EP 8
鎧の詐欺契約と、勇者の借金一〇〇万円
ポポロ山スキー場からの帰り道。
ロックバイソンの移動車は、夕暮れの平原を、ゆっくりと進んでいた。
車内では、ユートが、まだ、戦闘の興奮を、引きずっていた。
「いやー、今日の俺、最高だったよな! ライトニング・ブレイク、決まったよな!」
「ユート、それ、三回目」
「だって、嬉しかったんだよ! 久しぶりに、活躍できたっていうかさ!」
「ふん」
クレアは、家計簿を、開いて、今日の収支を、計算していた。
討伐報酬、金貨十枚。
経費、移動費と、薬草代で、銀貨三枚。
差し引き、金貨九枚と、銀貨七枚。
そろばんを、ぱちぱちと、弾く。
「今日の純利益、金貨九枚七銀貨ね。悪くないわ」
「な、クレア、これで、借金、少しは、減らせるか?」
「……」
クレアの、そろばんを弾く手が、止まった。
「減らせるけど」
「けど?」
「焼け石に水、ね」
「……ぐっ」
「あんた、借金、いくら残ってると思ってるの」
「……金貨、九十枚、くらい?」
「九十二枚よ。利子込みで」
「……ぐぐっ」
「今日の利益で、二枚減らせたとして、残り九十枚。月に二回くらい、こういう依頼があれば、年で、二十四枚。完済まで、約四年ね」
「よ、四年……」
「しかも、その間、生活費も、装備の修繕費も、かかる。実際は、もっと、かかるわよ」
「……うわぁ」
ユートは、頭を、抱えた。
その様子を、玲は、隣で、静かに、見ていた。
市役所時代、玲は、こういう光景を、何百回も、見てきた。
多重債務の、相談窓口。
借金の額に、絶望して、頭を抱える人。
その隣で、必死に、家計をやりくりしようとする、家族。
玲は、その全てに、対応してきた。
そして、その経験で言えば──。
ユートの借金には、何か、おかしいところがあった。
「ユート様」
「な、なんだ、玲さん」
「少し、お聞きしたいのですが」
「お、おう」
「その借金、元々、いくらだったんですか」
「ああ、最初は、百万円だ。金貨百枚」
「何の、借金ですか」
「……装備代だよ」
「装備代」
「そう。この、鉄の鎧セットだ」
ユートは、自分の、鉄の鎧を、こんこん、と、叩いた。
鉄の剣。鉄の盾。鉄の鎧。
全身、鉄装備。
玲は、その鎧を、じっと、見た。
【査定眼】が、勝手に、起動する。
『装備分析
品目:鉄の剣、鉄の盾、鉄の鎧
製造元:タローマン
製品名:冒険者初心者応援セット
定価:金貨一枚(一万円相当)
品質:初心者向け、最低ランク』
玲の、頬が、ぴくり、と、引きつった。
市役所時代に、滅多に、見せなかった、表情だった。
「ユート様」
「な、なんだ」
「この装備、どこで、購入されましたか」
「ルチアナだよ」
「……ルチアナ様」
「そう。転生する時に、女神ルチアナが、こう言ったんだ」
ユートは、当時を、思い出すように、語り始めた。
「『アナスタシア世界で、役に立つわよ』って。『これは、伝説の鎧セットよ』って。『勇者なら、これくらい、装備しないとね』って」
「……伝説の鎧セット」
「そう。『百万円だけど、二十歳から、支払いでいいわよ』って。『今は、お金、ないでしょ?』って」
「……それで、契約を」
「おう。だって、伝説の鎧だぜ? 百万円なら、安いと思ったんだ」
玲は、無言で、頷いた。
頭の中で、市役所時代の、知識が、ぐるぐると、回り始めた。
詐欺による意思表示。
消費者契約法。
重要事項の不実告知。
「ユート様」
「な、なんだ、玲さん。さっきから、顔が、怖いぞ」
「この鎧、伝説でも、何でも、ありません」
「……は?」
「タローマンの、初心者応援セットです」
「……は?」
「定価、金貨一枚。一万円です」
ユートの、動きが、止まった。
クレアの、そろばんを弾く手も、止まった。
車内に、沈黙が、流れた。
「……い、一万円?」
「はい」
「俺が、百万円で、買った、鎧が?」
「はい」
「一万円?」
「はい」
「……は?」
「つまり、ルチアナ様は、一万円の鎧を、百万円で、あなたに、売りつけました」
「……は? は? は?」
「差額、九十九万円。これが、詐欺の、利益です」
ユートの、顔が、徐々に、赤くなっていった。
いや、赤を、通り越して、紫色に、なっていった。
「あの……あの、女神……」
「ユート、落ち着いて」
「落ち着けるか、クレア! 俺、一万円の鎧を、百万円で、買わされてたんだぞ!?」
「…………それ、本当なの?」
クレアが、玲を、見た。
その目に、冷たい、怒りの色が、宿っていた。
「白石玲さん。それ、本当ですか」
「事実です」
「証拠は」
「【査定眼】が、製造元と、定価を、表示しています。それと──」
玲は、ジャケットの内ポケットから、一枚の、書類を、取り出した。
「ユート様、契約書、お持ちですか」
「あ、ああ……これだ」
ユートは、ジャケットの内ポケットから、ボロボロの、契約書を、取り出した。
玲は、それを、受け取った。
羊皮紙の、金銭消費貸借契約書。
元本、金貨百枚。
月々、金貨二枚八銀貨。
しかし──。
契約書の、下部に、異様に、細かい字で、何かが、書かれていた。
玲は、目を、細めて、その細かい字を、読んだ。
『※本契約に基づき購入される「伝説の鎧セット」の市場価値については、買主は一切異議を申し立てないものとする。なお、支払い不能の場合、買主はマグローザ漁船への乗船義務を負うものとする』
「……これは」
玲の、目が、鋭くなった。
「ユート様。この、細かい字、読みましたか」
「……いや、読んでない。だって、小さすぎて、読めないだろ」
「そうですか」
玲は、契約書を、机に、置いた。
そして、ゆっくりと、ネクタイを、締め直した。
市役所時代の、覚悟の、仕草。
ただし、今回は、いつもと、違った。
玲の、目の奥に──。
静かな、怒りが、宿っていた。
市役所時代、玲は、こういう「弱い立場の人間を、騙す契約」を、何百件も、見てきた。
悪徳業者の、リフォーム詐欺。
高齢者を、狙った、訪問販売。
無知に、つけ込んだ、ローン契約。
その、全てに、玲は、対応してきた。
そして、その全てに、玲は、静かに、怒っていた。
法律は、玲を、裏切らない。
だが、人を、騙す人間は、絶対に、許さない。
それが、神であっても。
「ユート様」
「な、なんだ」
「この契約、取り消せます」
「……は?」
「詐欺による、意思表示の、取り消しです」
「……え? え?」
「ご説明します」
玲は、淡々と、説明を、始めた。
「この契約は、ルチアナ様が、一万円の鎧を、『伝説の鎧』と、嘘をついて、百万円で、売りつけたものです」
「……うん」
「これは、重要事項の、不実告知です。つまり、嘘をついて、契約させた、ということです」
「……うん」
「このような契約は、取り消すことが、できます」
「……マジで?」
「マジです」
「……でも、俺、もう、十万円くらい、返したぞ?」
「返した分は、不当利得として、返還請求できます」
「……ふ、ふとう、りとく?」
「ルチアナ様が、不当に、受け取ったお金、ということです。返してもらえます」
「……マジで?」
「マジです」
ユートは、しばらく、ぽかんと、していた。
それから、徐々に、目が、潤んできた。
「……俺の、借金、消えるのか?」
「消えます」
「……マ、マジで?」
「マジです」
「……うわぁぁぁぁ!」
ユートは、突然、号泣し始めた。
鉄の鎧を、ガチャガチャ鳴らしながら、子供のように、泣いた。
「俺、ずっと、借金が、怖くて……マグローザ漁船が、怖くて……だから、必死に、魔獣を、狩って……でも、全然、減らなくて……もう、無理かもって……」
「ユート……」
クレアが、ユートの、肩に、手を置いた。
「でも……でも、消えるのか……俺の、借金……」
「ユート、よかったわね」
「クレア……俺……俺……」
ユートは、クレアの肩に、顔を、埋めて、泣き続けた。
玲は、その光景を、静かに、見ていた。
市役所時代、玲は、こういう瞬間を、何度も、見てきた。
借金の重圧から、解放された人が、泣き崩れる瞬間。
その度に、玲は、思っていた。
(この仕事を、していて、よかった)
誰にも、見られなくても。
誰にも、感謝されなくても。
こういう瞬間のために、自分は、書類を、書いているのだ、と。
そして、今──。
玲は、ユートが、泣く姿を、見ながら、市役所時代には、味わえなかった、何かを、感じていた。
目の前で、人が、救われていく。
その瞬間を、直接、見ることができる。
これが、ポポロ村での、仕事の、意味だった。
ポポロ村に、戻ると、すでに、夜だった。
玲は、村役場に、戻ると、すぐに、書類の作成に、取り掛かった。
詐欺契約取消通知書。
不当利得返還請求書。
二通の、書類を、作成する。
【行政】スキルが、起動する。
『書類錬成
件名:詐欺による意思表示の取消、及び、不当利得の返還請求
当事者:申立人 ユート・ディスパーダ/相手方 女神ルチアナ
内容:
一、女神ルチアナは、市場価値金貨一枚の「冒険者初心者応援セット」を、「伝説の鎧セット」と偽り、金貨百枚で販売した
二、これは重要事項の不実告知に該当し、当該契約は取り消される
三、すでに支払われた金貨十枚は、不当利得として返還されたい』
玲は、その書類に、【公印】を、押した。
ぱぁっ、と、書類が、光った。
神聖契約、成立。
「リリスさん」
「は、はい」
「この書類を、ルチアナ様に、お届けできますか」
「えっ、ルチアナ様に、ですか?」
「はい」
「ど、どうやって?」
「エンジェルすまーとふぉんで、神界に、送れますよね」
「あっ、できますぅ!」
リリスは、エンジェルすまーとふぉんを、取り出した。
画面を、操作する。
「えっと、神界宛、書類送信……はい、送れますぅ!」
「お願いします」
「はーい!」
リリスは、書類を、神界に、送信した。
数秒後──。
エンジェルすまーとふぉんが、ピロン、と、鳴った。
「あっ、ルチアナ様から、返信、来ましたぁ」
「読んでください」
「えっと……『またあいつかぁぁぁ! なんで、私の周りには、書類で、私を、追い込む奴らばっかりなのよぉぉぉ!』、ですぅ」
「……」
「続きが、ありますぅ。『分かったわよ! 返すわよ! ユートの借金、消すわよ! 十万円も、返すわよ! もう、玲のこと、嫌い!』、ですぅ」
「ありがとうございます、と、お伝えください」
「はーい!」
玲は、ふっ、と、口角を、上げた。
市役所時代に、滅多に、見せなかった、笑みだった。
詐欺契約、取消、完了。
ユートの、借金百万円が、消滅した。
その夜。
村役場の、応接室。
ユートは、まだ、泣き腫らした目を、していた。
しかし、その顔には、憑き物が、落ちたような、晴れやかさが、あった。
「玲さん」
「はい」
「……ありがとう」
「いえ」
「俺、勇者になってから……いや、転生してから、ずっと、誰にも、助けてもらえなかった」
「……」
「勇者って、誰かを、助ける存在だろ? だから、誰も、勇者を、助けてくれないんだ。当たり前だって、思ってた」
「……」
「でも、あんたは、俺を、助けてくれた」
「仕事ですから」
「いや、違う」
ユートは、首を、横に、振った。
「仕事だったら、ここまで、しないだろ。借金、消すだけじゃなくて、十万円まで、取り返してくれた」
「……」
「あんた、本気で、俺のこと、助けようとしてくれただろ」
「……」
玲は、何も、言わなかった。
市役所時代、玲は、こういう「感謝の言葉」を、ほとんど、受け取ったことが、なかった。
書類を、処理しても。
借金を、整理しても。
誰も、玲を、見ていなかった。
でも、ユートは、玲を、見ていた。
「ユート様」
「な、なんだ」
「一つだけ、申し上げます」
「お、おう」
「あなたは、勇者です」
「……は?」
「借金に、追われていても、必死に、魔獣を、狩り続けた。それは、立派な、勇者の姿です」
「……玲さん」
「これからは、借金の重圧なく、本当の、勇者を、目指してください」
ユートは、しばらく、無言だった。
それから──。
ぐしゃり、と、顔を、歪めた。
「……うっ、ううっ……」
「ユート、また、泣いてる」
「う、うるさい、クレア! 泣いてねぇ!」
「泣いてるじゃない」
「泣いてねぇ! 目から、汗が、出てるだけだ!」
「はいはい」
クレアは、ため息を、つきながらも、ユートの背中を、さすった。
その手つきが、優しかった。
玲は、その光景を、見ながら、思った。
(この二人、やっぱり、夫婦だな)
その時──。
応接室の、ドアが、すっ、と、開いた。
クレアが、立ち上がって、玲の前に、来た。
そして、深々と、頭を、下げた。
「白石玲さん」
「はい」
「あの、馬鹿を、助けてくれて、ありがとうございます」
その声には、いつもの、計算高さは、なかった。
純粋な、感謝だけが、そこに、あった。
「……クレアさん」
「私、正直に、言います」
「はい」
「私、最初は、ユートが、稼ぐ一億円が、目当てで、聖女に、なりました」
「……はい」
「NISAとか、積立貯金とか、そういうことばっかり、考えてました」
「……はい」
「でも──」
クレアは、ユートの方を、ちらり、と、見た。
ユートは、まだ、目を、こすっていた。
「こいつ、馬鹿だけど、本当に、必死だったんです」
「……」
「借金に、追われて、それでも、誰かを、助けようとして、毎日、必死に、戦って」
「……」
「私、いつの間にか、こいつが、本物の勇者に、なるところを、見たいって、思うように、なってて」
「……」
「それなのに、私、こいつの借金、減らすことしか、できなくて。一億円のことしか、考えられなくて」
クレアの、声が、震えていた。
「でも、あなたは、こいつの、本当の問題を、解決してくれました」
「……」
「ありがとうございます。本当に」
玲は、しばらく、無言だった。
それから、ゆっくりと、口を、開いた。
「クレアさん」
「はい」
「あなたは、計算高い人です」
「……はい」
「でも、その計算は、ユート様のための、計算でした」
「……え?」
「栄養管理、家計管理、経費の計算。全て、ユート様が、勇者で、あり続けるための、計算です」
「……」
「それは、打算では、ありません。愛情です」
クレアの、顔が、ぼっ、と、赤くなった。
「な、何を、言って……」
「事実を、申し上げただけです」
「……ぐっ」
「あなたは、立派な、聖女です」
「……白石玲さん」
「はい」
「あなた、口説くの、上手いですね」
「……は?」
「冗談です」
クレアは、ふっ、と、笑った。
いつもの、計算高い笑みでは、ない。
柔らかい、笑みだった。
「でも、本当に、ありがとうございます」
「いえ」
「これからも、ポポロ村の、認可勇者として、頑張ります。私と、あの馬鹿で」
「よろしくお願いします」
「おい、馬鹿って、誰のことだ!」
「あんたよ、ユート」
「ぐっ」
三人は、笑った。
その光景を、玲は、温かい気持ちで、見ていた。
仮認可勇者制度、初期の関係構築、順調。
市役所時代、玲は、「制度に組み込まれた人間は、時間と共に、変わる」と、信じていた。
その仮説は、今、確実に、実証されつつあった。
ユートと、クレアが、宿屋へと、帰った後。
玲は、一人、応接室に、残った。
窓の外には、ほぼ満月の、月が、輝いていた。
あと、一日。
満月まで、あと、一日。
その時──。
応接室の、ドアが、すっ、と、開いた。
キャルルだった。
いつものように、ふんわりとした服装。
手には、人参柄のハンカチ。
ただ──。
その表情は、いつもより、少し、固かった。
「玲さん」
「キャルル村長」
「ユート様の、借金、消されたんですね」
「ええ」
「素晴らしい、ご判断です」
「ありがとうございます」
キャルルは、玲の前に、来た。
そして、じっと、玲を、見つめた。
「玲さん」
「はい」
「一つ、お聞きしても、よろしいですか」
「何でしょう」
「あなたは、他人の、借金や、問題は、解決します」
「……はい」
「でも、あなた自身の、借金は、どうなんですか」
玲の、動きが、止まった。
「……私自身の、借金」
「ルチアナ様への、借金が、あるんですよね」
「……はい」
「元々、いくら、だったんですか」
「……金貨百枚です」
「減らせないんですか」
「……神務費精算書で、九十万円に、減額しました」
「まだ、九十万円も、残っているんですか」
「……はい」
「なぜ、あなた自身の、借金は、ユート様のように、取り消さないんですか」
玲は、しばらく、無言だった。
その質問に、玲は、答えられなかった。
いや、答えは、分かっていた。
自分の借金は、詐欺ではない。
ルチアナは、玲には、嘘をついて、いない。
初期装備費として、正当に、請求した。
だから、取り消せない。
しかし、本当の理由は、別のところに、あった。
「……キャルル村長」
「はい」
「私は、他人のためには、書類を、書けます」
「……はい」
「でも、自分のためには──」
「自分のためには?」
「……あまり、得意では、ありません」
玲は、ぽつりと、言った。
その言葉に、キャルルの、うさ耳が、ぴくり、と、動いた。
いつもの、嬉しそうな揺れ方では、ない。
心配そうな、揺れ方だった。
「玲さん」
「はい」
「それは、市役所の時から、ですか」
玲は、はっとした。
キャルルが、玲の、核心を、突いていた。
市役所時代、玲は、他人の、生活保護申請を、何百件も、処理した。
他人の、借金を、整理した。
他人の、問題を、解決した。
でも、自分自身は、過労死するまで、働き続けた。
自分のためには、何も、しなかった。
誰も、玲を、助けてくれなかった。
いや──。
玲が、自分を、助けることを、しなかった。
「……そうかも、しれません」
玲は、正直に、答えた。
キャルルは、しばらく、無言で、玲を、見つめた。
それから──。
ふっ、と、微笑んだ。
いつもの、温かい笑顔だった。
ただ、その笑顔の奥に、何か、決意のようなものが、宿っていた。
「玲さん」
「はい」
「あなたは、他人を、助ける、優しい人です」
「……」
「でも、自分のことは、後回しに、する人です」
「……」
「だから──」
キャルルは、玲に、一歩、近づいた。
「わたくしが、あなたを、助けます」
「……え?」
「あなたが、自分のことを、後回しに、するなら」
「……」
「わたくしが、あなたのことを、最優先に、します」
「……キャルル村長」
「だから──」
キャルルの、瞳が、月明かりの中で、わずかに、紅く、染まり始めた。
「ずっと、わたくしの、そばに、いてくださいね♡」
「……」
「ずっと、ずっと、です♡」
玲は、彼女の言葉に、すぐには、答えられなかった。
市役所時代、玲は、こういう「重い好意」を、向けられたことが、なかった。
いや、好意どころか、誰かに、心配されることすら、なかった。
だから──。
キャルルの言葉に、玲は、どう、反応すればいいのか、分からなかった。
ただ──。
胸の奥に、温かいものが、灯った。
そして、同時に、首筋に、冷たいものも、流れた。
温かさと、冷たさ。
それが、キャルルの、好意の、本質だった。
「……ありがとうございます、キャルル村長」
玲は、ようやく、口を、開いた。
「ですが、私は、ポポロ村の、事務官です」
「はい」
「村のために、働くのが、私の、仕事です」
「はい」
「自分のことより、村のことを、優先するのは──」
「それが、駄目なんです」
キャルルが、玲の言葉を、遮った。
その声が、わずかに、低く、なっていた。
「玲さん」
「……はい」
「あなたは、また、自分を、すり減らそうとしています」
「……」
「市役所の時と、同じように」
「……」
「わたくしは、それを、見過ごせません」
キャルルの、目が、紅く、染まっていた。
しかし、その目には、攻撃性は、なかった。
ただ──。
深い、心配が、そこに、あった。
「玲さん。約束してください」
「……何を」
「無理を、しないと」
「……」
「疲れたら、休むと」
「……」
「自分のことも、大切にすると」
玲は、しばらく、無言だった。
その約束を、玲は、市役所時代、誰にも、求められたことが、なかった。
無理を、しないこと。
疲れたら、休むこと。
自分を、大切にすること。
当たり前のことを、誰も、玲に、言ってくれなかった。
でも、今──。
目の前の、月兎族の村長が、それを、玲に、求めていた。
「……善処します」
「約束、ですよ?」
「……善処します」
「約束、です♡」
「……はい」
キャルルは、にっこりと、笑った。
その瞬間、瞳の、紅い色が、すっ、と、消えた。
いつもの、ふんわりとした、温かい色に、戻っていた。
「よかった」
「……」
「では、玲さん。今夜は、もう、お休みください」
「……はい」
「明日は、満月、ですから」
「……」
「ゆっくり、休んで、くださいね」
キャルルは、ぺこり、と、頭を下げて、応接室を、出ていった。
その後ろ姿を、見送りながら、玲は、ぽつりと、つぶやいた。
「……明日は、満月」
窓の外で、月が、輝いていた。
あと、一日。
玲は、知らなかった。
その満月の夜に──。
ポポロ村に、最悪の客が、訪れることを。
そして、その夜、玲は、ようやく、知ることになる。
「満月の日だけ、少々、激しい」、という、依頼書の、本当の意味を。
さらに──キャルルが、玲に、「無理をするな」と、約束させた、その理由を。
、「玲を本気で心配する者」という第三のモードを足した。
「あなたは、また、自分を、すり減らそうとしています。市役所の時と、同じように」
ヤンデレの紅い目が、攻撃性ではなく心配で発動した。これは第25話「今度はわたくしが守る」への布石として完璧に機能する。ヤンデレが"守る側"に回る反転の、最初の一歩。




