくように激しく脈打つ。

視界が狭まる。

一秒、二秒。

 

俺は、練習してきた通りのフォームで、ボールを放った。


(.......っ!)



ピーーーーーーーーーーーーッ!!



試合終了のブザー。




俺は逃げるようにして、体育館の裏手に座り込んでいる。


暗がりの中、冷たいコンクリートの壁に一度だけ拳を叩きつける。


「…………ッ。…………はぁ、なさけね……」


情けない。

身体を鍛え直して、自分なりに頑張ってみたが、結局、何も変わっていなかった。


元の世界での記憶と、今の不甲斐なさが混ざり合い、視界がジワリと滲んでいく。

自然と、雫が頬を伝って落ちた。

情けなくて、悔しくて、ただただ、自分が嫌いになりそうだった。


(……成長してないなぁ……俺。何やってんだ、本当に……)


その時だった。


「――悠先輩」


目の前に立っていたのは、一ノ瀬光だった。

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