第十三話 歌えない子守歌
野村沙知が悲しみを持ち帰ってから、六日後。
朝早く。
赤ん坊を抱いた男性が来店した。
「すみません。ここは、何のお店でしょうか」
腕の中で、赤ん坊が泣いている。
「さっきまで、音を追いかけていたはずなんです」
◇
松井航、二十九歳。
生後八か月の娘・結を育てている。
妻の遥は、海外赴任中だった。
夫婦で話し合い、遥が一年間赴任し、航が育児休業を取った。
二人で決めた。
後悔はない。
けれど。
結は、夜になると泣いた。
ミルク。
おむつ。
室温。
抱き方。
育児書の通りに確かめる。
それでも泣き止まない。
遥と画面越しにつなぐと。
子守歌を聞いただけで眠った。
『航も歌ってみて』
『俺、音痴だから』
『赤ちゃんは採点しないよ』
航は笑って断った。
父親なのだから。
きちんとできなければと思った。
料理も。
寝かしつけも。
予防接種の予定も。
遥に不安を感じさせたくなかった。
朝、結が目を覚ます前に洗濯を始める。
離乳食を小分けにし。
育児記録へ、睡眠時間とミルクの量を書く。
一日の終わりに数字が並ぶと、少し安心した。
何もできなかった日ではないと思えた。
近所の子育て支援室へ、一度だけ行った。
母親たちの輪の中で。
航は、どこへ座ればよいか分からなかった。
職員は親切だった。
それでも「お父さんなのに偉いですね」と言われるたび。
胸の奥がざらついた。
遥なら、できて当然と見られることを。
自分は少しやるだけで褒められる。
だからこそ、失敗してはいけないと思った。
遥との通話でも。
結が笑った場面だけを画面へ映した。
泣き止まない夜のことは、話さなかった。
昨夜。
結は三時間泣き続けた。
航も、床へ座って泣いた。
「ごめん。お父さん、分からない」
その時。
押し入れから古い音楽箱の音がした。
開けると、中には何もない。
それでも、途切れ途切れの旋律が聞こえた。
音は玄関の外へ続いている。
泣く結を抱いたまま追いかけると、見覚えのない路地へ入り、店の前に立っていた。
◇
「忘れものと言われても、心当たりがありません」
航が言った。
「ただ、あの音を聞くと、この子が少しだけ泣き止んだんです」
「聞き覚えはありますか?」
「ある気がします。でも、思い出せない」
航は少し迷い、続けた。
「もし歌を思い出せたら、良い父親になれるでしょうか」
「良い父親とは、どのような方でしょう」
店主は尋ね返した。
「子どもを泣き止ませられる人です」
「泣き止まない時は、父親ではなくなるのでしょうか」
「そういう意味じゃありません」
航は強く答えた。
結が驚き、さらに泣いた。
航は慌てて背中を叩く。
「ごめん、ごめん」
謝る声まで焦っていた。
店主は湯を沸かし、白湯を一杯置いた。
「少し座られますか」
「抱いてないと泣くので」
「泣いたまま座っても、よいのではありませんか」
航は立ったまま迷った。
やがて椅子へ腰を下ろす。
結は泣き続けた。
店主は困ったように首を傾げる。
「私には、赤ん坊を泣き止ませる方法が分かりません」
「店主なのに?」
「店主ですので」
航は、疲れた顔のまま少し笑った。
腕の中で、結が声を上げた。
店主は棚から、小さな鈴を持ってきた。
赤い紐が結ばれている。
航の母が、幼い航の枕元へ置いていた鈴だった。
「母さんが、歌ってた」
子守歌。
歌詞は覚えていない。
母は五年前に亡くなった。
「思い出せば、同じようにできますか」
「同じである必要は、ありますか?」
航は黙った。
店主が告げる。
「戻るのは歌だけではないかもしれません」
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
「はい」
◇
夜の部屋。
幼い航が泣いている。
母が抱き上げる。
歌い始める。
音程は外れていた。
歌詞も途中で変わった。
『母さん、下手』
『知ってる』
『ちゃんと歌って』
『ちゃんとって、難しいねえ』
母は笑った。
『分からない時は、一緒に困ればいいの』
歌ではなかった。
完璧な抱き方でも。
正しい答えでもない。
泣いている自分のそばで。
母も困りながら、離れなかった。
それが安心だった。
別の夜も戻った。
母は航を抱いたまま、父へ電話していた。
『今日、何をしても泣き止まないの』
声は震えていた。
完璧に見えた母も。
一人では抱えきれない夜があった。
父が帰宅すると、母は航を渡した。
『十分だけ寝かせて』
航が覚えていた子守歌は。
母一人の強さから生まれたものではなかった。
◇
航は店の中で歌った。
音程は外れた。
歌詞は二番で途切れた。
それでも続けた。
結はすぐには泣き止まなかった。
航は焦らなかった。
「分からないね」
娘へ言う。
「でも、ここにいるよ」
やがて結の泣き声が小さくなった。
家へ帰り。
遥へ電話した。
「俺、うまくできない日がある」
初めてそう言った。
遥も答えた。
『私も、ここへ来たことが正しかったか不安になる日がある』
二人は、答えを出さずに話した。
翌日。
航は支援室へもう一度行った。
今度は入口で帰らなかった。
「寝かしつけが、うまくできません」
職員へそう伝えた。
隣にいた母親が笑う。
「うちもです」
結はその間も泣いていた。
誰も航を失格とは言わなかった。
◇
帳簿。
預かり品 子守歌
一本線を引く。
預かり品 一緒に困る心
所有者 松井航
返却 済
小瓶の白い花びらに、赤い紐の影が重なった。
花びらの端に、見覚えのない文字のような線が浮かび、消えた。




