愛された妻と、もう一人の私
アレクシス様は、今日はお帰りが遅いのだそうだ。それを聞いたならば、孤児院の様子を見にいくしかない。
そう思って出かけたものの、夕方には急に天気が崩れ、激しい雨が降り始めた。
しばらくは止むのを待っていたものの、いつまでも弱まらない雨足に、そろそろ帰らないとアレクシス様に不在がバレてしまうと諦めて雨の中帰路に着いた。
家に着く頃にはすっかり外套が濡れていた。水を含んで重くなった外套を脱いで畳み、屋敷の裏口からこっそり足音を殺して忍び込む。誰かと鉢合わせないように足早に廊下を歩いていく。
自室へ続く階段までは、誰にも見つからなかった。あとは階段を登って、少し廊下を歩けばすぐ私の部屋だ。
そう思って階段に足をかけた瞬間。
「そんなに濡れて、どこへ行っていたんだ?」
暗闇の中から、低い声が響いた。
振り返ると、燭台の灯りに照らし出されたアレクシス様が、心配そうに眉を顰めてこちらを見ていた。
「ア……アレクシス様……」
見つかってしまった!
勝手に抜け出していたことがバレた。
怒られるのか、それとも呆れられるのか。アレクシス様の反応が怖くて、縮こまるように一歩後ろに下がる。
アレクシス様は見たこともない表情をしていた。傷ついたような、心配しているような、怒っているような。そんな感情が混ざり合った複雑な顔。
アレクシス様が手を伸ばす。避けようとなく一瞬で私は捕まり、それから手荒れした私の手を、彼は優しく包み込んだ。
「……本当は知っていたんだ。君が度々抜け出して、孤児院へ通っていることを。君の自由を奪いたくなくて、護衛に影から守らせてはいたが……こんな冷たい雨の夜道だ。影で見守っているだけでは、心配で居ても立ってもいられなかった。せめて、こんな日は屋敷へ連絡をして欲しい。迎えにいく」
ウォールライトの灯火が、サファイアブルーの瞳にゆらゆらと映っていた。雨で冷えた手は、アレクシス様の温もりでじわじわと温まっていく。
いつから知っていたのか。
知っていて、何故、何も言わなかったのか。
何故、私の行動を咎めずに、それどころか心配して手助けしようするのか。
「……どうして、ですか……」
私は震える声で、ずっと胸の奥に溜め込んでいた疑問を吐き出した。
「アレクシス様が一番わかっているはずです。私は……中身が入れ替わった、別人です。この体に別の人間の魂が入っている……そういう状態なんです。記憶もありませんし、趣味も、考え方も何もかも違います。貴方の愛したセレナはもういない……なのに、何故あなたは、私を受け入れるのですか? 同じ顔ならば、中身が変わろうと構わないのですか……」
この世界に来て、私がセレナとして過ごしてきた期間も、アレクシス様は変わらずにセレナを愛していた。
明らかにあの日から変わった私を、理解していて、それでも愛してくれた。
……けれど、耐えられなくなってしまった。
以前のセレナが受け取るはずだった愛を、私がずっと騙し続けて受け取っているような感覚に。
アレクシス様は拭いていた手を止め、悲しそうに目を細めた。
「……君から見れば、私は亡き妻の幻影に囚われた狂人に見えていたのだろう」
アレクシス様は、私の手をぎゅっと握りしめて、まっすぐに見つめた。
「かつての妻も、美しく、誇り高い女性だった。だが、重い病に侵され、死の恐怖から、次第に心が歪んでしまった……。我儘を言うことで相手の心を測り、私に執着することでしか存在を保てなくなっていた。私は、そんなセレナを救えなかった……病に怯える妻の我儘を聞き入れ、甘やかすことしかできなかった……。それが私の罪であり、後悔だ」
俯いたアレクシス様は、低い声で言葉を続ける。
「……セレナの呼吸が止まった時、私は自分の無力さと罪悪感に潰されそうだった。だから、君が棺の中で目覚めた時、神が私にやり直す機会を与えてくれたのだと思った。『今度こそ妻を幸せにしなければならない』という思いで、君の異変から目を逸らしていた」
包み込んでいた手が、わずかに震えていた。
「……アレクシス様……」
激しいめまいが私を襲った。
ふらりと体から力が抜けると、そのまま膝から崩れ落ちた。
体が言うことを聞かない。
少し雨に濡れて体を冷やしすぎたのかもしれない。
慌てて支えてくれたアレクシス様が私の名前を呼ぶ。
「――っ!? しっかりしろ、セレナ!」
意識が途切れる寸前、アレクシス様の焦燥に満ちた叫び声と、私を強く抱きとめる温かい腕の感覚だけが残っていた。




