第四十話 宛先の消える絵葉書
坂口和夫が看板を裏返してから、三日後。
夕暮れの店へ、旅行鞄を引いた女性が来た。
手には、一枚の絵葉書。
宛先を書き終えるたび、住所だけが白く消えた。
「送りたい相手がいるんです」
女性は言った。
「でも、この葉書が受け取ってくれません」
◇
北村菜緒、三十三歳。
五年前、大学時代からの友人・梨沙と小さな旅行会社を始めた。
菜緒は企画を作り。
梨沙は客と現地をつないだ。
有名な場所を急いで巡る旅ではなく。
町の食堂で店主と話したり。
観光地ではない路地を歩いたり。
二人が好きだった旅を商品にした。
会社は少しずつ評判になった。
三年前。
雑誌から取材の依頼が来た。
菜緒は自分が代表として話した。
記事では、会社を作ったのも企画を考えたのも、菜緒一人のように書かれた。
梨沙の名前は、小さく一度出ただけだった。
菜緒は訂正を頼むと言った。
けれど記事がきっかけで予約が増えると、何もしなかった。
『会社のためだから』
梨沙にも、自分にもそう説明した。
梨沙は笑って『分かった』と言った。
半年後、会社を辞めた。
二人は連絡を取らなくなった。
菜緒は事業を続けた。
新しい社員も増えた。
取材を受けるたび、共同創業者がいたと話すようにした。
それが償いになると思った。
今年の春。
梨沙が別の町で旅行案内の仕事をしていると知った。
会いに行こうとして、やめた。
謝れば、自分が楽になりたいだけだと思われる。
許してほしいと言えば、さらに梨沙へ負担をかける。
菜緒は旅先で絵葉書を買った。
謝罪を書いた。
『返事はいりません』と添えた。
けれど、その下へ続けてしまった。
『いつか、また話せたら嬉しいです』
宛先を書くと、住所が消えた。
梨沙の職場へ向かう途中、菜緒は道を間違えた。
細い路地の先に、古いランタンが灯っていた。
◇
「住所は合っています」
菜緒は絵葉書を見せた。
「送りたくないのでしょうか」
「送りたいです」
「では、受け取ってほしくないのでしょうか」
「そんなわけありません」
声が強くなった。
店主は謝り、棚から革の荷札を持ってきた。
大学の卒業旅行で、梨沙と一つの鞄を使った時のものだった。
表には二人の名前。
裏には、梨沙の字で書かれている。
『迷ったら、別々に探す』
「喧嘩したんです」
地図の読み方で言い争い、別々の道を探した。
一時間後、同じ広場へ戻ってきた。
梨沙は怒ったまま、菜緒へ温かい飲み物を渡した。
『一緒に迷うより、別々に迷ったほうが早い』
その言葉を、二人は会社の合言葉にした。
「私は、梨沙を置いて一人で正しい道へ行った」
「正しい道だったのでしょうか」
「会社は残りました」
菜緒は答えた。
それが正しさの証拠だと思わなければ、梨沙を傷つけた事実に耐えられなかった。
「謝りたいんです」
「はい」
「でも、許してもらえなかったら、何のために送るんでしょう」
口にしてから、菜緒は黙った。
返事はいらないと書きながら。
心の中では、許しの返事を待っていた。
梨沙に届くはずの謝罪へ、自分が救われるための宛先も重ねていた。
「許してほしいと思うことまで、いけないんでしょうか」
「私には決められません」
店主は言った。
「ただ、お返事を選ぶのは、どなたでしょう」
「梨沙です」
「菜緒様が選べるのは?」
菜緒は絵葉書を見た。
書くこと。
送ること。
そして、返事を要求しないこと。
店主は荷札を差し出した。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
菜緒は、二人の名前が並ぶ表へ触れた。
◇
会社を辞める日の夜。
梨沙は机を片づけていた。
菜緒は何度も謝った。
『悪かった。でも、あの取材がなかったら会社は』
『今、それを言うんだ』
『違う。言い訳じゃなくて』
梨沙は手を止めた。
『菜緒は、謝ったあとに必ず正しさを足すよね』
菜緒は否定した。
その後の言葉を、思い出さないようにしていた。
『謝罪まで二人分決めないで。許すかどうかは、私に残して』
梨沙は自分の鞄を持って出ていった。
菜緒が忘れていたのは、送る勇気ではなかった。
謝った結果を、相手へ返す覚悟だった。
◇
絵葉書の文章から、最後の一文が消えた。
『いつか、また話せたら嬉しいです』
残ったのは、言い訳のない謝罪と、返事はいらないという言葉だった。
宛先は消えなかった。
◇
菜緒は郵便ポストへ絵葉書を入れた。
投入口から手を離すまで、長い時間がかかった。
一週間。
一か月。
返事は来なかった。
菜緒は、梨沙の職場へ確かめに行かなかった。
会社のウェブサイトに、創業時から梨沙と作った企画の経緯を記した。
梨沙へ見せるためではない。
これから仕事をする人に、同じことをしないためだった。
社員との企画会議では、提案者の名前を資料へ残す決まりを作った。
若い社員から、名前を載せたくない仕事もあると言われた。
菜緒は一度決めた方法を押しつけず、本人が選べる形に直した。
梨沙へしたことの反対をすれば、すべて正しくなるわけではない。
目の前の相手へ、その都度尋ねる必要があった。
三か月後。
会社へ一枚の絵葉書が届いた。
海辺の町の写真。
裏には短く書かれていた。
『受け取りました』
許すとも、会いたいとも書かれていない。
菜緒はその言葉を、勝手に続きを書かずに受け取った。
◇
帳簿。
預かり品 謝罪の返事
一本線を引く。
預かり品 結果を相手へ返す覚悟
所有者 北村菜緒
返却 済




