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退職届を出したら異世界の村役場に配属されました 〜書類とハンコでヤンデレ村長と勇者を雇用しています〜  作者: 月神世一


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8/13

EP 8

鎧の詐欺契約と、勇者の借金一〇〇万円

 ポポロ山スキー場からの帰り道。

 ロックバイソンの移動車は、夕暮れの平原を、ゆっくりと進んでいた。

 車内では、ユートが、まだ、戦闘の興奮を、引きずっていた。

「いやー、今日の俺、最高だったよな! ライトニング・ブレイク、決まったよな!」

「ユート、それ、三回目」

「だって、嬉しかったんだよ! 久しぶりに、活躍できたっていうかさ!」

「ふん」

 クレアは、家計簿を、開いて、今日の収支を、計算していた。

 討伐報酬、金貨十枚。

 経費、移動費と、薬草代で、銀貨三枚。

 差し引き、金貨九枚と、銀貨七枚。

 そろばんを、ぱちぱちと、弾く。

「今日の純利益、金貨九枚七銀貨ね。悪くないわ」

「な、クレア、これで、借金、少しは、減らせるか?」

「……」

 クレアの、そろばんを弾く手が、止まった。

「減らせるけど」

「けど?」

「焼け石に水、ね」

「……ぐっ」

「あんた、借金、いくら残ってると思ってるの」

「……金貨、九十枚、くらい?」

「九十二枚よ。利子込みで」

「……ぐぐっ」

「今日の利益で、二枚減らせたとして、残り九十枚。月に二回くらい、こういう依頼があれば、年で、二十四枚。完済まで、約四年ね」

「よ、四年……」

「しかも、その間、生活費も、装備の修繕費も、かかる。実際は、もっと、かかるわよ」

「……うわぁ」

 ユートは、頭を、抱えた。

 その様子を、玲は、隣で、静かに、見ていた。

 市役所時代、玲は、こういう光景を、何百回も、見てきた。

 多重債務の、相談窓口。

 借金の額に、絶望して、頭を抱える人。

 その隣で、必死に、家計をやりくりしようとする、家族。

 玲は、その全てに、対応してきた。

 そして、その経験で言えば──。

 ユートの借金には、何か、おかしいところがあった。

「ユート様」

「な、なんだ、玲さん」

「少し、お聞きしたいのですが」

「お、おう」

「その借金、元々、いくらだったんですか」

「ああ、最初は、百万円だ。金貨百枚」

「何の、借金ですか」

「……装備代だよ」

「装備代」

「そう。この、鉄の鎧セットだ」

 ユートは、自分の、鉄の鎧を、こんこん、と、叩いた。

 鉄の剣。鉄の盾。鉄の鎧。

 全身、鉄装備。

 玲は、その鎧を、じっと、見た。

 【査定眼】が、勝手に、起動する。

『装備分析

 品目:鉄の剣、鉄の盾、鉄の鎧

 製造元:タローマン

 製品名:冒険者初心者応援セット

 定価:金貨一枚(一万円相当)

 品質:初心者向け、最低ランク』

 玲の、頬が、ぴくり、と、引きつった。

 市役所時代に、滅多に、見せなかった、表情だった。

「ユート様」

「な、なんだ」

「この装備、どこで、購入されましたか」

「ルチアナだよ」

「……ルチアナ様」

「そう。転生する時に、女神ルチアナが、こう言ったんだ」

 ユートは、当時を、思い出すように、語り始めた。

「『アナスタシア世界で、役に立つわよ』って。『これは、伝説の鎧セットよ』って。『勇者なら、これくらい、装備しないとね』って」

「……伝説の鎧セット」

「そう。『百万円だけど、二十歳から、支払いでいいわよ』って。『今は、お金、ないでしょ?』って」

「……それで、契約を」

「おう。だって、伝説の鎧だぜ? 百万円なら、安いと思ったんだ」

 玲は、無言で、頷いた。

 頭の中で、市役所時代の、知識が、ぐるぐると、回り始めた。

 詐欺による意思表示。

 消費者契約法。

 重要事項の不実告知。

「ユート様」

「な、なんだ、玲さん。さっきから、顔が、怖いぞ」

「この鎧、伝説でも、何でも、ありません」

「……は?」

「タローマンの、初心者応援セットです」

「……は?」

「定価、金貨一枚。一万円です」

 ユートの、動きが、止まった。

 クレアの、そろばんを弾く手も、止まった。

 車内に、沈黙が、流れた。

「……い、一万円?」

「はい」

「俺が、百万円で、買った、鎧が?」

「はい」

「一万円?」

「はい」

「……は?」

「つまり、ルチアナ様は、一万円の鎧を、百万円で、あなたに、売りつけました」

「……は? は? は?」

「差額、九十九万円。これが、詐欺の、利益です」

 ユートの、顔が、徐々に、赤くなっていった。

 いや、赤を、通り越して、紫色に、なっていった。

「あの……あの、女神……」

「ユート、落ち着いて」

「落ち着けるか、クレア! 俺、一万円の鎧を、百万円で、買わされてたんだぞ!?」

「…………それ、本当なの?」

 クレアが、玲を、見た。

 その目に、冷たい、怒りの色が、宿っていた。

「白石玲さん。それ、本当ですか」

「事実です」

「証拠は」

「【査定眼】が、製造元と、定価を、表示しています。それと──」

 玲は、ジャケットの内ポケットから、一枚の、書類を、取り出した。

「ユート様、契約書、お持ちですか」

「あ、ああ……これだ」

 ユートは、ジャケットの内ポケットから、ボロボロの、契約書を、取り出した。

 玲は、それを、受け取った。

 羊皮紙の、金銭消費貸借契約書。

 元本、金貨百枚。

 月々、金貨二枚八銀貨。

 しかし──。

 契約書の、下部に、異様に、細かい字で、何かが、書かれていた。

 玲は、目を、細めて、その細かい字を、読んだ。

『※本契約に基づき購入される「伝説の鎧セット」の市場価値については、買主は一切異議を申し立てないものとする。なお、支払い不能の場合、買主はマグローザ漁船への乗船義務を負うものとする』

「……これは」

 玲の、目が、鋭くなった。

「ユート様。この、細かい字、読みましたか」

「……いや、読んでない。だって、小さすぎて、読めないだろ」

「そうですか」

 玲は、契約書を、机に、置いた。

 そして、ゆっくりと、ネクタイを、締め直した。

 市役所時代の、覚悟の、仕草。

 ただし、今回は、いつもと、違った。

 玲の、目の奥に──。

 静かな、怒りが、宿っていた。

 市役所時代、玲は、こういう「弱い立場の人間を、騙す契約」を、何百件も、見てきた。

 悪徳業者の、リフォーム詐欺。

 高齢者を、狙った、訪問販売。

 無知に、つけ込んだ、ローン契約。

 その、全てに、玲は、対応してきた。

 そして、その全てに、玲は、静かに、怒っていた。

 法律は、玲を、裏切らない。

 だが、人を、騙す人間は、絶対に、許さない。

 それが、神であっても。

「ユート様」

「な、なんだ」

「この契約、取り消せます」

「……は?」

「詐欺による、意思表示の、取り消しです」

「……え? え?」

「ご説明します」

 玲は、淡々と、説明を、始めた。

「この契約は、ルチアナ様が、一万円の鎧を、『伝説の鎧』と、嘘をついて、百万円で、売りつけたものです」

「……うん」

「これは、重要事項の、不実告知です。つまり、嘘をついて、契約させた、ということです」

「……うん」

「このような契約は、取り消すことが、できます」

「……マジで?」

「マジです」

「……でも、俺、もう、十万円くらい、返したぞ?」

「返した分は、不当利得として、返還請求できます」

「……ふ、ふとう、りとく?」

「ルチアナ様が、不当に、受け取ったお金、ということです。返してもらえます」

「……マジで?」

「マジです」

 ユートは、しばらく、ぽかんと、していた。

 それから、徐々に、目が、潤んできた。

「……俺の、借金、消えるのか?」

「消えます」

「……マ、マジで?」

「マジです」

「……うわぁぁぁぁ!」

 ユートは、突然、号泣し始めた。

 鉄の鎧を、ガチャガチャ鳴らしながら、子供のように、泣いた。

「俺、ずっと、借金が、怖くて……マグローザ漁船が、怖くて……だから、必死に、魔獣を、狩って……でも、全然、減らなくて……もう、無理かもって……」

「ユート……」

 クレアが、ユートの、肩に、手を置いた。

「でも……でも、消えるのか……俺の、借金……」

「ユート、よかったわね」

「クレア……俺……俺……」

 ユートは、クレアの肩に、顔を、埋めて、泣き続けた。

 玲は、その光景を、静かに、見ていた。

 市役所時代、玲は、こういう瞬間を、何度も、見てきた。

 借金の重圧から、解放された人が、泣き崩れる瞬間。

 その度に、玲は、思っていた。

(この仕事を、していて、よかった)

 誰にも、見られなくても。

 誰にも、感謝されなくても。

 こういう瞬間のために、自分は、書類を、書いているのだ、と。

 そして、今──。

 玲は、ユートが、泣く姿を、見ながら、市役所時代には、味わえなかった、何かを、感じていた。

 目の前で、人が、救われていく。

 その瞬間を、直接、見ることができる。

 これが、ポポロ村での、仕事の、意味だった。

 ポポロ村に、戻ると、すでに、夜だった。

 玲は、村役場に、戻ると、すぐに、書類の作成に、取り掛かった。

 詐欺契約取消通知書。

 不当利得返還請求書。

 二通の、書類を、作成する。

 【行政】スキルが、起動する。

『書類錬成

 件名:詐欺による意思表示の取消、及び、不当利得の返還請求

 当事者:申立人 ユート・ディスパーダ/相手方 女神ルチアナ

 内容:

 一、女神ルチアナは、市場価値金貨一枚の「冒険者初心者応援セット」を、「伝説の鎧セット」と偽り、金貨百枚で販売した

 二、これは重要事項の不実告知に該当し、当該契約は取り消される

 三、すでに支払われた金貨十枚は、不当利得として返還されたい』

 玲は、その書類に、【公印】を、押した。

 ぱぁっ、と、書類が、光った。

 神聖契約、成立。

「リリスさん」

「は、はい」

「この書類を、ルチアナ様に、お届けできますか」

「えっ、ルチアナ様に、ですか?」

「はい」

「ど、どうやって?」

「エンジェルすまーとふぉんで、神界に、送れますよね」

「あっ、できますぅ!」

 リリスは、エンジェルすまーとふぉんを、取り出した。

 画面を、操作する。

「えっと、神界宛、書類送信……はい、送れますぅ!」

「お願いします」

「はーい!」

 リリスは、書類を、神界に、送信した。

 数秒後──。

 エンジェルすまーとふぉんが、ピロン、と、鳴った。

「あっ、ルチアナ様から、返信、来ましたぁ」

「読んでください」

「えっと……『またあいつかぁぁぁ! なんで、私の周りには、書類で、私を、追い込む奴らばっかりなのよぉぉぉ!』、ですぅ」

「……」

「続きが、ありますぅ。『分かったわよ! 返すわよ! ユートの借金、消すわよ! 十万円も、返すわよ! もう、玲のこと、嫌い!』、ですぅ」

「ありがとうございます、と、お伝えください」

「はーい!」

 玲は、ふっ、と、口角を、上げた。

 市役所時代に、滅多に、見せなかった、笑みだった。

 詐欺契約、取消、完了。

 ユートの、借金百万円が、消滅した。

 その夜。

 村役場の、応接室。

 ユートは、まだ、泣き腫らした目を、していた。

 しかし、その顔には、憑き物が、落ちたような、晴れやかさが、あった。

「玲さん」

「はい」

「……ありがとう」

「いえ」

「俺、勇者になってから……いや、転生してから、ずっと、誰にも、助けてもらえなかった」

「……」

「勇者って、誰かを、助ける存在だろ? だから、誰も、勇者を、助けてくれないんだ。当たり前だって、思ってた」

「……」

「でも、あんたは、俺を、助けてくれた」

「仕事ですから」

「いや、違う」

 ユートは、首を、横に、振った。

「仕事だったら、ここまで、しないだろ。借金、消すだけじゃなくて、十万円まで、取り返してくれた」

「……」

「あんた、本気で、俺のこと、助けようとしてくれただろ」

「……」

 玲は、何も、言わなかった。

 市役所時代、玲は、こういう「感謝の言葉」を、ほとんど、受け取ったことが、なかった。

 書類を、処理しても。

 借金を、整理しても。

 誰も、玲を、見ていなかった。

 でも、ユートは、玲を、見ていた。

「ユート様」

「な、なんだ」

「一つだけ、申し上げます」

「お、おう」

「あなたは、勇者です」

「……は?」

「借金に、追われていても、必死に、魔獣を、狩り続けた。それは、立派な、勇者の姿です」

「……玲さん」

「これからは、借金の重圧なく、本当の、勇者を、目指してください」

 ユートは、しばらく、無言だった。

 それから──。

 ぐしゃり、と、顔を、歪めた。

「……うっ、ううっ……」

「ユート、また、泣いてる」

「う、うるさい、クレア! 泣いてねぇ!」

「泣いてるじゃない」

「泣いてねぇ! 目から、汗が、出てるだけだ!」

「はいはい」

 クレアは、ため息を、つきながらも、ユートの背中を、さすった。

 その手つきが、優しかった。

 玲は、その光景を、見ながら、思った。

(この二人、やっぱり、夫婦だな)

 その時──。

 応接室の、ドアが、すっ、と、開いた。

 クレアが、立ち上がって、玲の前に、来た。

 そして、深々と、頭を、下げた。

「白石玲さん」

「はい」

「あの、馬鹿を、助けてくれて、ありがとうございます」

 その声には、いつもの、計算高さは、なかった。

 純粋な、感謝だけが、そこに、あった。

「……クレアさん」

「私、正直に、言います」

「はい」

「私、最初は、ユートが、稼ぐ一億円が、目当てで、聖女に、なりました」

「……はい」

「NISAとか、積立貯金とか、そういうことばっかり、考えてました」

「……はい」

「でも──」

 クレアは、ユートの方を、ちらり、と、見た。

 ユートは、まだ、目を、こすっていた。

「こいつ、馬鹿だけど、本当に、必死だったんです」

「……」

「借金に、追われて、それでも、誰かを、助けようとして、毎日、必死に、戦って」

「……」

「私、いつの間にか、こいつが、本物の勇者に、なるところを、見たいって、思うように、なってて」

「……」

「それなのに、私、こいつの借金、減らすことしか、できなくて。一億円のことしか、考えられなくて」

 クレアの、声が、震えていた。

「でも、あなたは、こいつの、本当の問題を、解決してくれました」

「……」

「ありがとうございます。本当に」

 玲は、しばらく、無言だった。

 それから、ゆっくりと、口を、開いた。

「クレアさん」

「はい」

「あなたは、計算高い人です」

「……はい」

「でも、その計算は、ユート様のための、計算でした」

「……え?」

「栄養管理、家計管理、経費の計算。全て、ユート様が、勇者で、あり続けるための、計算です」

「……」

「それは、打算では、ありません。愛情です」

 クレアの、顔が、ぼっ、と、赤くなった。

「な、何を、言って……」

「事実を、申し上げただけです」

「……ぐっ」

「あなたは、立派な、聖女です」

「……白石玲さん」

「はい」

「あなた、口説くの、上手いですね」

「……は?」

「冗談です」

 クレアは、ふっ、と、笑った。

 いつもの、計算高い笑みでは、ない。

 柔らかい、笑みだった。

「でも、本当に、ありがとうございます」

「いえ」

「これからも、ポポロ村の、認可勇者として、頑張ります。私と、あの馬鹿で」

「よろしくお願いします」

「おい、馬鹿って、誰のことだ!」

「あんたよ、ユート」

「ぐっ」

 三人は、笑った。

 その光景を、玲は、温かい気持ちで、見ていた。

 仮認可勇者制度、初期の関係構築、順調。

 市役所時代、玲は、「制度に組み込まれた人間は、時間と共に、変わる」と、信じていた。

 その仮説は、今、確実に、実証されつつあった。

 ユートと、クレアが、宿屋へと、帰った後。

 玲は、一人、応接室に、残った。

 窓の外には、ほぼ満月の、月が、輝いていた。

 あと、一日。

 満月まで、あと、一日。

 その時──。

 応接室の、ドアが、すっ、と、開いた。

 キャルルだった。

 いつものように、ふんわりとした服装。

 手には、人参柄のハンカチ。

 ただ──。

 その表情は、いつもより、少し、固かった。

「玲さん」

「キャルル村長」

「ユート様の、借金、消されたんですね」

「ええ」

「素晴らしい、ご判断です」

「ありがとうございます」

 キャルルは、玲の前に、来た。

 そして、じっと、玲を、見つめた。

「玲さん」

「はい」

「一つ、お聞きしても、よろしいですか」

「何でしょう」

「あなたは、他人の、借金や、問題は、解決します」

「……はい」

「でも、あなた自身の、借金は、どうなんですか」

 玲の、動きが、止まった。

「……私自身の、借金」

「ルチアナ様への、借金が、あるんですよね」

「……はい」

「元々、いくら、だったんですか」

「……金貨百枚です」

「減らせないんですか」

「……神務費精算書で、九十万円に、減額しました」

「まだ、九十万円も、残っているんですか」

「……はい」

「なぜ、あなた自身の、借金は、ユート様のように、取り消さないんですか」

 玲は、しばらく、無言だった。

 その質問に、玲は、答えられなかった。

 いや、答えは、分かっていた。

 自分の借金は、詐欺ではない。

 ルチアナは、玲には、嘘をついて、いない。

 初期装備費として、正当に、請求した。

 だから、取り消せない。

 しかし、本当の理由は、別のところに、あった。

「……キャルル村長」

「はい」

「私は、他人のためには、書類を、書けます」

「……はい」

「でも、自分のためには──」

「自分のためには?」

「……あまり、得意では、ありません」

 玲は、ぽつりと、言った。

 その言葉に、キャルルの、うさ耳が、ぴくり、と、動いた。

 いつもの、嬉しそうな揺れ方では、ない。

 心配そうな、揺れ方だった。

「玲さん」

「はい」

「それは、市役所の時から、ですか」

 玲は、はっとした。

 キャルルが、玲の、核心を、突いていた。

 市役所時代、玲は、他人の、生活保護申請を、何百件も、処理した。

 他人の、借金を、整理した。

 他人の、問題を、解決した。

 でも、自分自身は、過労死するまで、働き続けた。

 自分のためには、何も、しなかった。

 誰も、玲を、助けてくれなかった。

 いや──。

 玲が、自分を、助けることを、しなかった。

「……そうかも、しれません」

 玲は、正直に、答えた。

 キャルルは、しばらく、無言で、玲を、見つめた。

 それから──。

 ふっ、と、微笑んだ。

 いつもの、温かい笑顔だった。

 ただ、その笑顔の奥に、何か、決意のようなものが、宿っていた。

「玲さん」

「はい」

「あなたは、他人を、助ける、優しい人です」

「……」

「でも、自分のことは、後回しに、する人です」

「……」

「だから──」

 キャルルは、玲に、一歩、近づいた。

「わたくしが、あなたを、助けます」

「……え?」

「あなたが、自分のことを、後回しに、するなら」

「……」

「わたくしが、あなたのことを、最優先に、します」

「……キャルル村長」

「だから──」

 キャルルの、瞳が、月明かりの中で、わずかに、紅く、染まり始めた。

「ずっと、わたくしの、そばに、いてくださいね♡」

「……」

「ずっと、ずっと、です♡」

 玲は、彼女の言葉に、すぐには、答えられなかった。

 市役所時代、玲は、こういう「重い好意」を、向けられたことが、なかった。

 いや、好意どころか、誰かに、心配されることすら、なかった。

 だから──。

 キャルルの言葉に、玲は、どう、反応すればいいのか、分からなかった。

 ただ──。

 胸の奥に、温かいものが、灯った。

 そして、同時に、首筋に、冷たいものも、流れた。

 温かさと、冷たさ。

 それが、キャルルの、好意の、本質だった。

「……ありがとうございます、キャルル村長」

 玲は、ようやく、口を、開いた。

「ですが、私は、ポポロ村の、事務官です」

「はい」

「村のために、働くのが、私の、仕事です」

「はい」

「自分のことより、村のことを、優先するのは──」

「それが、駄目なんです」

 キャルルが、玲の言葉を、遮った。

 その声が、わずかに、低く、なっていた。

「玲さん」

「……はい」

「あなたは、また、自分を、すり減らそうとしています」

「……」

「市役所の時と、同じように」

「……」

「わたくしは、それを、見過ごせません」

 キャルルの、目が、紅く、染まっていた。

 しかし、その目には、攻撃性は、なかった。

 ただ──。

 深い、心配が、そこに、あった。

「玲さん。約束してください」

「……何を」

「無理を、しないと」

「……」

「疲れたら、休むと」

「……」

「自分のことも、大切にすると」

 玲は、しばらく、無言だった。

 その約束を、玲は、市役所時代、誰にも、求められたことが、なかった。

 無理を、しないこと。

 疲れたら、休むこと。

 自分を、大切にすること。

 当たり前のことを、誰も、玲に、言ってくれなかった。

 でも、今──。

 目の前の、月兎族の村長が、それを、玲に、求めていた。

「……善処します」

「約束、ですよ?」

「……善処します」

「約束、です♡」

「……はい」

 キャルルは、にっこりと、笑った。

 その瞬間、瞳の、紅い色が、すっ、と、消えた。

 いつもの、ふんわりとした、温かい色に、戻っていた。

「よかった」

「……」

「では、玲さん。今夜は、もう、お休みください」

「……はい」

「明日は、満月、ですから」

「……」

「ゆっくり、休んで、くださいね」

 キャルルは、ぺこり、と、頭を下げて、応接室を、出ていった。

 その後ろ姿を、見送りながら、玲は、ぽつりと、つぶやいた。

「……明日は、満月」

 窓の外で、月が、輝いていた。

 あと、一日。

 玲は、知らなかった。

 その満月の夜に──。

 ポポロ村に、最悪の客が、訪れることを。

 そして、その夜、玲は、ようやく、知ることになる。

 「満月の日だけ、少々、激しい」、という、依頼書の、本当の意味を。

 さらに──キャルルが、玲に、「無理をするな」と、約束させた、その理由を。

、「玲を本気で心配する者」という第三のモードを足した。

「あなたは、また、自分を、すり減らそうとしています。市役所の時と、同じように」

ヤンデレの紅い目が、攻撃性ではなく心配で発動した。これは第25話「今度はわたくしが守る」への布石として完璧に機能する。ヤンデレが"守る側"に回る反転の、最初の一歩。


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