第34話 それぞれの温度
第34話「それぞれの温度」
グリフィンの野営地から吹いてくる風には、硝煙と、焦げたゴムの臭いが混じっていた。
南区画。崩落した廃倉庫の隙間に潜むワイルドセブンの面々を、湿った闇が包み込んでいる。
1900時を回った頃、須藤の足の処置がようやく終わった。及川が医療ホッチキスを打ち込み、肉を塞ぐ。須藤は噛み締めた奥歯の隙間から、一度も悲鳴を漏らさなかった。
「終わったぞ」
「……ああ。……まだ、指は動く」
短く交わされる言葉は、生還の喜びというより、単なる「部品の機能点検」に近い。
木村は建物の隅、わずかな月光の下で地図を睨んでいた。脳裏では、今日の戦闘が無限にリプレイされている。グリフィンの機銃掃射。コンクリートを削り取る弾丸。個の暴力と、冷徹な連携。
(……負けていた)
認めたくない事実が、胸の奥で鉛のように重い。今回は浜田の罠が辛うじて首の皮一枚を繋いだに過ぎない。木村の手が、無意識にポケットの中にある、裏蓋の歪んだ古い銀時計に触れた。止まった針。中沢光から受け取った、血の呪い。
明日、グリフィンは必ず「修正」してくる。ならば、自分たちは脱皮しなければならない。人間であることを、完全に捨て去ってでも。
「……木村さん」
不意に呼ばれ、木村は顔を上げた。美琴が、崩れた壁の向こう、剥き出しの夜空の下に立っていた。彼女は、摺鉢山の方向を、あの少年の熱を感じた場所を見つめていた。
今日、盤の封じ込めは失敗した。それどころか、引き金を引く指が一瞬、凍りついた。宮本という男に言われた言葉が、呪いのように耳の奥で鳴っている。『変な奴だな、あんた』
「ここにいたか。……任務の報告なら、中で聞く」
背後から響く木村の声。美琴は視線を落とした。木村は彼女の隣に並び、黙って同じ空を見上げた。
「今日、できなかった。……盤を、止められませんでした。私の迷いが、火線を歪めた」
「状況が変わっただけだ。気にするな」
「木村さんは、怖くなかったんですか。……あの、ミニミに追い詰められた時」
「失うものがないからな。恐怖の付け入る隙がない」
聞き慣れた、突き放すような答え。だが今日の美琴にはそれが、自分自身に言い聞かせるための「脆弱な盾」のように見えた。
「去年」美琴の声が、わずかに震えた。「最後に一人残った時。……本当に、何も感じなかったんですか?」
木村の指が、ポケットの中で銀時計の裏蓋を強く食い込ませる。
「……心臓の鼓動が速くなり、指先が凍りつく感覚はあった。だが、それをどう呼べばいいのかは、今もわからない」
「それを、世間では『恐怖』と呼ぶんです、木村さん」
木村は眉間に皺を寄せ、美琴を射抜くように見た。彼女は逸らさなかった。泥の中で誰かの足元ばかりを見ていた少女は、今、死神と恐れられる男の虚無を真っ向から射抜いている。
「そうか。……なら、俺は怖かったのかもしれないな」
木村の唇から、薄皮一枚剥がれたような本音がこぼれ落ちた。美琴はその隙間に、一歩踏み込む。
「……中沢光さんのこと。須藤さんから聞きました」
木村の体温が、一瞬で氷点下まで下がった。
「聞いてどうする。……死人の記録に意味はない」
「覚えていたいんです。あなたを形作っている、その欠落の理由を」
「……小学校から、一緒だった」木村の声は、ひどく掠れていた。「最期、あいつは泣きながら『許してくれ』と言った。俺の手にはあいつの血がついていた。……俺は、何も言えなかった。言葉が喉に張り付いて、ただ、あいつが動かなくなるのを見ていた。……あの日から、俺の時間は進んでいない」
「それは、『後悔』です」
「後悔……。俺が、そんな人間らしいものを抱えていると?」
「抱えています。私にはわかります。あなたが、私を道具ではなく、一人の人間として信じてくれた時から」
美琴の瞳に、宿命のような強い光が宿る。「木村さん。光さんに言えなかった言葉……明日、生き残って、自分に言ってあげてください。それは、あなたの呪いを解くために、あなた自身が言わなきゃいけないことだから」
木村はしばらく黙り込んでいた。思考が優先される男の脳内に、説明のつかない熱が広がっていく。「……お前は、変な奴だな」
その言葉に、美琴の口元が、今度こそ、ほんのわずかに綻んだ。「……嫌ですか?」
「……。戻るぞ。飯だ」
木村は背を向け、早歩きで建物の中へ消えた。その歩調が、いつもより僅かに乱れているのを、美琴は見逃さなかった。
同じ頃、摺鉢山の頂。
ボロボロに擦り切れた地図を、一本の懐中電灯が照らし出していた。
「ここが、ワイルドセブンとグリフィンの合流点になる」
盤が、血のシミの残る北端の廃工場を指差す。「分断し、個別に叩く。これ以外に、この街が生き残る道はない。……父さんと、決着をつける」
「無茶ね」澪が呟く。「金山の装置も、持つかどうか。……あんた、それでもあの隊長と話すつもり?」
「ああ。……俺たちの『歴史』は、ここで終わらせちゃいけないんだ」
「……わかったわよ。あんたの直感に、私の命を預けるわ」
澪は少し照れたように笑い、電池の切れかけたライトを地図に押し当てた。
一瞬、光が強く弾け、そして。
プツン、と闇が落ちた。完全な暗黒の中、二人の荒い呼吸音だけが、嵐の前の静けさを告げていた。
遠く、南の空から。
明日を焼き尽くす、輸送ヘリの低い重低音が響き始めた。
0800時まで、あと十四時間。




