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退職届を出したら異世界の村役場に配属されました 〜書類とハンコでヤンデレ村長と勇者を雇用しています〜  作者: 月神世一


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EP 3

村長キャルル・ムーンハートと、終わらない書類の山

 ロックバイソンバスの旅は、想像よりも、地獄だった。

「うっ、ぷ……」

 隣で、リリスが、青い顔で、口を押さえている。

 車内──というよりは、巨大な魔獣の背に固定された客車の中──は、二十席ほどの広さがあり、座席は、それなりに、ふかふかしていた。窓は大きく、車窓からは、異世界の田園風景が、広がっている。

 ただ、一つ、難点があった。

 揺れが、激しい。

 ロックバイソンの一歩一歩が、ずしん、ずしん、と、客車を、揺らす。

 座っていても、五分に一度は、身体が、浮く。

 玲は、ネクタイを、軽く緩めた。

 市役所時代、出張で乗った、田舎の路線バスを思い出した。

 あれと、似ている。

 ただ、規模が、桁違いだ。

「玲さぁん……」

「リリスさん、大丈夫ですか」

「お腹の中の、みたらし団子が……」

「吐かないでください」

「ふぁああ……」

 玲は、ジャケットのポケットから、ルナキンで貰った紙ナプキンを、差し出した。

「無理せず、目を瞑っていてください」

「ありがとうございますぅ……」

 リリスは、紙ナプキンを、握りしめて、目を瞑った。

 玲は、車窓に、目を向けた。

 ルナミス首都を出てから、もう、四時間ほど経つ。

 最初は、石造りの建物が並ぶ街並みだったが、徐々に、田畑が増え、今は、見渡す限りの平原を、進んでいる。

 遠くには、巨大な山脈が、見える。

 設定上、あれが、レオンハート獣人王国との国境となる、山脈だろう。

 そして、その山脈の手前──。

「ポポロ村行き、もうすぐでーす」

 御者──運転手のような役職──の犬耳族の青年が、客車に向かって、声をかけた。

「次、ポポロ村でございまーす。お降りの方、お忘れ物のないようにお願いしまーす」

 玲は、姿勢を、正した。

 リリスを、そっと、起こす。

「リリスさん、着きますよ」

「ふぁ……着いたんですかぁ……?」

 リリスは、寝ぼけ眼で、外を見た。

 車窓の向こうには、緑豊かな田園と、その奥に佇む、小さな村が、見えた。

 白い壁の家々。

 三角屋根。

 煙突から、ほんのりと、煙が、上っている。

 村の入り口には、木製の看板が、立っていた。

『ポポロ村 ようこそ』

 その看板の下に──。

 一人の人影が、あった。

 遠目には、よく見えない。

 小柄な、誰か、ということくらいしか、分からなかった。

 玲は、立ち上がった。

「リリスさん、降りる準備を」

「は、はい」

 ロックバイソンバスは、ゆっくりと速度を落とし、村の入り口で、停車した。

 玲は、リリスの手を引いて、客車のステップを、降りた。

 地面に足を着いた瞬間──。

 ふわり、と、風が、吹いた。

 甘い、優しい香りがした。

 月見大根の花の香りだろうか。

 あるいは、ハニーかぼちゃの蜜の匂いだろうか。

 玲は、目を細めて、村の入り口に立つ人影に、視線を向けた。

 そして──。

 息を、呑んだ。

 小柄な、少女だった。

 身長は、リリスより、少し低いくらい。

 ふわふわとした、淡い色の髪。

 頭の上には──。

 白くて、長い、月兎族特有のうさ耳が、ぴょこん、と立っていた。

 服装は、動きやすそうな、現代風の、ラフな格好だった。

 生成りのシャツ。デニム生地のスカート。その上に、薄い羽織り。

 足元は──。

 明らかに、特注らしき、頑丈な作りの、安全靴。

 手には、人参柄の刺繍が、丁寧にされた、ハンカチが、握られている。

 彼女は、それで、額の汗を、ぽつぽつと、拭いていた。

 そして──。

 彼女が、玲と目を合わせた、その瞬間。

 彼女は──。

 にっこりと、笑った。

「ようこそ、ポポロ村へ!」

 明るく、優しい声、だった。

 玲は、ふと、市役所時代を、思い出した。

 窓口で、生活保護の申請に来た、認知症気味のおばあちゃんが、玲の名前を、覚えてくれた時の顔。

「あら、白石さん、おはよう」

 あの時の、笑顔と、似ていた。

 誰かを、心から、労っている──そういう、笑顔。

「白石玲さん、ですよね? 冒険者ギルドから、ご紹介いただきました、新しい事務官の方」

「はい。白石玲と申します」

 玲は、深々と、頭を下げた。

「本日付けで、こちらに着任いたしました。よろしくお願いいたします」

「ご丁寧に、ありがとうございます! わたくし、ポポロ村の村長をしております、キャルル・ムーンハートと申します」

 キャルル。

 月の、ムーンハート。

 玲は、その名前を、心の中で、繰り返した。

「お疲れさまでした、長旅でしたよね」

 キャルルは、にこやかに、続けた。

 玲は、思わず、彼女の顔を、まじまじと、見た。

 ……整っている。

 市役所時代、玲は、窓口で、毎日、たくさんの人の顔を、見てきた。

 その経験で言わせてもらえば──。

 彼女の顔立ちは、明らかに、整っている。

 ただ、それを、差し引いても──。

 彼女の表情には、不思議な、温かさがあった。

(北極星のような)

 玲は、心の中で、そう思った。

 迷っている人を、ふと、安心させる、そんな表情。

「あ、あの、玲さん……?」

 リリスが、玲の袖を、引いた。

 玲は、はっとした。

「失礼しました。リリスさん、紹介します。こちらが、ポポロ村の村長、キャルル・ムーンハート様です」

「リリスと、申しますぅ! えっと、その、見習い……女神……」

 リリスは、もごもごと、自分の身分を、口にした。

 キャルルは、目を、丸くした。

「えっ、女神様!? ほ、本物の!?」

「あっ、はいぃ、いちおう本物ですぅ……」

「ま、まあ、気にしません! 女神様も、ようこそポポロ村へ!」

 キャルルは、リリスにも、丁寧に、頭を下げた。

 その所作には、どこか、貴族のような、気品があった。

(……元・近衛騎士隊長候補、か)

 玲は、頭の中で、依頼書の情報を、確認した。

 設定上、彼女は、レオンハート獣人王国の、第三姫君兼近衛騎士隊長候補。

 その肩書きと、目の前のふんわりとした少女の姿が、玲の中で、まだ、繋がっていない。

 だが──。

 彼女が、深々と頭を下げる動作の、その背筋の伸び方。

 それは、確かに、王族の所作、だった。

「ささ、立ち話もなんですから、村役場へ参りましょう! 今夜の宿も、ご用意しておりますので!」

 キャルルは、玲とリリスを促して、歩き始めた。

 玲は、彼女の背中を追いながら、村の風景に、目を向けた。

 ポポロ村は、思っていたよりも、ずっと、整然とした村だった。

 石畳の道。

 木造の家々。

 井戸。畑。小さな広場。

 そのすべてが、丁寧に、手入れされていた。

 道行く村人たちは、玲とリリスを見ると、にこやかに、会釈を、してくれた。

「あ、村長、新しい事務官さんかい?」

「あらまあ、よろしくね」

「今度こそ、長く居てくれよ~!」

「今度こそ」、と、最後の村人が、言った。

 玲は、その言葉に、わずかに、引っかかった。

 今度こそ。

 つまり、前任たちは、村人にも、「長く居なかった」と、認識されている、ということだ。

 市役所時代の勘が、ささやく。

(この村、何かある)

「玲さん」

 歩きながら、キャルルが、振り返った。

「村の中を、ご案内しますね。あちらが、ルナキン・ポポロ支店です」

 キャルルが、指さしたのは、村の中心部にある、見慣れたファミレスチェーンの店だった。

「あちらが、タローソン・ポポロ支店。コンビニです。あちらが、タローマン。武器防具と日用品のお店です」

「……すごい充実ぶりですね」

「うふふ、ルナミス帝国の佐藤太郎様のおかげで、こんな辺境の村でも、都会と同じものが、買えるんですよ」

 キャルルは、誇らしげに、微笑んだ。

 玲は、頷いた。

 佐藤太郎、おそるべし。

 百年経っても、彼の遺産が、地方の村まで、行き渡っている。

「あちらが──」

 キャルルの足が、ぴたり、と、止まった。

「村役場、です」

 玲は、彼女が指さした先に、視線を、向けた。

 木造二階建ての、建物があった。

 他の村人の家よりは、少しだけ、大きい。

「村役場」、と、書かれた、木の看板が、入り口に、掛かっている。

 建物自体は、よく、手入れされていた。

 窓も、綺麗に、磨かれている。

 ただ──。

 玲は、村役場の窓に、目を向けた瞬間、嫌な、予感がした。

 窓越しに、室内が、見える。

 その室内に──。

 何かが、山積みになっていた。

「……あの、キャルル村長」

「はい?」

「あの、窓越しに見える、山のようなものは……」

「あ、はい!」

 キャルルは、にっこりと、答えた。

「書類です!」

「……」

「ちょっと、たまっちゃって」

「ちょっと、ですか」

「ちょっと、です」

 キャルルの、笑顔は、変わらなかった。

 ただ──。

 目の奥が、笑っていなかった。

 玲は、市役所時代に、何度も、見た。

 その表情を、知っている。

 窓口で、何ヶ月も、問題を抱え込んで、限界まで、追い込まれた職員が、最後に、浮かべる──。

 「これ以上、どうすればいいの」、という、絶望の、笑顔。

「とりあえず、中へ」

 キャルルは、ドアを、開けた。

 玲と、リリスが、後に、続く。

 そして──。

 玲は、立ち尽くした。

 村役場の事務室は、戦場だった。

 いや、玲は、そう表現するのが、正しいかどうか、しばらく、考えた。

 戦場、というのは、もう少し、活気がある気が、する。

 ここは──。

 廃墟だ。

 書類が、山積み、だった。

 机の上に。

 椅子の上に。

 床の上に。

 棚の上に。

 本棚の上に──。

 ありとあらゆる場所に、書類の山が、塔のように、丘のように、地層のように、積み上がっていた。

 その量、目算で──。

 数千枚。

 いや、もしかしたら、数万枚。

 書類だけでは、なかった。

 書きかけのまま放置された、インク壺。

 乾ききった、羽ペン。

 床に落ちて、踏みつけられた、書類。

 誰かが食べたまま忘れた、カビの生えた、肉椎茸のサンドイッチ。

 空気が、埃と、紙と、インクと、わずかな、カビの匂いで、満ちていた。

「あ、ちょっと、散らかってますけど!」

 キャルルが、慌てて、取り繕った。

「あの、その、前任の方々が、その、整理されないままで……」

「……前任の方々」

「は、はい」

「三人、いらしたんですよね」

「は、はい……一人目は、二日で、二人目は、三日で、三人目は、一週間で……」

 キャルルの声が、徐々に、小さくなっていった。

 玲は、無言で、室内を、見渡した。

 【行政】スキルが、自動的に、起動する。

 頭の中に、申請書のフォーマットで、状況が、流れ込んでくる。

『未処理書類:合計三千二百四十一件

 ・住民台帳更新:四百五十二件(過去三年分)

 ・税務関係:八百九十一件(うち、計算誤り三百四件)

 ・農産物出荷記録:六百八件(記入漏れ多数)

 ・冒険者ギルド連絡書:四百二十二件

 ・三国緩衝地帯協定関連:百二十八件(うち、期限切れ八十四件)

 ・その他:七百四十件

 未払い報酬:合計金貨二百三十枚(村人への支払い遅延)

 紛失書類:戸籍十二名分、土地権利書八件』

 玲は、息を、吐いた。

 長く、深く。

 市役所時代、玲は、何度か、こういう「前任が放置した、地獄の引き継ぎ」を、経験したことが、ある。

 だが、その時でさえ、未処理書類は、せいぜい、数百件だった。

 ここは──。

 その、十倍以上だ。

「玲さぁん……」

 リリスが、震える声で、言った。

「これ、私たち、どうすればいいんですかぁ……」

「……」

 玲は、答えなかった。

 キャルルが、隣で、しゅんと、俯いていた。

「あの、玲さん。本当に、申し訳ありません」

「……」

「前任の方々が、皆様、逃げ出されてしまって、それから、その、わたくし一人では、どうしても、手が回らなくて」

 キャルルの声が、震えていた。

「村長として、本当に、不甲斐ないと、思っています。村人の皆様にも、ご迷惑を、おかけしていて。報酬の支払いも、遅れていて。本当に、本当に、申し訳なくて……」

 彼女の頭の上の、うさ耳が、ぺたん、と、下を向いた。

 玲は、彼女の顔を、見た。

 目に、涙が、浮かんでいた。

 それでも、彼女は、にっこりと、笑顔を、作ろうとしていた。

「で、でも、玲さんが、来てくださって、本当に、嬉しいです。きっと、何とか、なりますよね。少しずつ、片付けていけば、いつかは──」

 その時、玲の頭の中で──。

 何かが、切れた。

 いや。

 何かに、火が、ついた。

 市役所時代、玲は、こういう人を、何百人も、見てきた。

 限界まで、追い詰められて、それでも、誰にも頼れず、一人で、抱え込んで、最後には、笑顔で、「大丈夫です」と、言う人。

 その人たちの、ほとんどが──。

 その数ヶ月後、自殺、あるいは、行方不明、になった。

 窓口の隣の席で、玲は、何度も、その報告書を、書いた。

 行政の対応が、間に合わなかったケースを。

 玲は、その度に、思っていた。

(俺が、もっと、書類を早く処理できれば)

(もっと、早く、対応できれば)

(この人は、死ななかったんじゃないか)

 でも、書類処理の早さに、限界が、あった。

 市役所の、システムが、追いついていなかった。

 玲一人の、力では、世界は、変えられなかった。

 だが──。

 ここでは、違う。

「キャルル村長」

 玲は、ジャケットを、脱いだ。

 無言で、椅子の背に、掛ける。

 ネクタイを、少し、緩めた。

 ワイシャツの袖を、肘までまくり上げる。

 その動作を、キャルルは、ぽかんと、見ていた。

「あ、あの、玲さん?」

 玲は、彼女の方を、向いた。

 そして、深々と、頭を下げた。

「今夜は、徹夜になります」

「……えっ?」

「明日の朝までに、概ね、処理します」

 キャルルは、口を、ぽかんと、開けた。

「ちょ、ちょっとお待ちください! これ、概ね、って、その、三千枚以上ありますよ!?」

「はい」

「一晩で、ですか!?」

「はい」

「無理ですぅ……」

 リリスが、横で、青ざめていた。

 玲は、構わず、机の前に、座った。

 書類の山を、ざっと、見渡す。

 頭の中で、優先順位が、組み上がっていく。

(第一段階:村人への未払い報酬→緊急度A。先に処理する)

(第二段階:戸籍紛失→緊急度A。再発行手続きを並行)

(第三段階:緩衝地帯協定の期限切れ→緊急度A。外交問題に発展する)

(第四段階:その他、税務、農産物、冒険者ギルド連絡書)

 玲は、すっと、目を、閉じた。

 深く、息を、吸う。

 そして──。

 【行政】スキルを、全開で、起動した。

「【行政】、解放」

 その瞬間。

 玲の周囲の、空気が、ぴり、と、変わった。

 彼の視界が、青白く、染まる。

 三千二百四十一件の、書類が、一斉に、玲の前に、浮かび上がった。

 いや、物理的には、浮かんでいない。

 ただ、玲の、視界の中だけで、書類の山が、宙に、舞い上がる。

 一枚、一枚に、見えないインデックスが、付き、優先順位ごとに、色分けされていく。

 緊急度A:赤。

 緊急度B:黄。

 緊急度C:青。

 玲の指が、宙を、撫でるだけで、書類が、自動的に、分類されていく。

 ──これが。

 市役所、勤続二年六ヶ月。

 繁忙期の徹夜、十七回。

 灰皿、七回、回避。

 胸ぐら、二十三回、解除。

 そして、それでも、書類だけは、絶対に、間違えなかった、白石玲の、真の戦闘形態だった。

「リリスさん」

「は、はい!」

「エンジェルすまーとふぉんで、メモを取ってください。私が、口頭で、指示を出すので、書類のジャンルごとに、分類してもらえますか」

「は、はい! 頑張りますぅ!」

「キャルル村長」

「は、はい」

「お茶を、いただけますか」

「あ、はい! すぐに!」

「あと、住民台帳の原本と、過去の納税記録の控えがあれば、お持ちください」

「は、はい! 持ってきます!」

 キャルルは、慌てて、部屋を、飛び出していった。

 玲は、深く、息を、吸った。

 羽ペンを、取った。

 書類の山から、最も上にある、一枚を、すっと、引き抜く。

 それは、村人への、報酬支払い遅延に関する、書類だった。

 羽ペンが、紙の上を、走り出した。

 迷いが、ない。

 市役所時代、書類を書く速度だけは、誰にも、負けなかった。

 窓口の、隣の席の先輩が、よく、言っていた。

「白石、お前、書類を書くのが、速すぎる。もうちょっと、丁寧にやれ」

 その「速さ」を、玲は、初めて、誇らしく、感じていた。

 ここでは──。

 その速さが、誰かを、救う。

 ここでは──。

 俺が、システムだ。

 夜が、更けていった。

 ポポロ村の夜は、静かだった。

 窓の外では、フクロウのような鳴き声が、時折、響いていた。

 月は、まだ、半月。

 満月までは、もう少し、時間がある。

 村役場の事務室では、玲が、机に向かって、ひたすら、書類を処理していた。

 羽ペンが、紙の上を、走り続けている。

 書類の山が、少しずつ、確実に、低くなっていく。

 処理済みの書類は、リリスが、ジャンルごとに、分類して、別の机に、積み上げている。

 キャルルは、何度か、お茶を、運んでくれた。

 最初は、緊張した面持ちで、玲の背後で、見守っていた。

 だが、玲があまりにも、淡々と、作業を続けるので、徐々に、心配そうな顔に、変わっていった。

「玲さん」

「はい」

「あの、休憩されないんですか」

「もう少しで、第一段階が、終わります。終わったら、休みます」

「で、でも、もう、何時間も……」

「市役所時代、繁忙期は、三日連続で徹夜したことがあります」

「……」

 キャルルは、絶句した。

 玲は、構わず、書類を、処理し続けた。

 午前零時を過ぎる頃には、第一段階──村人への、未払い報酬支払い処理──が、完了した。

 玲は、机に積み上がった、五十二枚の支払い指示書を、ぽん、と、叩いた。

「キャルル村長」

「は、はい」

「これ、明日の朝、村人の方々に、支払いしてください。商業ギルドへの送金指示書も、一緒に、添えています」

「金貨二百三十枚分、ですよね?」

「はい。村の金庫から、支出してください」

「あの、玲さん」

 キャルルは、声を、震わせた。

「これ……今夜中に、できるんですか」

「もう、できました」

「あ、いえ、できた、ということは、知っています。そうではなくて」

 キャルルは、両手で、口を、覆った。

「すごい、と、思って」

「いえ」

「玲さんが、来てくださって、村の皆様への、支払いが、たった、一晩で……」

 彼女の目から、涙が、ぽろり、と、零れた。

「ずっと、ずっと、村の皆様に、申し訳なくて。報酬の遅延について、お詫びに行くたびに、皆様は『大丈夫だよ、村長』って、言ってくださって。でも、本当は、皆様も、生活があって、お金が、必要で。なのに、わたくしには、それを処理する力が、なくて」

「キャルル村長」

「は、はい」

「それは、あなたの、責任ではありません」

「で、でも」

「責任は、書類の処理ができる人間を、適切に、配置しなかった、上の者たちの、責任です」

 玲は、淡々と、言った。

「あなたは、村長として、村人を、守ろうとした。その姿勢は、正しい。書類の処理が、遅れたのは、専門職員の、不在が、原因です。あなたが、自分を、責める、必要はありません」

「玲さん……」

「私は、書類の処理を、専門にしてきた、人間です。これは、私の、仕事です。あなたは、あなたの、仕事をしてください」

「わたくしの、仕事」

「村人を、守ることです」

 キャルルは、ぽかんと、玲を、見つめた。

 それから──。

 彼女は、泣いた。

 声を上げずに、ただ、ぽろぽろと、涙を、流して。

 玲は、何も、言わなかった。

 市役所時代、玲は、こういう場面に、何度も、遭遇した。

 窓口で、追い詰められた人が、ようやく、誰かに、「あなたは、悪くない」と、言われた時──。

 堪えていたものが、堰を切ったように、溢れ出す瞬間。

 そういう時、何を言っても、無意味なのだ。

 ただ、黙って、隣に、いる。

 それが、玲なりの、最善の対応、だった。

「ふふ、ごめんなさい」

 しばらくして、キャルルは、ハンカチで、涙を、拭いた。

 人参柄の、刺繍された、ハンカチだった。

「みっともない、ところを、お見せして」

「いえ」

「玲さん、ありがとうございます」

 キャルルは、にっこりと、笑った。

 その笑顔は、最初に、村の入り口で会った時と、同じ、ものだった。

 ただ──。

 玲には、その笑顔の奥に、わずかな、何か別のものが、見えた気が、した。

 それが、何なのか、玲は、まだ、言語化、できなかった。

「あ、あの、玲さん。お茶、もう一杯、淹れますね」

「ありがとうございます」

 キャルルは、ぱたぱたと、給湯室へと、向かった。

 その後ろ姿を、見送りながら、玲は、ふと、隣を、見た。

 リリスが、机に、突っ伏して、寝ていた。

 寝息が、規則正しい。

(可愛い)

 玲は、思った。

 市役所時代、玲は、こういう光景を、見たことが、なかった。

 隣の席の同僚は、いつも、疲れた顔を、していて、誰かが眠るときは、決まって、「もう、限界だ」、という顔を、していた。

 リリスのように、安心しきって、眠る顔を、玲は、見たことが、なかった。

「リリスさん」

 玲は、自分のジャケットを、リリスの肩に、そっと、かけた。

 リリスは、もぞもぞと、身動きしたが、起きなかった。

 玲は、再び、書類に、向き直った。

 第二段階、戸籍紛失者の、再発行手続き。

 残り、約二千八百枚。

 夜は、まだ、長い。

 午前二時。

 玲は、第二段階を、終えた。

 午前四時。

 玲は、第三段階を、終えた。

 午前六時。

 窓の外が、白み始めた頃──。

 玲は、最後の一枚の書類を、処理し終えた。

 羽ペンを、ペン立てに、戻す。

 深く、息を、吐く。

 目の前に──。

 整然と分類された、書類の山が、机の上に、積み上がっていた。

 処理前:三千二百四十一件。

 処理後:三千二百四十一件、すべて。

 誤差:ゼロ。

「……終わった」

 玲は、ぽつりと、呟いた。

 その時──。

 ドアが、ゆっくりと、開いた。

 キャルルが、お盆を持って、入ってきた。

 お盆の上には、朝食が、乗っていた。

 パン。

 目玉焼き。

 ハニーかぼちゃのスープ。

 人参サラダ。

 そして、ポポロ・コーヒー。

「玲さん、朝ご飯を──」

 キャルルは、お盆を持ったまま、固まった。

 彼女の視線が、机の上に、向けられている。

 処理済みの、整然とした、書類の山。

 昨日まで、この部屋を埋め尽くしていた、混沌の塔。

 それが──。

 すべて、整理されていた。

 ジャンルごとに。

 優先順位ごとに。

 処理日付ごとに。

 美しく、きちんと、積み上げられて。

「……えっ」

 キャルルが、お盆を、机に、置いた。

 彼女は、ふらり、と、書類の山に、近づいた。

 一番上の書類を、手に、取る。

 目を、走らせる。

 完璧な、書式。

 完璧な、計算。

 完璧な、分類。

 彼女は、別の書類を、手に取った。

 また、別の書類を、手に取った。

 すべて、完璧、だった。

「これ……全部、玲さんが……」

「はい」

「一晩で、ですか」

「はい」

「……」

 キャルルは、しばらく、無言だった。

 彼女の頭の上の、うさ耳が──。

 ぴくり、と、動いた。

 ぴく、ぴく、と、もう一度、動いた。

 まるで、何か、激しい感情を、堪えるように。

 彼女は、ゆっくりと、振り向いた。

 玲と、目が、合った。

 その瞬間──。

 キャルルの瞳が、わずかに、紅く、色付いた。

 ほんの少しだけ。

 月が、まだ、満ちていない、その月夜の薄明かりの中で、彼女の瞳孔が──。

 ほんの少し、開いた。

 彼女は、書類の山に、向き直り、両手で、そっと、一枚を、撫でた。

 愛おしそうに。

 頬に、その書類を、すり寄せた。

 そして──。

 ぽつりと、呟いた。

「あなたの、書類……」

「……」

「キレイ……♡」

 その声には、明らかに、いつもとは、違う何かが、混じっていた。

 低くて、甘くて、湿っている。

 玲は、その声を、聞いた瞬間──。

 なぜか、市役所時代の、灰皿の話を、思い出した。

 窓口で、灰皿を、投げつけられた時──。

 あの時の方が、安全だった気がする、と。

 なぜ、そう思ったのか、自分でも、分からなかった。

 ただ、本能が、警鐘を、鳴らしていた。

 頭の上の、うさ耳が、嬉しそうに、ぴょこぴょこ、揺れている。

 キャルルは、書類の束を、抱きしめた。

 自分の、胸に。

 ぎゅっと。

 頬を、すり寄せながら。

「これ……全部、玲さんの、字、なんですよね?」

「……あ、はい」

「全部、玲さんが、書いた、書類、なんですよね?」

「……はい」

「ふふっ……ふふふっ……♡」

 キャルルは、書類の束を、抱きしめたまま、にっこりと、笑った。

 その目の、紅い色は──。

 確実に、深まっていた。

「玲さん」

「は、はい」

「これ、わたくしの、宝物に、しますね?」

「……いえ、業務書類なので、保管庫に──」

「わたくしの、宝物に、しますね♡」

「……」

 玲の、背筋に、冷たいものが、走った。

 市役所時代、灰皿を投げてきた中年男よりも、胸ぐらを掴んできた老人よりも──。

 今、目の前の、ふんわりとした、月兎族の少女の方が、ヤバい。

 なぜかは、分からない。

 だが、本能が、告げていた。

「あ、あ、あ、あの、キャルル村長」

「あ、はい!」

 キャルルは、はっとした顔で、振り向いた。

 その瞬間、瞳の色が、元の、ふんわりとした色に、戻っていた。

 うさ耳も、いつもの、ぴょこんと立った、状態に、戻っていた。

「ご、ごめんなさい。あまりに、その、書類が、綺麗で。ついつい、見惚れて、しまって」

「い、いえ」

「あ、朝ご飯、どうぞ! お疲れさまでした!」

 キャルルは、慌てて、お盆を、玲の方に、押し出した。

 ただ──。

 彼女の腕に、書類の束は、しっかりと、抱きしめられたままだった。

「……あの、その書類」

「わたくしの、宝物ですよ♡」

「……」

 玲は、何も、言わなかった。

 いや、言えなかった。

 公務員スマイルを、口元に、浮かべた。

 市役所時代、玲は、灰皿を投げられても、胸ぐらを掴まれても、この笑顔だけは、絶対に、崩さなかった。

 今、その笑顔の、真の用途を、玲は、悟った。

 これは、職員を、守るための、防衛装備だ。

「い、いただきます」

「はい! 召し上がれ!」

 玲は、パンを、ひと口、齧った。

 キャルルが、隣で、にこにこと、玲の食事を、見守っている。

 その視線が、わずかに、玲の指の動きを、追っている。

 パンを口に運ぶ、動作。

 咀嚼する、動作。

 飲み込む、動作。

 すべてを。

 優しい瞳が、見守っている。

 ただし、その腕には、しっかりと、書類の束が、抱きしめられたまま。

 玲は、その視線の意味を、まだ、はっきりとは、理解していなかった。

 ただ、一つだけ、確信していた。

 「市役所のクレーマーよりマシ」、というのは──。

 もしかしたら、訂正が、必要かもしれない、と。

 朝食を食べ終えた後、玲は、リリスを、起こした。

「リリスさん、朝ですよ」

「ふぁい……ふぁ、朝ぁ……?」

 リリスは、寝ぼけ眼で、ジャケットを羽織ったまま、もぞもぞと、身を起こした。

 肩から、ジャケットを、外しながら、目を、擦って、辺りを、見渡す。

 そして、机の上の、整然とした、書類の山に、気付いた。

「えっ……あれ……? 書類、ぜんぶ……?」

「処理しました」

「ええっ!? わ、私、寝ちゃってましたぁ……すみませんですぅ!」

「いえ、お疲れでしたから」

「玲さんは、徹夜だったんですよね……? 大丈夫ですか?」

「大丈夫です。それより──」

 玲は、キャルルの方を、向いた。

 キャルルは、書類の束を、しっかりと、胸に、抱きしめたまま、にこにこ、と、玲を、見つめていた。

「キャルル村長」

「は、はい!」

「これからのことを、ご相談したいのですが」

「は、はい! なんでしょう!」

「まず、その、抱きしめている書類ですが」

「宝物ですよ♡」

「……保管庫に──」

「宝物です♡」

「……」

 玲は、諦めた。

 市役所時代、諦めることも、覚えていた。

 戦うべき相手と、戦わないべき相手を、見極めるのも、公務員の、技術だ。

「……分かりました。それは、村長の、私的なご判断に、お任せします」

「はい♡」

「次に、村役場の事務処理ですが、これからは、私が、継続的に、担当します」

「は、はい! よろしくお願いします!」

「ただし、いくつか、改善案があります」

「改善案、ですか」

「はい」

 玲は、ジャケットの内ポケットから、メモを取り出した。

 徹夜中に、頭の中で、考えていた、ポポロ村の業務改善案、だった。

「まず、村の収入源について。月見大根の出荷記録を、見ましたが、買い取り価格が、明らかに、不当に、安いです」

「えっ」

「次に、人材ギルドへの依頼方法。事務官募集の書き方が、応募者を、遠ざける書き方に、なっています。書式を、改めます」

「あ、あの……」

「最後に、住民台帳。これは、過去三年分が、手付かずでしたので、簡略化した管理方法を、導入します」

 キャルルは、玲の話を、目を丸くして、聞いていた。

 彼女の口が、ゆっくりと、開いていった。

「玲、さん」

「はい」

「もしかして、わたくしの村を、本気で、変えてくださる、気ですか」

「業務上の必要な範囲で、ですが」

「……」

 キャルルは、しばらく、無言で、玲を、見つめた。

 書類の束を、しっかりと、胸に、抱きしめたまま。

 そして、深々と、頭を下げた。

「ありがとうございます」

「いえ、仕事ですから」

「いいえ」

 キャルルは、頭を上げて、玲を、まっすぐに、見た。

 彼女の瞳には、もう、紅い色は、混じっていなかった。

 純粋な、感謝の色だけが、そこに、あった。

「玲さん、本当に、ありがとうございます。あなたが、来てくださって、本当に、本当に、よかった」

 その声は、心の底からの、ものだった。

 玲は、思わず、目を、そらした。

 市役所時代、玲は、誰かに、「ありがとう」と、言われたことが、ほとんど、なかった。

 その理由が、今、分かった気がした。

 市役所では、誰も、玲の仕事を、見ていなかった。

 いや、見えていなかった、というのが、正確かもしれない。

 書類が、いくら綺麗に、整理されていても、いくら正確に、処理されていても、それは、当たり前のことだった。

 だから、誰も、感謝しなかった。

 でも──。

 ここでは、違うらしい。

「いえ」

 玲は、ようやく、口を、開いた。

「お役に立てて、よかったです」

 その言葉は、彼自身、市役所時代に、一度も、使ったことのない、言葉だった。

 キャルルは、にっこりと、笑った。

 頭の上の、うさ耳が、嬉しそうに、ぴょこぴょこ、揺れていた。

 書類の束を、抱きしめながら。

 玲は、その光景を、見ながら、ふと、思った。

(俺は、ここで、何かを、始めたんだろうか)

 まだ、分からなかった。

 だが──。

 市役所時代には、絶対に、感じたことのなかった、何か。

 胸の奥に、温かいものが、ゆっくりと、灯っていく感覚があった。

 そして、同時に、首筋に、冷たいものも、流れていた。

 温かさと、冷たさ。

 それが、ポポロ村での、生活の、本質、だった。

「玲さぁん」

 リリスが、玲の袖を、引いた。

「私、お腹、空きましたぁ」

「……朝食、もう、食べましたよ」

「もう一回、食べたいですぅ」

「リリスさん、家計改善指導計画書、忘れましたか」

「えへへぇ、忘れましたぁ……」

「忘れないでください」

「だってぇ、玲さんが、徹夜で頑張ってる横で、私、寝ちゃってて、申し訳なくて、お腹に、罪悪感が……」

「それは、罪悪感の場所が、違います」

「でも、お腹空いてますぅ……」

 キャルルが、ふふっ、と、笑った。

「リリス様、いっぱい、召し上がってくださいね! 今日は、特別ですから!」

「えへへぇ、村長さん、優しいですぅ!」

 その光景を、見ながら、玲は、もう一杯、ポポロ・コーヒーを、ゆっくりと、飲んだ。

 窓の外では、朝日が、ポポロ村の田園を、優しく、照らし始めていた。

 異世界生活、二日目。

 玲は、ようやく、自分の居場所を、見つけ始めていた。

 ただ、まだ、彼は、知らなかった。

 この村長が──。

 満月の夜に、どれほど「激しい」のかを。

 そして──。

 彼女の腕に、抱きしめられた、書類の束が、その夜、どこに、しまわれることになるのかを。

 その全ては、後の話──。

 今は、ただ、一杯のコーヒーが、温かかった。


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