夜更けのハーブティーと、芽生える想い
翌朝、目を覚ますと、体のいたるところが悲鳴をあげていた。久しぶりに体を動かしたせいで、筋肉痛になっているようだ。
「……痛たた……」
ベッドの中で顔を顰めながら、自分の手元を見る。白い皮膚には小さな擦り傷や赤みが残り、何度も雑巾を絞ったせいで指先が少し強張っていた。
体の怠さとは裏腹に、やりたいことを達成できたおかげで心は軽かった。私の作ったスープを美味しそうに食べてくれた子供たちの笑顔を思い出す。
これで終わりにしてはダメだ。
ゆっくりと体を起こし、頭の中で冷静に計算を始めた。
質屋で宝石を売って作った金貨五十枚。昨日使ったお金を差し引いても、まだまとまった金額が残っている。でも、これで出来るのはあくまでも一時的な支援に過ぎない。
屋根を直し、一度お腹を満たしたところで、安定してお金が入らなければ、あの子たちはまた数ヶ月後に飢えることになる。必要なのは、継続的で安定した資金だ。
自室にあったメディナ大商会との定期送金契約書……あれを解約から再契約に戻せれば、毎月決まった額が孤児院に届くはず。
やらなきゃいけないことはわかっている。けれど、すぐに大きな壁にぶつかった。私一人では、大商会への連絡方法すらわからない。
かと言ってアレクシス様に相談すれば、私の代わりにお金を出すと言い出してしまいそう……それでは意味がない。
執事長のスチュワードを頼るのが一番確実だけど、あのお堅い彼がアレクシス様には内緒で動いてくれるだろうか?
いや、他に知っていそうな人がいないのだから、聞いてみるしかない。
そんなことを考えていた数日後のこと。
日が沈むのも早くなり雨がしとしとと静かに降り続いていた。
深夜にふと目が覚めた私は、喉の渇きを覚えて起き上がる。サイドテーブルの水差しは空だった。こんな時間にメイドを起こすわけにもいかない。私は薄手のカーディガンを羽織って静かに部屋を出た。
薄暗い廊下を歩いていると、少し離れた執務室のドアの隙間から、明かりが漏れているのが見えた。
アレクシス様は、まだお仕事されているのかな?
そっとドアに近づき、隙間から中を覗き込むと、アレクシス様が書類の山と格闘しいるのが見えた。デスクの上には何冊もの分厚い本と書類が積まれ、緑色のシェードランプの光が彼の疲れた横顔を照らしている。
時折、サファイア色の瞳を細め、何度も細い指で眉間を強く揉んでいる。
前のセレナなら、「私を置いて仕事なんて!」と執務室に乗り込み、書類を散らかして激怒していたらしい。けれど、残業続きだった前世のある私には、彼のその姿が他人事には思えなかった。
少しだけでも、休める方法はないだろうか。
私は静かに階下の厨房へ向かった。使用人に気づかれないように気をつけながら、銀のケトルでお湯を沸かす。この戸棚に入ってる茶葉は好きに飲んでいいと言われていた場所を見ると、紅茶以外にもハーブティーなんかも置いてある。試しに缶を開けてみると、柔らかで独特なカモミールの香りが漂った。リラックス効果の高いカモミールはいい。こっちは多分ローズヒップ。これは……アールグレイ? こっちはミントだ。
カモミールティーに少しミントを足すと、集中力が切れたの時によく飲んでいたハーブティーの完成だ。
トレーに磁器カップを載せて再び執務室の前へ戻り、コンコン、と控えめにドアをノックした。
「……誰だ。今夜は誰も通すなと言ったはずだが」
室内から、驚くほど低く冷たい声が返ってきた。アレクシス様は仕事中、苛立っていることが多いと侍女から聞いていたのを思い出した。気が立っているところにお邪魔して、迷惑をかけてしまうかも、と一瞬考えたけれど、ここまで来たらもう後戻りもできない。私はドアを少しだけ開け、顔を覗かせた。
「あの……アレクシス様。夜分遅くにすみません。お茶をお持ちしたのですが……」
「セレナ!?」
アレクシス様は手にしていた羽ペンを落としそうになりながら、目を見開いて立ち上がった。その顔には明らかな動揺と、身構えるような警戒の色が浮かんでいる。癇癪を起こしたセレナがアレクシス様の仕事の邪魔をしたことがあったらしいので、それを思い出しているのかもしれない。
「カモミールとミントのハーブティーです。飲めそうですか?」
「あ、あぁ……」
私は静かに歩み寄り、デスクの端の空いているスペースにそっとカップを置いた。
「疲れに効くと思うので……お忙しいのに邪魔をして申し訳ありません。少しだけでも休んでくださいね」
私はそれだけ言うと、すぐに頭を下げて部屋を出ようとすると、アレクシス様に呼び止められた。
「待ってくれ、セレナ! 君が、私のために淹れてくれたのか?」
「はい。昔、疲れた時によく飲んでいたんです。お口に合わなかったらすみません」
アレクシス様は震える手で温かいカップを持ち上げ、静かに口をつけた。湯気が彼の美しい顔を包み込む。一口飲み、二口飲み……彼はふぅっと長い息を吐いた。
「胸の奥が、すっと軽くなるような、とても優しい味がする。美味しいよ」
「良かったです」
彼はカップを両手で握りしめたまま、愛おしそうに、そしてどこか切なさの混じった笑顔を私に向けた。
「ありがとう、セレナ」
アレクシス様の優しい声に、私の胸がキュッと甘く締め付けられた。優しげな声で、愛おしそうに見つめる目で、柔らかな笑顔で、私を呼ばないでほしい。胸が温かくなって、そこから全身に熱が広がる。愛おしい、という言葉が、自然に頭の中に浮かんできた。
アレクシス様が領内査察のため、二日ほど屋敷を不在にするという。
この好機を逃すわけにはいかない。
私は自室のデスクの引き出しから、あの日見つけた羊皮紙を取り出した。
『メディナ大商会・定期送金契約書』
端に押された赤い解約印と、セレナのメモが書かれたものを用意してから、侍女にスチュワードを呼んでもらう。
少しして、白髪混じりの老執事――スチュワードは現れた。隙のない礼儀正しさの奥に、どこか警戒心を感じさせる雰囲気だ。
「奥様、どのようなご用件でしょうか。旦那様は明日の夕刻までお戻りになりませんが……」
「知っています。アレクシス様が不在の今だからこそ、あなたにお願いがあります。他の方は下がっていただけますか?」
「……奥様のご指示どおりに」
侍女が部屋を出たのを確認してから、テーブルの上に羊皮紙を置いた。
スチュワードの視線がそこへ落ちる。
「これは……聖ルチア孤児院への定期送金契約書、でございますね」
「えぇ。定期送金を解約した印が付いたものです」
私の言葉に、スチュワードは眉を顰めた。
「私の我儘で施設を作り、子供たちを集めたのに支援を打ち切ったのです。……今更こんなことをして贖罪になるのかもわかりませんが、私はあの孤児院への定期送金を再開したいのです。ですが、私一人では商会への連絡の取り方もわかりません……お願いです、アレクシス様には内緒で、商会の担当者へ連絡を取っていただけないでしょうか」
そこまで言い切ると、祈るような思いで頭を下げる。
商人に頭を下げるなんて、きっとちゃんと貴族の教育を受けた公爵夫人ならしないのだろう。でも、今は私が公爵夫人。人に謝るなら頭を下げるのが、私の国での礼儀だ。
どうか私の気持ちが伝わりますように、と祈りながら返事を待つと、小さく息を吐き出す音が聞こえた。
「なぜアレクシス様にはご内密に?」
「アレクシス様にお伝えしたら、きっと代わりに運営資金を出してくださると思います。……ですが、それでは意味がないのです。私が始めて、私が投げ出したこと。私が支援をしなければ意味がないと思っています」
「左様でございますか……奥様のお考え、しかと理解いたしました。ヴァルハイト家に勤める者として、お力添えを拒む理由はございません。メディナ大商会の担当者を、早急に屋敷へ呼びましょう」
「ありがとうございます!」
「……ただし、旦那様には内密にする代わりに、お話し合いには私も立ち会わせていただきます。奥様がお一人で不当な取引に巻き込まれぬよう、お側でお守りするのも私の務めでございますので」
「……ええ! よろしくお願いします!」
翌日。
スチュワードの手配により、メディナ大商会の支配人が密かに屋敷の応接間に到着した。
傍らにスチュワードが控える中、私は重要な情報を商人に尋ねた。
「まずは、私の口座の残高の確認をお願いします」
正直、贅沢三昧のセレナが口座にお金を残しているとは思えなかった。
「奥様の個人口座の残高はこちらとなります」
昨日の今日だというのに、残高証明書を作成しておいてくれていた。さすが公爵家と付き合いのある大商会だ。
渡された書面を見て、私は目を瞬かせた。
「少しだけ残っているのですね」
「こちらはグリュンベルク鉱山の今月の利益でございます」
「……鉱山、ですか?」
思わず口を突いてしまってから、口を押さえた。しまった。自分の所有物を知らないのは不自然なはず。案の定、担当者は私の反応を見て不思議そうな顔をしている。
すると、ソファの後ろに立っていたスチュワードが口を開いた。
「奥様は死の淵から戻られた際に、記憶が少々曖昧になっておられるのです」
「そうでしたか。それは失礼を」
「グリュンベルク鉱山は、奥様がご実家から嫁入りする際にご持参されたもののひとつでございます。ここ、ヴァルハイト家の領地からは少し離れているため、鉱山の採掘をメディナ大商会へ委託し、その利益を毎月、奥様の口座へ入るようにしています」
「そうだったのね……」
そして、その利益を孤児院には送らず、自分の宝飾品で使い込んでいたということだろう。
「では、この鉱山の利益から、毎月安定して孤児院へ送金できますか?」
「ええ、利益は毎月多少上下しますが、孤児院へ設定されていた支援額を賄うには十分すぎる額でございます」
「よかった……」
「……ですが、奥様」
商人は少し言いにくそうに目を伏せた。
「以前、奥様のご指示で送金を突如打ち切った経緯もあり……我々としても、直ちに定期送金を再開することは規則上難しいのです。加えて、孤児院側もこれまでの資金不足による滞納もあり……再契約にあたっては、その“滞納分の清算”と“今後の信用保証金”として、ある程度まとまった現金をご用意いただく必要がございまして……」
「そうよね……商売だもの、当然の処置です。……では、こちらを」
私は気を取り直し、革袋を取り出してデスクの上に置いた。ズッシリとした音とともに袋の口が開くと、中から眩い金貨の山が覗く。
「奥様、それは……」
「私の衣装部屋にあったドレスや宝石を売って作ったお金です。すでに孤児院への寄付や修繕費用で少し減っていますが……こちらで足りますでしょうか」
思わず声を掛けてきたスチュワードに説明しながらも、大商会の担当者の顔を真っ直ぐに見据える。過去の『私』が失った信用は、自分で買い戻さなければならない。もう少し金貨を増やしておけばよかったかと、不安がよぎる。
商人は金貨の山と私を交互に見て、やがて深く頭を下げた。
「――はい、確かに。本日より『聖ルチア孤児院』への月々の定期送金契約、謹んで再開させていただきます」
スチュワードの厳しい確認のもと、手続きは滞りなく進行し、新しい契約書を交わした。
「ありがとうございました。……これで、ひもじい思いをする子が減るはず」
ほっと胸を撫で下ろす私に、隣に控えていたスチュワードが、優しく目を細めて語りかけてきた。
「それでは、旦那様がお戻りになる前に、見送って参ります」
「えぇ、よろしくお願いします」
商会の担当者とスチュワードが応接室を出ていく。その背中を見送ってから、私は契約書を胸に抱きしめた。
窓の外を見ると、すでに夕暮れの空がサファイア色から深い群青へと染まり始めている。そろそろアレクシス様が帰ってくる時間だ。
自分の手でひとつ、過去の過ちを正すことができた。
小さな達成感を胸に、私は夫を迎えるために玄関へと向かった。




