第4話 点呼
第4話「点呼」
朝は、慈悲もなく、ただ灰色の静寂を引き連れてやってきた。
廃墟の割れた窓から差し込む斜光は、埃の舞う冷たい空気を可視化し、昨日流された血の赤を、夜の間よりも鮮明に暴き出している。
天城盤は一度も瞼を閉じなかった。一晩中、暗闇の奥に広がる「見えない盤面」を凝視し、零時に告げられた「役職変更」という絶望的なノイズを、どう処理すべきか演算し続けていたからだ。
傍らでは、澪が膝を抱えたまま、浅く、苦しげな眠りに落ちている。泥と硝煙に汚れた寝顔は、昨日までバレーボールを追いかけていた一介の女子高生のそれだった。
だが、今の彼女の首輪には、盤の命を刈り取るための「牙」が仕込まれている。
その危うい平穏を、無機質な電子音が切り裂いた。
『おはようございます、適性試験受験者の諸君。これより第一夜終了時点の――【盤面整理】を行います』
スピーカーから響く、感情を去勢された女の声。
澪がびくりと肩を跳ねさせ、目を見開いた。その瞳には、一瞬で昨日の地獄と、そして今、自分たちに課せられた「役割」への恐怖が蘇る。
『A組……。岩瀬拓也、除駒。川上美咲、除駒。三浦健人、除駒。佐伯りな、除駒……』
名前が呼ばれるたびに、澪の呼吸が目に見えて浅くなっていく。
岩瀬。昨日、盤が「一・二秒の囮」として走らせた男。
佐伯。彼女と中学から一緒だった親友。
かつて教室で笑い合っていた名前が、次々と「役割を終えた木片」として処理されていく。
『以上、七枚。A組、現存兵数、三十枚。……続いて、役職変動の確定通知。――天城盤。役割、王将。神楽坂澪。役割、暗殺者。……なお、王将を仕留めた駒には、全ルール免除による「即時卒業」の権利が与えられる』
放送が切れた後、廃墟には不気味なほどの静寂が戻った。
「……七人、消えた」
澪の声は、枯れた木の葉のように乾いていた。膝の上に置かれた彼女の拳は、爪が食い込み、血が滲むほどに握り締められている。
「佐伯も……あいつ、来月誕生日で、一緒に原宿行くって約束してたのに……。なんで、なんでこんな……駒とか、暗殺者とか……!」
「数えるな。その数字は、もうお前の『重荷』にしかならない」
「数えてない! 名前が……顔が、消えないのよ! ……それに、盤、あんた……」
澪の視線が、盤の首元にある「王」の刻印へと向けられる。
盤は、彼女の前にゆっくりと膝をついた。視線の高さを合わせ、その絶望と、彼女の奥底で疼いているであろう「生存本能」を真っ向から受け止める。
「岩瀬を走らせたのは、俺だ」
盤の声は、低く、重い。
「一億通りの演算の果てに、俺は彼の死を選択した。その結果、彼は除駒され、俺と君は生きている。……この『差分』は、俺という指し手が作った罪だ。それを否定するつもりはない。そして今、システムはお前に、その罪人を殺して『卒業』しろと言っている」
「……できるわけ、ないでしょ」
「いや、できる。極限状態の人間は、脳が生存を優先して倫理を切り捨てる。……俺がそうであるようにな」
盤は立ち上がり、外を向いた。
「だが、俺はまだ投了するつもりはない。……行くぞ、澪。まずは北西の給水塔を目指す」
「水……? でも、放送でエリアがバレたわ。他の奴らが、あんたを狙って……」
「逆だ。王将が動けば、盤面全体が歪む。その歪みを利用して、逆に包囲網を食い破る。……将棋で言う『入玉』だ。敵陣深くに潜り込み、このゲームのルールそのものを詰ませる」
盤の合理的な、しかし狂気を孕んだ分析に、澪は一度だけ深呼吸をし、乱暴に涙を拭った。
「……わかったわよ。私は、あんたを殺さない。……でも、あんたがもし、また誰かを『囮』にしようとしたら……その時は、私が私の意志で、あんたを刺す」
「理解が早くて助かる。都度交渉は継続だ」
盤が銃を点検しようとしたその時、澪の手が彼の頬に伸びた。
盤の身体が、微かに強張る。「暗殺者」の手が、急所である首筋をかすめたからだ。
「ちょっと、じっとしてて」
支給品のガーゼが、盤の頬を擦る。昨晩、彼が彼女にしたのと同じ、ぎこちない手つきで。
「……血、ついてるわよ。昨日、あいつを殴ったときのでしょ。大きなこと言う割に、自分の汚れには無頓着なんだから。……王様なら、もう少し綺麗にしてなさいよ」
ガーゼ越しに伝わる、澪の指の熱。
盤は一瞬、思考が停止した。棋譜も、戦術も、確率論も、その一瞬の「体温」の前に霧散する。
「……確認を、怠った。致命的な悪手だ」
「お互い様でしょ」
澪は少しだけ、今にも崩れそうな、それでいて凛とした笑みを浮かべた。
二人は廃墟を後にし、灰色の空の下へと踏み出す。
どこか遠くで、また別のクラスの「除駒」を告げる銃声が、風に乗って聞こえてきた。
盤は一歩、また一歩と、砂を噛むように地面を踏みしめる。
(七人。……忘れない。いや、忘れられない)
彼は思考の底で、その数字を深く、深く刻み込んだ。
それは罪の記録であり、同時に、この狂った盤上を制圧するための、執念の種火でもあった。
「行くぞ、澪。次は、誰も死なせない」
「……一億通りの演算の結果?」
「いや――俺の『我儘』だ。たとえ全手、悪手と指弾されようとも」
王将が、前へと進む。
最弱の歩を、最強の「と金」へと成らせるために。
その背中には、昨日よりも重く、そして確かな「人間の体温」と、国家への反逆の意志が宿っていた。




