深夜の執務室と、赤くなった指先
アレクシス様は時折、領政の帳簿や領内の問題を私にご相談されるようになった。
私に答えられることは一般的な内容だけだけど、それでも前世の知識が少しは役に立っているようだった。アレクシス様は私の意見を真剣に聴き入れ、驚くべき速さで領政へ反映させていった。
けれど、その分、彼の負担は増していた。
連日の激務で、アレクシス様の顔には隠しきれない疲労が浮かんでいた。
私ももっと手伝いができればいいのだけど。
今夜は激しい雷雨がガラス一枚隔てた窓の外を支配していた。中々寝付くことができず、諦めて眠くなるまで起きていようと部屋を抜け出す。
執務室の様子を見にいくと、そこにはデスクにつっぷして力尽きたように眠っているアレクシス様の姿があった。
「……アレクシス様?」
そっと近づくと、規則正しい寝息が聞こえた。緑のデスクライトの光が、彼の長い睫毛と、頬に落ちる影を浮かび上がらせている。
本当に、彫刻みたいに綺麗な顔。
前世ではこんなに整った男性と至近距離で過ごすことなんてなんてなかった。なのに、このイケメンが夫だなんて。
私は鼓動が早くなるのを抑えながら、壁のフックから厚手のブランケットを取り外し、彼の肩へそっと掛けた。
その瞬間、ガタリと音がして、アレクシス様が跳ね起きるように目を覚ました。
「っ……!? 誰だ……!」
「すみません、驚かせてしまって」
彼の青い瞳が鋭い光を放ったが、それが私だと分かると、一瞬で目尻を下げて安堵の息を吐いた。
「セレナか……すまない、ついうたた寝をしてしまっていたようだ」
「お疲れですね。顔色も悪いですし、もうベッドでお休みになっては?」
彼が痛そうに首を回すのを見て、私は前世で同僚たちとよくやり合っていたマッサージを思い出した。
「あの……もしよければ、少し肩をほぐしましょうか?」
「君が、私に……?」
アレクシス様は困惑したように目を見開いたが、断られる前に私は素早く背後に回り込んだ。仕立ての良いシャツ越しに、彼の肩に両手を置く。
硬い。肩こりでガッチガチだ。
触ると更に男性らしくがっしりとしている。そして、驚くほど硬く凝り固まっている。掌で摩るように肩に圧をかけた後、親指に力を乗せて首筋から肩甲骨にかけてのコリを力強く解ぐしていく。
「くっ……」
アレクシス様から小さなくぐもった声が漏れる。彼の手がデスクの縁をギュッと握りしめた。
「痛かったですか!?」
「い、いや……大丈夫だ。驚いた、君の指は小さくて細いのに、力強くて……とても、気持ちがいい……」
アレクシス様の首筋は、微かに赤くなっているように見えた。力を入れすぎてしまっただろうか。
先ほどより少し弱めに揉む。彼の体温と、服越しに伝わる筋肉の硬さが掌に伝わってくる。前世の同僚には何とも思わなかったマッサージなのに、相手がアレクシス様だと思うと、ちょっと気恥ずかしくて、指先まで熱くなっていくのが分かった。
「……セレナ」
「は、はいっ!」
彼が突然振り返り、私の左手をキュッと掴んだ。彼の大きな手が、私の赤くなったら指先をすっぽりと包み込む。
「こんなになるまで肩を揉ませて、君を疲れさせてしまったね」
「大丈夫ですよ。アレクシス様が毎日、領民のためにどれだけ働いていらっしゃるか知っていますから……私にできることなら、何でもしたいんです」
私の言葉に、アレクシス様は息を呑んだ。サファイア色の瞳が激しく揺れ、彼の手が私の手を強く握りしめる。
「君は……どうしてそんなに優しいんだ?かつての君なら……こんな風に私を労わってくれることなどなかったのに……」
アレクシス様の方から出た「かつての君」という言葉が、私の胸にチクリとした小さな針のように突き刺さる。
アレクシス様は何かを言いかけたその時、外で雷がドカーンと激しく落ち、執務室の窓を振動させた。
「……随分と遅い時間になってしまった。部屋まで送ろう」
アレクシスは何かを飲み込むように言葉を切ると、立ち上がり、私の手を取った。
繋がれた手から伝わる温もりは本物なのに、私たちの心の間には、まだ目に見えない透明な壁が横たわっているようだった。




