第十一話 重すぎる鞄
白い花びらは、店主の足元に落ちていた。
拾い上げても、冷たい。
以前、少年へ返した小瓶に入っていた花びらに似ている。
けれど、同じものかは分からない。
店主は新しい小瓶へ入れ、古い扉から離れた。
扉は再び閉じている。
一週間後。
カラン――。
大きな革鞄を抱えた男性が来店した。
「これを、軽くしてもらえませんか」
◇
高瀬修一、五十二歳。
小さな印刷会社の営業部長だった。
鞄の中には、ノートパソコン。
書類。
得意先の見本。
部下が忘れた契約書。
社長に頼まれた資料。
重さを量れば、六キロほど。
けれど最近は、持ち上げるたび肩が沈んだ。
「部長なら何とかしてくれる」
そう言われるのが、嫌いではなかった。
朝、誰より早く出社する。
給湯室の電気をつけ。
夜のうちに届いたメールを確認する。
部下が相談へ来る前に、困りそうなことを見つけて片づけた。
佐藤の見積書に数字の誤りがあれば、黙って直した。
取引先から無理な納期を求められれば。
「私が現場へ話します」と引き受けた。
感謝されると、肩の痛みが少し軽くなった。
家へ帰るのは、いつも日付が変わる頃だった。
妻が残した夕食を温めていると。
社会人になった娘から、たまにメッセージが届いた。
『ちゃんと寝てる?』
修一は毎回、同じ返事をした。
『大丈夫』
実際には、夜中に何度も目が覚めた。
明日の仕事が一つずつ浮かび。
朝まで消えなかった。
父が始めた会社だった。
父の死後、兄が社長になり、修一が現場を支えた。
不景気も。
大口の失注も。
人手不足も。
何とかしてきた。
先月。
若い部下の佐藤が退職を申し出た。
『もう限界です』
修一は答えた。
『みんな限界だ。今だけ踏ん張ってくれ』
佐藤は俯いた。
『高瀬さんは、平気なんですか』
『俺は部長だからな』
笑ってみせた。
その翌朝。
修一は会社の前で動けなくなった。
鞄を持ち上げられない。
取っ手を握っても、床から離れない。
中身を全部出しても。
鞄だけが、石のように重かった。
引きずって歩くうち、知らない路地へ入った。
◇
「鞄を置いていけば、軽くなりますか」
修一が尋ねた。
「鞄は軽くなると思います」
店主は答えた。
「修一様は?」
「名前、言いましたか」
「いいえ」
「ここでは普通なんですね」
「普通ではありませんが、珍しくはありません」
店主が棚から持ってきたのは、古い肩たたき券だった。
子どもの字で書かれている。
『おとうさんをたすけるけん』
修一の息が止まった。
娘が七歳の時にくれたもの。
二十年前。
『お父さん、疲れてる』
『大丈夫だ』
『これ使って』
『ありがとう。今度な』
机の引き出しへ入れた。
使わないまま、なくした。
「私は、助けてもらうほど弱くない」
修一は言った。
「弱い方だけが、助けを求めるのでしょうか」
「部長が弱音を吐いたら、皆が不安になります」
「強いふりを続けた結果、佐藤様は安心されたでしょうか」
修一は答えられなかった。
佐藤の最後の顔。
『高瀬さんは、平気なんですか』
あれは質問ではなかった。
一緒に限界だと言ってほしかったのかもしれない。
「佐藤は、私よりずっと若いんです」
修一は鞄の取っ手を握った。
「私が疲れたと言えば、あいつはもっと言えなくなる」
「だから、言わなかったのでしょうか」
「上に立つ人間は、最後まで立っているものです」
「倒れたあとも、立っているように見せますか?」
修一は答えに詰まった。
会社の前で動けなかった朝。
通りかかった佐藤が、鞄を持とうとした。
修一は反射的に手を払った。
『触るな。先に行け』
佐藤の傷ついた顔を。
今になって思い出す。
「助けてもらったら、私がやってきたことまで否定される気がするんです」
店主は肩たたき券を見た。
「助けを受け取ることと、これまで支えたことは、同時には残せないのでしょうか」
「触れれば、何が戻るんです」
「私にも、まだ分かりません」
修一は肩たたき券を見つめた。
「本当に、思い出してもよろしいですか?」
「お願いします」
◇
娘が七歳だった夜。
修一は食卓で眠っていた。
娘が小さな手で肩を叩く。
『お父さんをたすけるけん、使う?』
『大丈夫だ』
そう答えながら。
本当は嬉しかった。
助けてほしかった。
でも父は、家族を守るものだと思っていた。
守られる側になってはいけないと。
次の記憶。
父の病室。
会社を頼む、と言われた日。
『一人で背負うな』
父は確かにそう続けた。
兄と分けろ。
社員へ相談しろ。
会社は、一人で守るものではない。
父は息を切らしながら、何度も言った。
修一は『分かった』と答えた。
けれど父が亡くなったあと。
覚えていたのは『会社を頼む』だけだった。
頼まれた自分でなければ。
父の期待へ応えられないと思ったから。
修一は、その言葉だけを忘れていた。
◇
「鞄が重かったんじゃない」
修一は涙を拭った。
「一人で持つと決めたことが、重かったんですね」
店主は微笑んだ。
店を出る時。
革鞄は普通の重さへ戻っていた。
翌朝。
修一は会議で言った。
「今の仕事量は、俺一人でも皆だけでも支えられない」
社長である兄を見る。
「人を増やしてほしい。それまで、受注を減らしたい」
反対意見は出た。
話し合いは長引いた。
それでも修一は、大丈夫だとは言わなかった。
退職前の佐藤にも電話した。
謝罪したあと。
「俺も限界だった」と伝えた。
電話の向こうは、しばらく無言だった。
やがて佐藤が言った。
『それ、もっと早く聞きたかったです』
責める声ではなかった。
だから余計に、修一は痛かった。
「すまなかった」
『戻るかどうかは、まだ決められません』
「分かってる」
『でも、高瀬さんが休むなら、少し安心します』
その週末。
修一は娘へ電話した。
肩たたき券のことは話さなかった。
代わりに。
「今度の休み、肩でも揉んでくれないか」と頼んだ。
娘は笑った。
『券、二十年も期限切れだけどいい?』
修一も笑った。
使わなかった券を、娘も覚えていた。
◇
帳簿。
預かり品 強さ
一本線を引く。
預かり品 頼る権利
所有者 高瀬修一
返却 済
小瓶の白い花びらが、かすかに揺れた。




