知らない屋敷と、知らない私
頭痛は治ってきたけど、今度はガタガタ揺れる馬車の振動に酔いそうになっている。いまだ私を離そうとしない男に横抱きにされ、男の足の上に座らされている。馬車なんて初めて乗ったけど、こうやって乗るものじゃないことくらいは私にもわかる。
窓の外にはヨーロッパ風の街並みが映し出されている。道端に座った子供たちはなんだかボロボロの服を着ていた。私を抱きかかえているこの男は随分上質そうな服を着ているのに。結構、貧富の差がある街なのかな。
いつまでこの体勢なのかと文句を言いたいところだけど、男の腕からは、絶対に離さないという意志を感じて、「今すぐ離して!」と暴れる勇気が出なかった。
知らない男の腕の中にいる居心地の悪さを感じながら、私は思い切って口を開く。
「……あの、お聞きしてもいいでしょうか」
「なんだ? 何でも言ってくれ」
男は、心配そうに眉をひそめて私を覗き込む。
「私は、誰なのでしょうか……それと、貴方も」
男は数秒間私を見つめたまま動きを止めて、それから困ったように眉を顰めて笑った。
「……新しい駆け引きか? 君は私の妻、セレナ・ヴァルハイト。そして私は夫のアレクシス。この地を治める公爵だ」
「セレナ……アレクシス……」
「……まさか、本当に覚えていないのか?」
「……はい。自分の名前も、貴方のことも……何も思い出せないです」
思い出せないというよりは、最初から知らないのだろう。
現状わかったことは、この男が公爵で、私は公爵夫人。ここは身分制度がある世界で、私はそれなりに身分が高い。そして、公爵夫人は死んだと思われて葬式をしている最中に生き返った。ただし、私という人格が、公爵夫人の身体に入る形で。
いわゆる、転生。成り代わり。そういった類のものなのだろう。
まるで漫画のようだと、どこか傍観する気持ちと、これからどうなるのかわからない不安で気持ちが落ち着かなくなる。これからの身の振り方を考えなくては。そんなことを思いながら身を縮めると、アレクシス様は深くため息をつき、抱きしめる力を少し強めた。
「……長らく病床に伏していたせいかもしれないな。医者に診てもらおう。大丈夫だ、焦らなくていい。何があろうと、私が君の夫であることに変わりはない」
私を慰める言葉のようでいて、どこか自分に言い聞かせているような、不思議な声音だった。傷ついたような眼差しを向ける彼に、なんと答えれば良いか分からない。
やがて馬車の速度が落ち、静かに停車した。
窓の外には、これぞお城と思うような、立派な石造りの建物が建っている。
馬車の扉が開かれても、アレクシス様は私を離す様子はなく、抱きかかえられたまま屋敷の中へ連れられた。
エントランスホールは、吹き抜けの天井に巨大なクリスタルのシャンデリアが輝いていた。壁には落ち着いた深緑色の壁紙が貼られ、等間隔に配置された金色の燭台が光を灯し、足元には毛足の長い赤い絨毯が敷き詰められていた。
けれど、どれほど調度品が豪華であっても、屋敷全体に漂う空気は寒々していた。出迎えた数十人はいそうな使用人たちは、皆一様に頭を下げているが、その体は微かに震えている。
「気分はどうだ、セレナ。寒くはないか? 喉は乾いていないか?」
アレクシス様は私を抱きかかえたまま階段を上がり、二階の奥にある部屋へ運んだ。
重厚なオーク材のドアが開かれると、そこには部屋の中央にシルクの天蓋がついた巨大なベッドが鎮座していた。壁は上品なアイボリー色で塗られており、立派な暖炉は部屋の主人を無くしてから使われていなかったのか、部屋にはひんやりとした冷気が満ちていた。
「冷えているな。春先とはいえまだ寒い。すぐに暖炉に火を入れてくれ」
アレクシス様の指示に、侍女たちは慌ただしく暖炉の準備を始める。
「あ、あの……もう大丈夫です。あとは自分で歩けますから……」
「何を言っている。君は長らく病床に伏し、先ほど息を吹き返したばかりだ。無理をしてはいけない」
アレクシス様はそう言って私を優しくベッドへ下ろすと、足元に膝をついた。壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、丁寧に私の靴を脱がせていく。まるでドラマでも見ているような……いや、ドラマのヒロインになったような光景に、顔に熱が集まっていく。180cmは超えていそうな身長に、切長の目が特徴的な端正な顔立ち。俳優なら売れっ子だろう。
そんな彼の優しい手つきと、私の足を見つめながら傷がないかを確認してる真剣な顔を見下ろす。
ドアが控えめにノックされると、侍女たちが銀のトレーを持って入ってくる。けれど、彼女たちの足取りは重く、視線は固く床に向けられていた。
「お、奥様……お召し上がりください……」
侍女の一人が、引きつった笑みを浮かべながらトレーをベッド脇のテーブルに置いた。
載せられていたのは、銀の器に入った見るからに濃厚そうなクリームスープと、白磁の小皿には色鮮やかなシロップ漬けの果実が載った甘そうなケーキのようだ。
これがこの世界の病み上がり食? それとも、セレナの好きな食べ物?
多分一度死んで、ついさっき生き返ったばかりの私には、どちらも胃には重そうに見えた。
「すみません、お心遣いはとてもありがたいのですが、今はもう少しあっさりしたものが食べたくて……温かいお湯か、食事なら刻んだ野菜の薄めのスープのようなものが嬉しいなと……」
瞬間、部屋の中の空気が凍りついた。
トレーを置いた侍女は目を見開き、手に持っていた布巾を床に落とした。もう一人の侍女も顔を蒼白にして後退る。
アレクシス様もまた、青い目を見開いて動きを止めた。
やっぱり、我儘すぎたかな。
出されたものを食べずに他のものを要求するなんて、失礼だったよね……。
慌てて訂正しようと口を開いた時、先に言葉を発したのはアレクシス様だった。
「聞こえなかったのか? セレナは野菜スープが良いと言っている。急いで厨房に作り直させてくれ」
「は、はいっ! ただちに!」
侍女は勢いよく頭を下げると、逃げるように部屋を飛び出していった。
アレクシス様はベッドの縁に腰かけ、私の手にを覆うように温かい手を重ねた。彼の長い指が、愛おしそうに私の手を撫でている。
「体調によって好みも変わるだろう。望むものは何でも言ってくれ。君の望みなら、世界中を探してでも叶えてみせる」
「……ありがとう、ございます。アレクシス様」
彼があまりにも優しく接してくれるので、恐縮してしまう。
アレクシス様は手を離して、「少し執務室へ行ってくる」と言って部屋を後にした。
一人ぽつんと残されると、衝立の後ろで話をしている侍女たちの会話が聞こえてしまった。
「……信じられる? あのセレナ様が『刻んだ野菜のスープがいい』と仰るなんて……」
「以前なら『こんな貧乏くさい料理、犬でも食べないわ!』って、すぐ下げさせていたのに……」
「それに、旦那様へのあの態度……『ありがとうございます』だなんて、気味が悪いわ。以前なら怒鳴り散らしていたでしょう?」
「死んだ人が生き返ったのよ? まさか、悪魔に魂でも売って、中身が入れ替わってしまったんじゃ……」
前のセレナさんって……そんなに恐ろしい人だったの……?
サイドテーブルの少し開いた引き出しに手鏡が見えた。少し移動して手を伸ばすと、その手鏡で自分の顔を見た。
透き通るような白い肌、輝く黄金色の少し癖のある髪、吸い込まれそうな翡翠色の瞳。息をのむほどの絶世の美女だ。
けれど、その美しい器の中にいた前の人格は、高慢で、気に入らないことがあれば使用人に暴言を吐き、癇癪を起こす悪妻だったらしい。
そして何より恐ろしいのは、そんな悪妻を甘やかそうとするアレクシス様――。
「……これから、どうなっちゃうんだろう……」
私はシーツを固く握りしめ、ぽつりとため息をついた。




