第十二話 笑わない家族写真
高瀬修一が店を訪れてから、四日後。
一枚の家族写真を持った女性が来店した。
「あの、ここは写真屋さんですか?」
店主は首を横へ振った。
「ではありません」
「そうですよね。どうしてここへ来たのか、自分でも……」
写真の中で。
女性の顔だけが、白く霞んでいた。
◇
野村沙知、三十八歳。
夫を事故で亡くして、一年になる。
写真は夫の一周忌に撮ったものだった。
沙知と、小学六年生の息子・陸。
夫の両親。
沙知の母。
撮影の直前、義母が言った。
『孝之も、みんなの笑顔を見たいと思うわ』
陸は笑った。
両親も笑った。
沙知だけが、どうしても笑えなかった。
写真館の人は何度も撮り直した。
頬を上げる。
口角を作る。
けれど目が笑わない。
「一年も経ったのに」
沙知は自分を責めた。
周りは少しずつ日常へ戻っていた。
陸は友達と笑う。
義母は趣味の教室へ通い始めた。
沙知も仕事へ復帰した。
それなのに。
楽しいと思うたび、夫を置いていく気がした。
悲しい顔をしていると、周りを困らせる気がした。
どちらの顔も選べなかった。
朝。
陸へ弁当を渡す。
「行ってらっしゃい」と言う。
玄関が閉まると、沙知は台所の椅子へ座った。
孝之が使っていたマグカップは、食器棚の奥にある。
捨ててはいない。
使ってもいない。
休日には、陸から映画へ誘われた。
『友達と行っておいで』
そう断った。
面白い映画を見て笑う自分を、想像できなかった。
一方で。
陸が友達と笑いながら帰ると、ほっとした。
息子には日常へ戻ってほしい。
自分だけは戻ってはいけない。
矛盾した二つを、誰にも言えなかった。
一周忌の前夜。
陸が尋ねた。
『明日、笑わないと駄目?』
沙知は答えた。
『おじいちゃんたちが心配するから』
それは陸へ向けた言葉であり。
自分へ命じた言葉でもあった。
今朝、写真立てを見ると。
沙知の顔だけが、白く霞んでいた。
汚れかと思い、布で拭いた。
画像データを開けば、そちらでも顔が見えない。
写真館へ相談に行こうと家を出た。
けれど、いつもの駅へ向かう途中で道を間違えた。
気づけば、細い路地に立っていた。
◇
「忘れもの預かり所……」
沙知は看板を読み直した。
「私、何か落としたんでしょうか」
「それを、これから探すのかもしれません」
店主は写真を見る。
「このお写真について、伺ってもよろしいですか?」
沙知が事情を話し終えると、店主は尋ねた。
「笑えるようになりたいのでしょうか」
「笑いたいのでしょうか」
店主が尋ねる。
「息子を安心させたいんです」
「沙知様は?」
「私は母親ですから」
「それは、お名前ではありませんね」
沙知は顔を上げた。
店主が棚から持ってきたのは、小さな紙袋だった。
中には、映画館の半券が二枚。
夫と最後に見た、喜劇映画。
帰り道。
二人で同じ場面を思い出し、何度も笑った。
事故の三日前だった。
「これを思い出したら、もっと苦しくなる」
「そうかもしれません」
「笑ったことを後悔しています」
「なぜでしょう」
「何も知らずに幸せだったから」
沙知は半券を握る。
「笑っていた私は、夫が死ぬことを知らなかった」
「知っていたら、笑わなかったのでしょうか」
「当たり前です」
「では、孝之様は、最後に笑った沙知様を残念に思われたでしょうか」
沙知の顔が強張る。
「死んだ人の気持ちを、勝手に決めないでください」
店主は静かに頭を下げた。
「失礼しました」
沙知は半券を置いた。
立ち上がりかける。
けれど、帰らなかった。
店主が反論しなかったからかもしれない。
「みんな、孝之ならこう言うって話すんです」
沙知は座り直した。
「前を向けとか。幸せになれとか。笑ってほしいとか」
指先で半券の角を折る。
「でも私は、そんな立派な言葉を聞いたことがない」
孝之は、脱いだ靴下を放置する人だった。
喧嘩をすれば、黙り込む人だった。
優しいだけの人ではなかった。
美しい思い出だけにすると。
一緒に暮らした人が、遠くなる気がした。
店主は急かさなかった。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
長い沈黙のあと。
沙知は頷いた。
◇
映画館を出た夜。
孝之が笑っている。
『あの転び方、反則だろ』
『あなたの笑い声の方がうるさかった』
『沙知だって泣いてたじゃないか』
『笑いすぎてね』
二人で歩いた。
孝之が、ふいに言う。
『最近、陸の前で喧嘩ばっかりだったな』
『あなたが靴下を脱ぎっぱなしにするから』
『帰ったら片づけます』
『明日には忘れてる』
『じゃあ、忘れてたら笑って許して』
沙知は答えた。
『笑えるかどうかは、その時決める』
孝之は笑った。
未来を知らなかった笑顔。
だからこそ嘘ではない。
事故のあと。
陸が布団の中で泣いていた夜も戻った。
『お母さん、悲しくないの?』
沙知は、息子を安心させようとして言った。
『大丈夫』
本当は。
『悲しい』と一緒に泣きたかった。
その続きを思い出す。
陸は布団の中から手を伸ばしていた。
けれど沙知は、その手を握らなかった。
握れば、自分も泣いてしまうから。
『お母さんは大丈夫だから、寝なさい』
部屋を出たあと。
廊下へ座り込み、声を殺して泣いた。
陸に見せまいとした悲しみは。
陸からも、泣ける場所を奪っていた。
◇
「私が失くしたのは、笑顔じゃない」
沙知は言った。
「悲しい顔をしてもいい場所だったんですね」
笑うことも。
泣くことも。
夫を忘れることではない。
その夜。
沙知は陸へ言った。
「お母さん、まだ悲しい」
陸は黙ってから。
「僕も」と答えた。
二人で泣いた。
しばらくして、陸が孝之の失敗談を話した。
沙知は泣きながら笑った。
翌週。
沙知は義母へ電話した。
「写真、撮り直したいです」
義母は戸惑った。
沙知は続ける。
「今度は、笑うかどうか決めないで」
撮り直した写真で。
陸は少しだけ笑っていた。
沙知の目は赤かった。
義母は孝之の写真を抱いていた。
誰も同じ顔ではない。
それでも、沙知の顔は消えなかった。
◇
帳簿。
預かり品 笑顔
一本線を引く。
預かり品 悲しめる場所
所有者 野村沙知
返却 済




