温かなスープと、小さな手仕事
まずは公爵夫人セレナとしてではなく、ごく普通の「通りすがりの町娘」を装うため、質素な灰色のチュニックとすり減った革ブーツを購入した。一番シンプルな服を着ていたけど、それでも公爵家にある服は、生地の上質さを誤魔化せない。そこで、この古着だ。ブラウスの上からチュニックを着て、ブーツを履き替えたら、少しだけそれっぽくなった気がする。
それから城下町の華やかな大通りを抜けて、路地裏へ足を踏み入れた瞬間、空気の質がガラリと変わった。
ドブ臭い、腐った食べ物の匂い。清潔とは言えない環境に足がすくむ。
路地の隅では、肋骨が浮き出た子供たちが泥水で遊んでおり、老人が薄い布切れ一枚にくるまってガタガタと震えていた。
それ以上先に、進むことができなかった。
前世のニュースでも貧困問題は見聞きしていたが、目の前にあるのは生死に直結する生々しい惨状だった。
ただ食べ物を配るだけじゃダメだ。
根本的な生活環境を整えないと……。
でも、まずは孤児院だ。
私は大通りに戻り、そこからさらに先へ進み、設立当初の書類に書かれた地図の場所を探す。
街の中心街から少し離れた路地裏に、聖ルチア孤児院はあった。
敷地内に入って言葉を失った。屋根の一部は大きく崩れ落ちて、窓ガラスも何枚か割れている。これじゃあ、雨が降ったら困るだろう。窓の隙間から見えた部屋の中には、シーツとも呼べないようなボロ布が敷かれているだけのベッドが見えた。
「酷すぎる……」
「どなたですか……?」
施設の中から出てきたのは、擦り切れた修道服を着た老シスターだった。
「私は……レーナ……レーナ・ハイトと申します。どうか警戒なさらないでください。ここにいる子供たちに、何かできることはないでしょうか?」
「まぁ……私どものために、そこまでお心を寄せてくださるのですか?」
シスターは驚いたように目を瞬かせ、それから申し訳なさそうに視線を伏せた。
「実は見ての通り、貧しい孤児院ですから……寄付をいただけるのでしたら、大変ありがたいのですが。子供たちの食べるものも十分には用意できず、建物の修繕にも手が回っておりません。屋根も傷んでいて、雨が降るたびに雨漏りがする始末で……」
「お金はもちろんですが……屋根の修理は、急を要するのではありませんか?」
「ええ……。本当は、すぐにでも直さなければならないのです。けれど、そこまでのお金を用意するのは難しくて……」
「では、やってしまいましょう!」
「……え?」
思わず顔を上げたシスターに、私は笑いかけた。
「屋根の修理も、食料も、必要なものは全部用意しましょう。まずは、雨漏りをどうにかしなくては。子供たちが安心して眠れる場所にしたいです。私だけではわからないこともあると思うので、一緒に来ていただけないでしょうか」
私たちはすぐに下町の市場へと向かった。
荷物が持ちきれないことは予想できたので、まずは配送してもらえるところがないかを確認する。運良く、建物の補修用にと木材を見ていたら、買ったものを配達してくれると言うので、ついでに他の荷物も載せてもらうように交渉した。
市場の露店を回り、大量のパンや野菜、肉、暖かな毛布や服などを買い揃えていく。テキパキと品物を選び、次々と代金を支払う姿に、市場の商人たちやシスターは驚きの目を丸くしていた。
ひとしきり買って、荷物を孤児院へ運んでもらう。
まずは屋根から着手をするべきだろう。いくら中を掃除しても、屋根がなければ雨風で汚れてしまう。とりあえず木の板を屋根に打ち付けて、それでどうにかなるかな……なるといいなぁ。
「これを直すってのか?」
そんなことを考えていたら、荷物を運んでくれた男性が、孤児院を見て顔を顰めた。
「えぇ。雨漏りしてるみたいで」
「これは一人じゃできねぇな。木材持って登るんだぞ」
「確かに。ハシゴとかも買わなきゃいかなかったですね」
「手間賃くれるならオレ達が直してやるよ」
「本当ですか!? 助かります!」
こういうのは手慣れた人の方が綺麗にできるだろうし。正直、屋根の補修なんてやったことないから、これはありがたい。
「実際見てもらわないと見積りできないでしょうし、報酬は作業後のお支払いでいいですか?」
「相場わかってんのか? ぼったくられてもしらねぇぞ」
「正直、相場はわかりません……。ですが、多少高くついても問題ありません。一から業者を探すのは大変ですし、自分でやる手間を考えれば」
「随分、寛容なお貴族様だな」
「貴方がたがぼったくるような悪徳業者なら、市場で他のお店の方が荷台に載せる時に、あんなに親しげに話しかけないと思うのです。皆がグルなら話は別ですが……それでも思うところがあれば、もう少し意味ありげな目をすると思うので……つまり、貴方は悪い人ではないと私は思ってます」
「ははっ、そのお人よしで後悔しないといいな」
男は笑って、荷台から荷物を下ろしていたもう一人の男に「おい、屋根と窓直すぞ!」と声をかけていた。
「直すったって、道具も何も持ってきちゃいねぇよ」
「だから取りに戻ってくれよ。荷下ろしはオレがやる」
二人の様子を見てから、シスターを見る。この人たちが悪い人なら、もっと不安そうな顔をするだろう。この街で生きるシスターがキラキラと希望に満ちた笑みを浮かべているのだから、きっと大丈夫。
「さぁ、私たちも掃除に取り掛かりましょう」
着ている服の袖をまくり上げ、エプロンを身につけると、自らバケツと雑巾を手にして、雨漏りの影響がない部屋から掃除を始めた。
ベッドのシーツをすべて取り替えて洗濯する。とにかく嵩張って水を含んで重くなるシーツに一人で格闘していたら、見かねたのか子供達も手伝ってくれた。それから廊下の拭き掃除をしていると、「屋根は終わったぞ」と声をかけられた。
「ありがとうございます! 本当だ、全然空が見えなくなった。えーっと、少しお待ちください。今、お金を……」
「待て待て。直すところはまだあるだろ?」
そう言って男は親指を後ろに指すと、その先には破れた窓を入れ替えているのが見えた。
「ガラスを持ってきてくださったんですね!」
「やるからには徹底的にやらねぇとな。玄関の扉も建て付け悪いし、壁紙も破れてるとこは補修する」
「そこまで……ありがとうございます。よろしくお願いします」
頭を下げると、男はなんだか複雑そうな顔をしてから手を上げて作業に戻っていった。
よし、私もやれることはやるぞ!
拭き掃除は子供達に任せて、食事を作ろうか。
「シスター、キッチンをお借りしたいのですが」
「えぇ、もちろん」
買い込んできた新鮮な野菜と肉を大きなお鍋で煮込み、温かいスープを作る。香ばしい匂いが施設中に広がり、お腹を空かせた子供たちが目を輝かせて食堂に集まってきた。
「みんな、温かいうちにたくさん食べてね」
笑顔でスープをよそい、子供たちに手渡していく。「ありがとう!」「すっごく美味しい!」と無邪気に喜ぶ子供たちの笑顔を見て、私の胸は温かな幸福感で満たされていった。
作業を終える頃には、すっかり日が傾いていた。玄関前で片付けをしている二人に声をかける。
「今日は本当にありがとうございます。お二人で作業していただいて……追加で持ってきていただいた資材も入れて、これで足りますか? 少なければ用意しますので、申し訳ないのですがお時間をいただきたく」
相場がわからないとは伝えていたし、少なかったら教えてくれるだろうと一旦金貨十枚を差し出してみると、男は吹き出した。
「そりゃ相場の倍以上だ……これだけもらうよ」
金貨を五枚、私の手から摘んでいく。
「本当に? 足りますか? 今日一日中拘束したようなものですよ?もしかしたら、あの市場で木材を売ってたらもっと売り上げあったかもしれないし……」
「銅貨数枚の木材をどれだけ買い込む奴がいると思ってんだ」
「わかりました、あと二枚で手を打ちましょう」
そう言って金貨二枚を渡すと、男は苦笑いしながら受け取った。
「ぼったくりにさせられちまったな」
「そう何度もある機会ではないでしょうから、感謝の気持ちをお金にできて良かったです」
「はは、変わった人だ。また何かあったら呼んでくれよ」
男たちは笑って、荷車を押して去っていった。
「私もそろそろ帰らないと……シスター、また来ます。ひとまず寄付金を……」
「ありがとうございます。このように良くしていただいて何とお礼を申し上げれば良いか……」
「いいえ! お礼を受け取るに値しないです! では、私はこれで……」
「子供たちに挨拶はしていかれないのですか?」
「えぇ、急いでいますし、別れがたくなりそうで……またすぐ来ます」
そう言うと、シスターは笑って会釈した。
早く帰らないと、アレクシス様に見つかってしまうかも。
帰り道を急ぎながら、ふと自分の手元を見ると、何度も雑巾を絞り、荷物を運んだせいで、手には小さな擦り傷や赤みが残っていた。荒れた自分の手を優しく包み込みながら、充足感に満ちた心地よい疲労感と共に、夕闇の迫る孤児院を後にした。
私がここに来て、初めて誰かの役に立てた気がした。
(アレクシス視点)
その夜――。
公爵邸の重厚な執務室で、アレクシスは妻セレナにつけた護衛から報告書を受け取っていた。デスクの上に置かれた羊皮紙には、妻の今日の行動記録が書かれていた。
「セレナが、屋敷を抜け出して孤児院へ行っていた?」
「はい。奥様は質屋で宝飾品やドレスを売却し、その資金で聖ルチア孤児院の支援のための物資と施設の修繕に使用したようです。奥様自身も、孤児院で洗濯や掃除を行ない、食事をおつくりになられていました。売却された物のリストは二枚目に」
アレクシスは目を細めて、口元に手を当てた。
「あの施設なら、セレナが私財で順調に運営していると報告を受けていたはずだ。なぜ今更、わざわざ自らの宝飾品を質に入れてまで資金を作らねばならん? 支援とはどういうことだ」
護衛は一瞬口篭もり、静かに首を振った。
「現地を調べさせましたところ、あの孤児院への資金提供は途絶えておりました。施設は荒れ果て、子供たちは明日食べるものにも困っていたようです。奥様は……隠しておられたのかと」
「資金提供が、途絶えていた……」
アレクシスは眉根を深く寄せる。
あの施設は公爵夫人となった頃にセレナが作った、個人の所有施設だ。だから、口出しすることはせず、深く聞かなかった。
だが、考えればわかることだ。
彼女は平民の、特に貧民を毛嫌いして近寄ることすらしなかった。そして、宝石やドレスを買い漁り、贅沢をすることが生きがいの人間が、孤児院への出資をいつまでも行なっている方が不自然だ。
しかし、なぜ今になって自分の身を削ってまで償おうとしているのか。
己の嘘で放置していた施設へわざわざ足を運び、自ら掃除をして料理を作っているなど、以前のセレナからは考えられない行動だ。
息を吹き返す前とは別人のようになったとは思っていた。だが、別人ならば尚更、贖罪を行なう意味はないだろう。
アレクシスはデスクの上のペンを握りしめたまま、冷たい窓の外を見つめた。
なんであれ、妻のセレナは生きている。
その妻がやろうとしていることを支えるのが夫の役目だ。
それが悪事であろうと、協力する覚悟を持っていた。
しかし、今、妻がやりたいのは慈善活動のようだ。そうであれば、協力を拒む理由も、妻を止める理由もない。
「引き続き、妻の行動を注視してくれ。それと、例の質屋には……」
「はい。既に話を通してございます。今後、奥様がお見えになられた際には、何を売却されたのか、報告をいただくよう依頼しております。また、市井でのお買い物についても、奥様に気づかれぬよう護衛をつけ、何をどこで購入されたのか、記録を残すよう手配しております」
「頼んだ」
妻の過去の裏切りに対する不信と、現在の信じがたい行動で思考はまとまらない。どちらもセレナのはずなのに、二つは似ても似つかない。一体何が正しいのか、アレクシスにはわからないままだった。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
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