疑惑の公爵夫人と、愛の証明
外はすっかり吐く息が白く染まり、鉛色の空からちらちらと雪が舞い散る季節になっていた。
この日、アレクシス様は朝からお出かけになられていて、私は温かい部屋の中で、北棟で見つけた羊毛の残りを使って編み物に挑戦していた。
あの時は手伝ってくれた侍女たちのおかげで、冬の始まりには無事に膝掛けを届けることができた。この冷え込みなら、きっとあの子たちの役に立っているはずだ。
孤児院に思いを馳せていると、静寂を破るように焦った早いノックが部屋に響いた。侍女が慌ててドアを開けると、息を切らした執事が強張った顔で告げる。
「王宮の監察官様がお見えになられて、奥様に用があると……」
「王宮の監察官……?」
「宮廷や貴族が不正を行っていないか調査する者です」
「不正……!?」
ただならぬ気配に胸騒ぎがし、私は急ぎサロンへと足を向けた。
重々しい扉を開けた瞬間、室内の重苦しい空気に足がすくみそうになる。そこには王宮の紋章を胸につけた監察官らしき人と、数名の騎士、そしてその後ろには貴族の男性と令嬢がいた。
鮮やかな赤毛に、猫のようにパッチリとした目元。あれは先日の午餐会で会ったエレノア嬢だ。
「セレナ・ヴァルハイト公爵夫人」
「はい……」
「ヴァルザック子爵より貴族院へ告発状が提出されました。本来なら貴族院の監査が先ですが……地位ある公爵家の横領の疑いゆえ、国王陛下の勅命により、我が王室監察局が直接の査察権を行使いたします」
「横領……!?」
思わず声を上げてしまった。
横領? どうして、そんな言葉が?
混乱する私の頭の中に、街の質屋でドレスと宝石と引き換えに金貨を受け取った時のことを思い出す。あれが、横領?
心臓が嫌な音を立てて早打ちを始めた。
「ご機嫌よう、セレナ様。先日、街で素敵なエメラルドの宝石を目にしましたの。それに見覚えがあって調べていただきましたら……なんとヴァルハイト家の物だったことがわかりましたの。気になって、どなたがお売りなったのか調べていただいたのですわ!」
勝ち誇ったように高らかに笑うエレノア嬢の隣に、赤毛の男性が並ぶ。エレノア嬢が「お父様」と口にしているから、あれはヴァルザック子爵なのだろう。
「王室監察官様。付け加えるなら、セレナ様は一度、病で命を落としているはず。人が生き返ることなどありえません。それも生き返った後に性格や趣味が変わり、記憶も曖昧になっているなど……まるで別人のようだ。葬儀の直前に棺の遺体と入れ替わり、起き上がって生き返ったように見せたのなら納得がいきます。この女は、公爵夫人を騙り、公爵家を脅かす詐欺師の可能性があります」
冷や汗が背中を伝う。
確かに私の性格は以前のセレナとは似ても似つかない。中身が違うのだから、筆跡も嗜好も違うのは当然だ。
そして何より、街の質屋に確かにあの宝石を売却した。自分の衣装部屋にあったから良いだろうと軽率に売ってしまった行動が、今、この状況を生み出している。
息が詰まり、指先から血の気が引いていくのがわかった。
監察官は冷たい視線を私に投げる。
「質屋での取引書面を確認しました。当主の承認を得ず、家産を処分・流出させる行為は不当横領罪に該当します。従って、アレクシス公爵がお戻りになるまで、身柄を拘束させていただきます」
「待ってください、私は……!」
王室騎士たちが歩み寄り、私へと手を伸ばしてくる。
逃げ場のない恐怖に体が震える。
本当に……連れていかれる。
どうしよう。私自身の罪だけならまだしも、アレクシス様を巻き込んでしまった。私の軽率な行動のせいで、公爵家の名誉に泥を塗ってしまうことになったら――。
その時、サロンの重厚な扉が、豪快な音を立てて開け放たれた。
「私の不在の間に来て妻を拘束しようとは、どういう了見だ」
街へ出かけていたはずのアレクシス様が、肩で息をしながら扉の前に立っていた。
「公爵閣下!」
監察官が一瞬身をすくめるが、すぐに姿勢を正して告げる。
「閣下、子爵の告発により査察に参りました。夫人は公爵家の財産を勝手に売りさばき、街で不審な支出を重ねており――」
「公爵家の財産だと? 妻が質屋で売却した宝飾品は、すべて彼女個人の所有物だ」
「個人の、ですか?」
「ああ。結婚前からの所持品や、私が個人的に贈ったものだ。ヴァルハイト家の財産ならば、地下の宝物庫で管理している。財産目録と照らし合わせれば、すぐに分かるだろう」
アレクシス様は一歩も引くことなく言い切った。監察官はしばらく考え込むように顎に手を当ててから、やがて口を開いた。
「……なるほど。宝飾品が夫人個人の財産だったという点は理解いたしました。ですが、子爵よりもう一つ、別の嫌疑をかけられております」
「別の嫌疑?」
「その女性が、本当にセレナ・ヴァルハイト公爵夫人本人なのかという点です」
ヴァルザック子爵が待っていましたとばかりに私を指差し、声を張り上げる。
「皆、言っているでしょう! 一度は葬儀まで行われたというのに、蘇った後から『まるで別人のように変わった』と! 性格も違う。筆跡も違う。以前の夫人ならば決してしなかったようなことを次々と行っている。しかも、街では『レーナ・ハイト』と名乗っていた。私は、この女性が公爵夫人になりすましている可能性を申し上げているのです」
偽名のことまで把握されていたなんて。
身分を隠そうとしたことが、裏目に出てしまったのだ。
動揺を悟られないように手を強く握りしめていると、アレクシス様は嘲笑する声を漏らした。
「公爵夫人として赴けば、シスターや街の者が身構えてしまう。妻は自らの行いを鼻にかけず、無用の気遣いをさせないためにセレナ・ヴァルハイトではなく、レーナ・ハイトという偽名を名乗ったのだろう。そもそもあの孤児院は妻自身が設立したもの。自分の財産を、自分の孤児院のために使って何が悪い?」
「だ、だが! 筆跡や性格が変わったのはどう説明されるおつもりか! 人が変わったようなその振る舞いは——」
「妻は以前と違う。それは私も認める。だが、長く病に苦しみ、死の淵を彷徨った者が生き延びた時、これまでの生き方を改めることなど珍しくもないだろう。以前と違うというだけでは、彼女が偽物だという証拠にはならない」
アレクシス様は私のもとへ歩み寄ると、私の右手をそっと取り、その掌を監察官に見せるように掲げた。そこには、洗剤や冷水で荒れた肌と小さな擦り傷が残っていた。
「彼女のこの手を見ろ。自ら孤児院を掃除し、子どもたちに食事を作り、冬になる前に膝掛けを贈りたいと羊毛を洗っていたせいで荒れている。公爵家の財産と地位を狙う詐欺師が、わざわざこのような手荒れを作る理由がどこにある?」
アレクシス様は、その荒れた私の手を愛おしそうに両手で優しく包み込むと、子爵たちを射抜くような強い眼差しで見据えた。
「これが身元を証明する絶対的な証拠にはならない。だが、公爵夫人という立場を使えば、人を動かすことなど簡単だったというのに、自らの手で彼らを助けようとしてきた……これこそが、私の認める妻だ。誰よりも公爵夫人に相応しい、私のただ一人の妻だ」
胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
身体は一緒でも、心は違うのだから私は偽物なのだと、誰よりも私自身が思っていた。それなのに……アレクシス様は、今の私を『私の妻だ』と認めてくれた。
ヴァルザック子爵は悔しそうに顔を歪め、縋るように監察官を見つめる。
「妻の個人財産の処分を横領と決めつけ、明確な証拠もなく王家を巻き込んで虚偽の告発を行ったこと。何より、私の妻を偽者と呼ぶなど……ヴァルザック子爵。貴殿の行為は、ヴァルハイト公爵家に対する明確な侮辱だ」
「侮辱など……! 監察官殿!」
蒼白な顔で震えるエレノア嬢と子爵に、監察官は重い溜息を吐き出すと、アレクシス様に向かって深く頭を下げた。
「財産目録との照合は、これより行います。記載された財産が全て現存していることが確認されれば、公爵家の財産が不正に処分された事実はなかったものと判断します。また、身元に関しても疑念の余地はあれど、別人であることを裏付ける客観的証拠は不十分です。大変無礼いたしました、アレクシス公爵。……ヴァルザック子爵。十分な証拠もないまま公爵家による横領と夫人の身元詐称を王家へ告発し、王室監察局による査察まで招いた件については、貴族院にて詳しく調べさせてもらいます」
「そんな……! どうかお許しを……!」
監察官は一礼すると、騎士たちを連れて出て行った。その背中へ縋るように、慌てて子爵親子も追いかけていく。
ついさっきまで、自分が捕らえられ、すべてを失うのだと覚悟していた。それなのに今、私の隣にはアレクシス様がいて、しっかりと手を握ってくれている。
静かになったサロンで張り詰めていた緊張が一気に解け、膝から力が抜けて崩れ落ちそうになった。
「セレナ!」
倒れかける私を、アレクシス様が力強い腕で受け止め、そのまま愛おしそうに強く抱きしめた。身体に伝わる彼の体温と動悸に、自分が本当に助かったのだと実感が湧いてくる。
彼は包み込んだ私の手に、そっと愛おしそうに唇を寄せた。
「君が孤児院へ通い始めた時から、私は君の行動を見守っていた。君の優しさが罪に問われることなど、絶対にさせない。……私が君を必ず守ってみせる」
「アレクシス様……」
溢れ出る涙で視界が滲む。
私の過去も、今の行いも、すべてを信じて守り抜いてくれたことが、何よりも嬉しかった。




