第四十一話 遠ざかるラジオ
北村菜緒が絵葉書を投函してから、八日後。
店の外で、途切れた音楽が聞こえた。
扉の前に立つ老人が、小さな携帯ラジオを耳へ押し当てている。
音量の目盛りは最大だった。
けれど人の声だけが、長い廊下の向こうから聞こえるように遠い。
「もっと大きな音にできますか」
老人は言った。
「この機械だけ、声が聞こえないんです」
◇
神谷隆、七十二歳。
妻の文江と二人で暮らしている。
二年前から、人の声を聞き取りにくくなった。
テレビの音量が大きいと、文江に言われた。
家族で食事をすると、会話の途中で笑う時を間違えた。
孫の声は高く、特に聞き取りにくかった。
隆は、分かったふりをした。
聞き返せば、相手はもう一度話さなければならない。
何度も聞けば、面倒そうな顔をされる。
そう思った。
耳鼻科を勧められても、年寄り扱いするなと断った。
補聴器の広告は、見ないまま捨てた。
聞こえないのではない。
周りが小さな声で話すからだ。
そう言い張った。
隆は若い頃、ラジオの修理店で働いていた。
音の違いには自信があった。
雑音の原因を耳で探し。
わずかな歪みも聞き分けた。
聞こえなくなることは、自分の仕事まで失うことに思えた。
先月。
孫の美月が遊びに来た。
学校の合唱で、一人だけ歌う部分を任されたらしい。
美月は何度も説明した。
隆はほとんど聞き取れなかった。
それでも『よかったな』と答えた。
美月は黙った。
帰り際、文江が言った。
『あの子、選ばれなかったって話してたのよ』
隆は、美月の悲しい話へ笑っていた。
翌日から、ラジオの声だけが遠ざかり始めた。
音楽は聞こえる。
時報も聞こえる。
人が話し始めると、音は遠くなる。
隆は昔の修理仲間を訪ねようと家を出た。
ラジオから漏れる声を追ううちに、知らない路地へ迷い込んだ。
◇
「部品を替えれば直るはずです」
隆はラジオを置いた。
「どの部品でしょう」
店主が尋ねた。
「それを調べるのが修理です」
「隆様は、どこが悪いと思われますか」
「受信する側だ」
答えた瞬間、自分の耳へ手が伸びた。
隆は手を下ろした。
店主は棚から、小さな紙の筒を持ってきた。
色褪せた画用紙を丸め、端をテープで留めたもの。
息子が幼稚園の頃に作った、糸のない糸電話だった。
「電話になっていません」
「そうですね」
「息子は昔から不器用だった」
隆は紙の筒を耳へ当てた。
何も聞こえない。
「これで、よく話したんですか」
「何をでしょう」
「聞こえないでしょう」
「隆様は、どうなさったのですか」
記憶の中で、幼い息子が筒の反対側から何かを言っている。
隆は聞こえないと笑った。
息子も、もっと近づいて大声で話した。
二人は何度も聞き返した。
聞こえないことが、恥ずかしくなかった頃がある。
「今は、聞き返せません」
隆は言った。
「相手に気を遣わせる」
「分かったふりをすると、気を遣わせませんか」
美月が黙った顔を思い出した。
「もう一度話すのは、面倒でしょう」
「そう思う方も、いらっしゃるかもしれません」
店主は言った。
「それでも、お話を聞いてほしい方もいらっしゃるのでは」
聞こえない事実を隠すたび。
隆は会話の中から少しずつ離れていた。
迷惑をかけないためではない。
聞こえなくなった自分を、知られないためだった。
「耳が悪いと認めたら、私は何になるんでしょう」
「隆様では、なくなるのでしょうか」
音を直せた自分。
家族の話を黙って聞けた自分。
その姿にしがみつき、目の前の声を失っていた。
店主は紙の筒を差し出した。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
隆は両手で受け取った。
◇
幼い息子が、糸のない電話へ叫んでいる。
『おとうさん、きこえる?』
『聞こえないな』
『じゃあ、ちかくにいく』
息子は筒を持ったまま、隆の膝へ座った。
口を直接、隆の耳へ寄せた。
『おとうさん、だいすき』
『今度は聞こえた』
隆が答えると、息子は笑った。
大切なのは、一度で聞き取ることではなかった。
届く方法を、一緒に探すことだった。
隆が忘れていたのは、若い頃の耳ではない。
聞こえないと言って、相手のそばへ行く素直さだった。
◇
ラジオから、近い声が聞こえた。
すべての言葉が鮮明になったわけではない。
隆は何度か、耳を澄ませた。
「今のところを、もう一度」
ラジオの声は繰り返さなかった。
代わりに店主が、少しだけ笑った。
◇
隆は耳鼻科へ行った。
検査を受け、補聴器を試すことにした。
最初の日は、食器の触れ合う音ばかりが大きく感じられた。
文江の声も、以前と違って聞こえた。
隆は外したくなった。
その前に言った。
「まだ上手く聞き取れない」
文江は正面へ座り直した。
ゆっくり話した。
次の日曜、美月へ電話をかけた。
「この前の合唱の話、もう一度してくれないか」
美月は少し黙ったあと、話し始めた。
選ばれなくて悔しかったこと。
それでも合唱は続けたいこと。
隆は二度、聞き返した。
美月は二度、言い直した。
最後に尋ねた。
『今度は、ちゃんと聞こえた?』
「全部じゃない。でも、聞きたい」
受話器の向こうで、美月が笑った。
◇
帳簿。
預かり品 若い頃の耳
一本線を引く。
預かり品 聞こえないと言って近づく素直さ
所有者 神谷隆
返却 済
店主は帳簿を閉じた。
棚の小さな古い鍵が、かすかに鳴った。
鍵穴からではなく、鍵そのものの内側から響いたように聞こえた。
店主には、理由が分からなかった。




