第十四話 帰れない切符
松井航が店を訪れてから、五日後。
最終電車が出たあとの時刻に、ベルが鳴った。
三十代の女性が、古い片道切符を差し出した。
「この切符、どこ行きか分かりますか?」
行き先の文字だけが、きれいに消えていた。
◇
有村奈緒、三十四歳。
七年前、故郷を出た。
商店街で小さな洋菓子店を始めるためだった。
母は反対した。
『安定した仕事を辞めてまで?』
奈緒は言い返した。
『絶対に成功してみせる』
駅で買った片道切符。
帰りの切符は買わなかった。
三年間働き、店を開いた。
最初は客が来た。
雑誌にも載った。
けれど家賃が上がり、材料費も高くなった。
売上は落ちた。
借金が増えた。
閉店を決める半年前から。
奈緒は朝四時に起きていた。
焼き菓子を並べ。
開店前に写真を撮り、店の情報を発信した。
『今日も焼き上がりました』
明るい言葉の下で。
予約は一件も入らない日があった。
常連客から。
『無理しないでね』と言われた。
奈緒は『大丈夫です』と笑った。
最後の一か月。
アルバイトへ給料を払い、自分の分は残らなかった。
厨房の冷蔵庫が壊れた夜。
修理代を計算し。
初めて、続けられないと認めた。
シャッターへ閉店のお知らせを貼る時。
通りかかった客が、残念そうに頭を下げた。
失敗しただけの店なら。
どうして誰かが惜しんでくれるのか。
奈緒には受け取れなかった。
先月、店を閉めた。
母には言えなかった。
電話では「順調」と嘘をついた。
故郷の駅までの切符を買おうとしても、指が動かなかった。
成功して帰ると宣言した。
失敗した自分には、帰る資格がない。
そう思った。
閉店した店の床で片道切符を見つけた夜。
出発駅も日付も残っているのに、行き先だけが消えていた。
駅員へ見せようと歩き始めた。
けれど駅へ着かない。
何度曲がっても、知らない石畳へ戻ってくる。
その突き当たりに、この店があった。
◇
「忘れもの預かり所、ですか」
奈緒は困ったように笑った。
「私は、切符の行き先を知りたいだけなんです」
「どこへ向かうために買った切符でしょう」
「故郷を出る時です。もう七年前のものです」
「今は、どちらへ行きたいのですか?」
奈緒は答えようとして、言葉を失った。
帰りたい。
その一言が、喉で止まった。
代わりに。
「成功した証拠があれば、行き先を思い出せるかもしれません」
そう答えた。
「成功した証拠とは、どのようなものでしょう」
「売上とか。賞とか。二号店とか」
「お客様が召し上がったお菓子は、証拠にはなりませんか」
「店がなくなれば、残りません」
「では、失敗の証拠は何でしょう」
奈緒は閉店した店を思った。
借金。
空になったショーケース。
剥がした看板。
それらは確かに残っている。
成功だけは、形にならなければ認めないのに。
失敗は、店を閉めたという一点だけで決めていた。
店主は棚から、小さな紙箱を持ってきた。
中には、焦げたクッキーが一枚。
奈緒が十歳の時、初めて焼いたもの。
母は硬いクッキーをかじり。
『おいしい』と言った。
「嘘だった」
奈緒は笑った。
「絶対まずかったのに」
「なぜ、残っているのでしょう」
「分かりません」
「私もです」
店主は微笑んだ。
奈緒は紙箱へ手を伸ばしかけ、止める。
「帰ったら、失敗したって言わなきゃいけない」
「はい」
「母に『だから言ったでしょう』って言われるかもしれない」
「そうかもしれません」
「帰らない方が、傷つかない」
「今は、傷ついていないのですか?」
奈緒は答えられなかった。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
「はい」
◇
台所。
十歳の奈緒が、焦げたクッキーを差し出している。
母は一口食べる。
顔をしかめた。
『苦い』
『おいしいって言った』
『おいしいところもある』
母はもう一口かじった。
『失敗したら、もう作っちゃ駄目?』
『どうして?』
『下手だから』
母は笑った。
『下手なまま、また作ればいいでしょう』
二度目のクッキーは、少しだけ薄かった。
三度目は焦げなかった。
母は毎回、同じように食べた。
『今度はどう?』
『前よりいい』
『おいしい?』
『それは次ね』
奈緒は笑った。
成功するまで愛されたのではない。
失敗している途中も、食卓に居場所があった。
奈緒は忘れていた。
母が褒めたのは、成功した味ではない。
失敗しても、作った奈緒だった。
次の記憶。
故郷を出る駅。
母は言っていた。
『帰りたくなったら帰ってきなさい』
奈緒は強がって答えた。
『成功するまで帰らない』
帰る条件をつけたのは、母ではない。
奈緒自身だった。
◇
「私、成功を探していたんじゃない」
奈緒は切符を握る。
「失敗した自分でも、帰っていいと思いたかった」
店を出た朝。
奈緒は駅へ向かった。
故郷までの切符を一枚買う。
母へ電話した。
「店、閉めた」
沈黙。
奈緒は泣きそうになる。
やがて母が言った。
『そう。ご飯、何がいい?』
「私、お菓子しか作ってこなかったから」
奈緒は声を詰まらせた。
『知ってる』
「もう作らないかもしれない」
『それは帰ってから決めなさい』
故郷へ着いた日。
母は駅まで迎えに来なかった。
足が痛いから、と電話で言った。
奈緒は一人で実家まで歩いた。
玄関を開けると、母は台所にいた。
「おかえり」
その一言だけだった。
奈緒も「ただいま」と答えた。
成功した時のために考えていた長い報告は、必要なかった。
「だから言ったでしょう」とは言わなかった。
言われたとしても。
奈緒は帰るつもりだった。
◇
帳簿。
預かり品 帰り道
少し考え。
預かり品 失敗したまま帰る勇気
所有者 有村奈緒
返却 済
店主が万年筆を置く。
古い木の扉が、遠くで小さく鳴った。
小瓶の白い花びらが裏返る。
裏側に、一文字だけ浮かんでいた。
『帰』
店主が触れる前に、文字は消えた。
扉はまだ閉じている。




