EP 10
満月前夜と、月兎族の願い
翌日の、夕暮れ。
玲は、村役場で、その日の、最後の書類に、判子を、押していた。
窓の外では、空が、茜色から、藍色へと、移り変わっていた。
そして、東の空には──。
ほぼ満月の、月が、昇り始めていた。
明日の夜が、満月。
月兎族の、本能が、最大化される、夜。
「玲さん」
ドアが、すっ、と、開いた。
キャルルだった。
いつものように、ふんわりとした服装。
手には、人参柄のハンカチ。
ただ──。
その表情は、いつもより、少し、固かった。
頭の上の、うさ耳が、落ち着かなげに、ぴくり、ぴくり、と、動いていた。
「キャルル村長」
「あの……玲さん」
「はい」
「今夜、少し、お時間、いただけますか」
「……?」
「お話が、あるんです」
玲は、書類を、置いた。
「もちろんです」
「ありがとうございます」
キャルルは、ほっ、と、息を、吐いた。
「あの、村役場では、なくて……」
「はい」
「月見大根の、畑で、お話しできますか」
「……月見大根の畑、ですか」
「はい」
「分かりました」
玲は、ジャケットを、羽織った。
キャルルは、こくり、と、頷いた。
その様子が、いつもの、彼女と、違っていた。
いつもの、ふんわりとした、明るさが、なかった。
何か、思い詰めているような、表情だった。
玲は、市役所時代の勘で、それを、察した。
今夜、何か、大事な話が、ある。
月見大根の畑は、村のはずれに、あった。
まんまるとした、月見大根が、葉を、広げて、並んでいる。
その上に──。
ほぼ満月の、月が、優しく、光を、注いでいた。
月の光を、浴びて、月見大根の葉が、銀色に、輝いていた。
幻想的な、光景だった。
玲と、キャルルは、畑の、あぜ道を、並んで、歩いた。
しばらく、二人とも、無言だった。
やがて──。
キャルルが、ぽつりと、口を、開いた。
「玲さん」
「はい」
「わたくしの、過去の話を、聞いて、いただけますか」
「もちろんです」
キャルルは、月を、見上げた。
「わたくし、元々、レオンハート獣人王国の、第三姫君、でした」
「……はい」
「父は、獣王アーサー。月兎族の母と、獅子耳族の父の、間に、生まれました」
「……」
「月兎族は、その特性上、王族に、重宝されるんです」
「特性、ですか」
「ええ」
キャルルは、自分の、頭の上の、うさ耳に、触れた。
「月の、満ち欠けで、力が、変わる。満月には、完全回復も、できる。だから、王族は、月兎族を、近衛騎士や、妾として、手元に、置きたがるんです」
「……」
「わたくしは、近衛騎士隊長候補、として、育てられました」
「……」
「籠の、鳥でした」
キャルルの声が、わずかに、寂しげだった。
「毎日、戦闘訓練。毎日、王族としての、振る舞いの、教育。自由は、ありませんでした」
「……」
「でも、それ以上に──」
キャルルは、月を、見上げたまま、続けた。
「誰も、わたくし自身を、見てくれませんでした」
「……」
「月兎族の、特性。近衛騎士隊長候補としての、能力。完全回復の、力。みんな、わたくしの、『役割』を、見ていました」
「……」
「わたくし自身を、見てくれる人は、いませんでした」
玲は、無言で、キャルルを、見た。
その言葉が──。
玲の、胸に、深く、刺さった。
「だから、わたくし、亡命したんです」
キャルルは、続けた。
「自由を、求めて。籠の、鳥で、いることが、嫌で。ルナミス帝国に、逃げました」
「……」
「冒険者として、日銭を、稼いで。シェアハウスに、住んで。ルナキンで、朝定食を、食べて」
「……」
「自由を、手に、入れました」
キャルルは、ふっ、と、笑った。
「でも──」
「でも?」
「自由には、なれたけれど」
キャルルの声が、震えた。
「やっぱり、誰も、わたくし自身を、見てくれませんでした」
「……」
「冒険者仲間は、わたくしの、戦闘力を、見ていました。月兎族の、足の速さを、回復の力を」
「……」
「村長に、なっても、同じでした。村人は、わたくしの、回復の力を、頼りにしていました」
「……」
「みんな、わたくしの、『力』を、見ていた」
「……」
「わたくし自身を、見てくれる人は、どこにも、いませんでした」
キャルルは、玲の方を、向いた。
月明かりの中で、彼女の瞳が、わずかに、潤んでいた。
「でも──」
「でも?」
「玲さんは」
「……」
「玲さんは、わたくしの、書類を、見てくれました」
玲は、はっとした。
「あの時。玲さんが、一晩で、三千枚の、書類を、片付けてくれた、あの時」
「……」
「わたくし、嬉しかったんです」
「……」
「『あなたの書類、キレイ』って、言ったの、覚えていますか」
「……はい」
「あれは──」
キャルルの声が、震えた。
「わたくしが、玲さんの、仕事を、見ているという、意味でした」
「……」
「玲さんが、誰にも、見られずに、一晩中、頑張ったことを、わたくしは、見ていました」
「……」
「玲さんの、努力を、玲さん自身を、わたくしは、見ていました」
玲は、長い間、無言だった。
胸の奥が、熱くなっていた。
市役所時代、玲は、誰にも、見られなかった。
書類を、何枚処理しても。
徹夜で、案件を、片付けても。
誰も、玲を、見ていなかった。
いや──。
見えていなかった。
書類が、綺麗に、整理されていることは、当たり前だった。
だから、誰も、気付かなかった。
でも、キャルルは──。
玲を、見ていた。
「キャルル村長」
「はい」
「実は」
「はい」
「私も──」
玲は、ゆっくりと、口を、開いた。
市役所時代の、ことを、玲は、ほとんど、誰にも、話したことが、なかった。
でも、今──。
話そう、と、思った。
「私も、誰にも、見られませんでした」
キャルルの、うさ耳が、ぴくり、と、動いた。
「市役所で、福祉課、という、部署に、いました」
「……」
「生活保護の、申請対応。借金の、整理。困っている人の、手続き」
「……」
「毎日、たくさんの、人を、助けました」
「……」
「でも──」
玲は、月を、見上げた。
「誰も、私を、見てくれませんでした」
「……」
「窓口で、灰皿を、投げられても。胸ぐらを、掴まれても」
「……」
「私が、必死に、書類を、処理しても」
「……」
「誰も、私の仕事を、見ていませんでした」
「……」
「上司は、こう、言いました。『君が、我慢すれば、収まる話だっただろう』、と」
キャルルの、表情が、こわばった。
「私は──」
玲は、続けた。
「私は、過労死、するまで、働きました」
「……」
「退職届を、出した、三時間後に」
「……」
「誰も、私を、見ていない場所で、一人で、倒れて、死にました」
キャルルは、両手で、口を、覆った。
「玲さん……」
「だから──」
玲は、キャルルの方を、向いた。
「キャルル村長が、私の、書類を、見てくれた時」
「……」
「私も、嬉しかったんです」
「……」
「初めて、誰かに、見られた気が、しました」
玲と、キャルルは、見つめ合った。
月明かりの中で。
月見大根の、銀色の畑の、真ん中で。
見られなかった者、同士が、お互いを、見ていた。
二人の間に、初めて──。
対等な、静けさが、流れた。
ヤンデレでも、所有欲でも、ない。
ただ、二人の、孤独が、重なり合った、静けさ。
「……玲さん」
「はい」
「わたくしたち」
「はい」
「似た者、同士、なんですね」
「……そうですね」
「誰にも、見られなかった、者同士」
「……はい」
キャルルは、ふっ、と、微笑んだ。
いつもの、ふんわりとした笑顔。
しかし、その笑顔には、もう、寂しさは、なかった。
温かい、笑顔だった。
しばらく、二人は、月を、見上げていた。
やがて──。
キャルルが、ぽつりと、言った。
「玲さん」
「はい」
「実は、もう一つ、お話が、あるんです」
「はい」
「昨日、わたくし──」
キャルルは、ためらいがちに、続けた。
「メロロン畑で、玲さんを、見ていました」
玲の、動きが、止まった。
「玲さんが、メロロン依存の、農夫さんを、助けるのを、見ていました」
「……」
「メロロンの、『奪う愛』から、人を、解放するのを、見ていました」
「……」
「そして──」
キャルルの声が、震えた。
「わたくし、気付いたんです」
「何を、ですか」
「わたくしも、玲さんを、奪おうと、していた」
「……」
「『わたくしの、玲さん』『どこにも、行かせない』」
「……」
「それは、あのメロンと、同じ、でした」
玲は、無言で、キャルルを、見た。
「わたくし、玲さんを、独占しようと、していました」
「……」
「玲さんの、自由を、奪おうと、していました」
「……」
「あのメロンと、同じように」
キャルルの瞳が、わずかに、潤んでいた。
「でも、玲さんは、メロロンに、こう、言いましたよね」
「……」
「『奪わなくても、人は、誰かと、一緒に、いられる』、って」
「……」
「『ただ、隣に、いることが、愛』、って」
「……はい」
「わたくし──」
キャルルは、ぎゅっと、人参柄のハンカチを、握りしめた。
「わたくし、それを、聞いて、考えました」
「……」
「わたくしの、愛は、玲さんを、苦しめているのでは、ないか、って」
「……」
「玲さんを、独占しようとする、わたくしの、気持ちは」
「……」
「ただの、エゴ、なのでは、ないか、って」
玲は、長い間、無言だった。
市役所時代の勘が、ささやいていた。
この瞬間、何を、言うかが、大事だ。
キャルルは、今、自分の、心と、向き合っている。
自分の、ヤンデレと。
自分の、独占欲と。
それは、簡単なことでは、ない。
誰かを、好きになって。
その人を、独占したくて。
でも、それが、相手を、苦しめているのでは、ないか、と。
自分の愛を、疑うことは、勇気のいることだ。
「キャルル村長」
「はい」
「あなたの、気持ちは」
「……」
「エゴでは、ありません」
キャルルの、うさ耳が、ぴくり、と、動いた。
「……え?」
「人を、好きになって。その人を、独占したい、と、思うのは」
「……」
「自然な、感情です」
「……でも」
「ただ──」
玲は、続けた。
「その感情を、どう、表現するか。それが、大事です」
「……」
「相手を、堕として、全てを、奪うことで、独占するのか」
「……」
「それとも──」
玲は、月を、見上げた。
「相手の、自由を、尊重しながら、隣に、いることを、選ぶのか」
「……」
「それは、あなたが、選べることです」
キャルルは、しばらく、無言だった。
月明かりが、彼女の、頬を、照らしていた。
「玲さん」
「はい」
「わたくし──」
キャルルの声が、震えた。
「わたくし、選びたいです」
「何を、ですか」
「奪わない、愛を」
「……」
「玲さんの、自由を、尊重して。隣に、いる、愛を」
「……」
「でも──」
キャルルは、玲の方を、向いた。
その瞳に、わずかに、紅い色が、混じり始めた。
「でも、わたくし、月兎族なんです」
「……」
「満月になると、本能が、抑えられなくなるんです」
「……」
「自分でも、自分が、コントロールできなくなるんです」
キャルルの瞳が、徐々に、紅く、染まっていった。
「だから──」
「だから?」
「明日の、満月の夜」
「……」
「わたくしが、何を、するか、分かりません」
「……」
「玲さんを、奪おうと、するかも、しれません」
「……」
「だから──」
キャルルは、玲に、頭を、下げた。
「玲さん。明日の夜は」
「……」
「わたくしから、離れていて、ください」
「キャルル村長」
「お願いします」
「……」
「わたくし、玲さんを、傷つけたく、ないんです」
「……」
「だから──」
「キャルル村長」
玲は、静かに、彼女の言葉を、遮った。
「はい」
「一つ、お聞きします」
「……はい」
「満月の夜、あなたは、村を、守りますか」
「……え?」
「月兎族の、力で。満月の、力で。村を、守りますか」
「……それは」
キャルルは、しばらく、考えた。
「……はい。守ります」
「……」
「満月の、わたくしは、村に、敵が、来れば、戦います」
「……」
「自分でも、コントロールできないけれど」
「……」
「村を、守ることだけは、本能で、やります」
玲は、頷いた。
「では、私は、村役場で、待機しています」
「……」
「あなたが、村を、守る間」
「……」
「私は、私の、仕事を、します」
「玲さん……」
「キャルル村長」
「はい」
「あなたは、村を、守る。私は、書類で、村を、支える」
「……」
「それで、いいんです」
玲は、にっこりと、笑った。
市役所時代の、公務員スマイルでは、ない。
本気の、笑顔だった。
「無理に、離れる必要は、ありません」
「……でも」
「あなたが、私を、奪おうとするなら」
「……」
「その時は、私が、書類で、止めます」
「……え?」
「労使契約書でも、なんでも、書きます」
「……ふふ」
キャルルが、思わず、笑った。
「玲さん、それ、本気ですか」
「本気です」
「ふふ……」
「市役所時代、私は、いかなる、無理難題でも、書類で、対応してきました」
「……」
「満月の、月兎族でも」
「……」
「書類で、対応します」
キャルルは、しばらく、玲を、見つめた。
それから──。
ふっ、と、笑った。
いつもの、温かい笑顔。
そして、その瞳から、紅い色が、すっ、と、引いていった。
「……玲さん」
「はい」
「あなた、本当に、変な人ですね」
「よく、言われます」
「でも──」
キャルルは、優しく、微笑んだ。
「ありがとうございます」
「……」
「わたくしの、本能を、否定しないで、くれて」
「……」
「わたくしを、ちゃんと、見て、くれて」
玲は、無言で、頷いた。
月明かりが、二人を、優しく、照らしていた。
月見大根の、銀色の畑の、真ん中で。
見られなかった者、同士が。
お互いを、見ていた。
しばらくして、二人は、村へと、戻り始めた。
あぜ道を、並んで、歩く。
その途中、キャルルが、ふと、立ち止まった。
「玲さん」
「はい」
「最後に、一つだけ」
「はい」
「明日の、満月の夜」
「……」
「もし──」
キャルルは、玲の方を、向いた。
その瞳に、もう、紅い色は、なかった。
ただ、純粋な、想いだけが、そこに、あった。
「もし、わたくしが、村を、守れなかったら」
「……」
「もし、わたくしの、力が、通じない、敵が、来たら」
「……」
「その時は、玲さんが、村を、守って、ください」
玲は、しばらく、無言だった。
「キャルル村長」
「はい」
「月兎族の、満月の力は、最強、なのでは、ないですか」
「……普通は、そうです」
「では、なぜ?」
「……ただの、予感、です」
キャルルは、月を、見上げた。
「最近、村のはずれで、変な、虫が、目撃されています」
「……死蟲機、ですね」
「ええ。ネギオさんが、言っていました。『作られたもの』だ、と」
「……」
「わたくしの、本能が、告げているんです」
「……」
「何か、大きなものが、近づいている、と」
玲は、無言で、キャルルを、見た。
彼女の、月兎族の本能が、何かを、感じ取っていた。
市役所時代の勘が、ささやいた。
彼女の予感は、信じた方が、いい。
「分かりました」
玲は、頷いた。
「もし、あなたの、力が、通じない、敵が、来たら」
「はい」
「私が、書類で、村を、守ります」
「……ふふ」
「戦闘力は、ゼロですが」
「……」
「書類とハンコなら、誰にも、負けません」
キャルルは、ふっ、と、笑った。
「玲さんが、いれば」
「はい」
「村は、大丈夫ですね」
「ええ」
二人は、もう一度、月を、見上げた。
ほぼ満月の、月が、優しく、輝いていた。
明日の夜が、満月。
その夜に、何が、起きるのか。
二人は、まだ、知らなかった。
ただ──。
二人とも、覚悟は、できていた。
「では、戻りましょう、キャルル村長」
「はい」
玲と、キャルルは、並んで、村へと、歩いた。
その背中を、月が、優しく、照らしていた。
その夜。
ポポロ村の、宿舎で、玲は、ベッドに、横になっていた。
窓の外には、ほぼ満月の、月が、輝いていた。
あと、一日。
明日の夜が、満月。
玲は、目を、閉じた。
脳裏に、キャルルの、言葉が、浮かんだ。
「玲さんは、わたくしの、書類を、見てくれました」
「わたくしを、ちゃんと、見て、くれて」
市役所時代、玲は、誰にも、見られなかった。
でも、ここでは──。
キャルルが、玲を、見ていた。
そして、玲も、キャルルを、見ていた。
二人は、似た者、同士、だった。
誰にも、見られなかった、者同士。
「……不思議な、ものだな」
玲は、ぽつりと、つぶやいた。
市役所で、過労死した時。
玲は、思っていた。
自分の人生は、誰にも、見られずに、終わった、と。
でも──。
異世界に、来て。
ポポロ村に、来て。
初めて、誰かに、見られた。
初めて、誰かに、必要と、された。
ここが、自分の、居場所、なのかもしれない。
玲は、まだ、それを、確信は、していなかった。
でも──。
その予感は、確実に、芽生え始めていた。
窓の外で、月が、輝いていた。
あと、一日で、満月。
その満月の夜が──。
玲の、覚悟を、試す夜に、なることを。
そして、その夜、玲が──。
「守られる者」から「守る者」へと、変わることを。
今は、まだ、誰も、知らなかった。
月が、静かに、ポポロ村を、照らしていた。
第10話・了
【第1部・第一の山、ここに完結】
【次回予告】
満月の夜。
その日、ポポロ村は、いつもより、静かだった。
キャルルは、朝から、姿を、見せなかった。
「村長は、満月の夜は、自宅で、過ごされるんです」
ネギオが、玲に、説明する。
しかし──。
その夜。
突然、ポポロ村に、強力な、盗賊団が、襲来する。
数、約五十名。
リーダーは、A級冒険者崩れの、元・傭兵。
「ポポロ村が、最近、儲かっているらしいな!」
絶望的な、戦力差。
ユートと、クレアは、まだ、戻っていない。
村は、丸裸だった。
しかし、その時──。
満月の、光の中で。
ある建物の、窓が、ぱっ、と、開く。
ダブルトンファーを、構えた、キャルル。
ただし、その瞳は──。
完全に、紅く、染まっていた。
「ふふ……ふふふっ……♡」
「わたくしの、村に……近づくな♡」
月兎族の、本能が、解放される。
そして、その夜、玲は、ようやく、知ることになる。
「満月の日だけ、少々、激しい」、という、依頼書の、本当の意味を。




