第22話 塹壕の外交
国際からくり戦将棋法
第3条(敗北国の義務)
敗北国は、勝者国に対して絶対服従を誓わなければならない。
具体的な帰結は以下の通り(一切の異議申し立て不可):
主権の完全喪失
植民地化(経済・軍事・外交の完全支配)
賠償・資源・領土の割譲
敗北国国民の一部を「戦棋駒」として提供する義務
勝者国は敗北国を完全な植民地として扱う権利を有する。
第22話「塹壕の外交」
摺鉢山の縁、掘り返されたばかりの湿った土の匂い。
そこには今、国家が想定した「殺戮のアルゴリズム」を根底から覆す、不条理な静寂が横たわっていた。
立石美琴は、泥に汚れた塹壕の縁に腰を預けたまま、正面に座る宮本哲也の瞳を凝視していた。
背後では、田中と野口が銃のセーフティを外したまま、木村太一への忠誠と美琴への信頼の狭間で、指先を青白く震わせている。塹壕の中には、弓を引き絞る伊藤と、鉄パイプを杖のように握る橋本。
一歩、誰かが瓦礫を踏み鳴らせば、この聖域は瞬時に肉片の散らばる屠殺場へと変わる。
「……条件を、再確認させて。立石さん」
宮本の声は、裂けた唇から漏れる痛みを堪えるように低かった。
「私たちは摺鉢山を降りない。……その代わり、あなたたちは私たちを撃たない。これは、木村太一の意志なの? それとも……あんたの迷い?」
「木村は、効率を求めています。……そして私は、もったいないと思った。一晩でここまで大地を削り取ったあなたたちの『執念』を、単なるデータとして消去するのは、私の美学に反する」
美琴の指先は、ライフルのグリップから離れていた。それは降伏ではなく、相手の出方を見極めた上での、プロフェッショナルな「挑発」だった。
その時。見張り台の瓦礫から、沼田が剥き出しの声を上げた。
「――来る。東から六人。……殺気が重い」
空気が凍りついた。田中が反射的に銃を構え、美琴もまた弾かれたように立ち上がる。
廃墟を縫って現れたのは、泥にまみれ、死神のような虚無を瞳に宿した一軍だった。
先頭は、天城盤。
その後ろに澪、そして震える足で必死に追いつこうとする種田と科学部の面々。
盤は、摺鉢山の縁でB組の精鋭と級友たちが「座り込んでいる」異様な光景を捉えた瞬間、脳内のグリッドがエラーを吐き出すのを感じた。
(交戦していない?……B組が三名、A組を包囲せず、背を向けて座っているだと?)
盤の銃口が、美琴の眉間を最短距離で射抜く。美琴は動かなかった。ただ、吸い込まれるような黒い瞳で、盤という「異物」を迎え入れた。
「……待って、盤くん! 撃たないで、話し合ってるの!」
塹壕から身を乗り出した関口の声が、破裂寸前の静寂に楔を打ち込んだ。盤は銃を下げず、美琴との距離を五メートルまで詰めた。
「……立石美琴。木村太一の右腕か」
「天城盤。……あいつが、初めて『自分に近い』と評した男。……そして、自分にはない『何か』を持っていると危惧していた男」
二人の視線が交差した瞬間、盤は気づいた。彼女の瞳の奥にあるのは、木村のような絶対的な虚無ではない。それは、自分の胸ポケットに眠る心中した二人の遺言と同じ、割り切れない人間性の残滓。
「ここで何をしていた」
「外交を。……非効率な虐殺より、効率的な話し合いの方が、この局面では勝率が高い。……そう判断しただけよ」
盤は一瞬、思考を止めた。それは、数分前に自分が澪に対して用意していた、論理的な正解と完全に一致していた。
「……奇遇だな。俺も、全く同じ結論を用意してここに来た。……『悪手』を共有しに来たんだ」
盤はゆっくりと、銃口を地面へと向けた。
その光景は、画面越しに惨劇を期待していた観衆を困惑の渦に突き落とした。スマホの冷たい光の中で、視聴者の「欲望」が毒々しく渦巻く。だが、摺鉢山の風は、そんな雑音を嘲笑うように強く吹き抜けた。
「合意を継続する。……立石、お前の『独断』に、俺も乗ることにした。……種田」
盤の目配せを受け、種田は震える足で前に出た。彼は塹壕の中の宮本たちを見つめ、涙で滲んだ声で、けれどはっきりとその名を呼んだ。
「……宮本くん。伊藤さん。沼田くん。古賀さん。……よかった。みんな、生きててくれたんだね。……消しゴム、まだ返してない子がいるんだ。だから、死なないで」
その瞬間、鋼鉄の緊張感に支配されていた戦場に、初めて生温かい「体温」が流れ込んだ。
美琴は、その光景を眩しそうに見つめ、自分の中にあった「銃以外の救い」を、初めて認めた。
「天城盤。……あなたは、木村に似ているけれど。……決定的に、何かが欠けていない。……彼は、名前を呼ぶことを、忘れてしまった人だから」
午前一三時三〇分。最弱の王を伴った八人と、心を変えた三人の精鋭。
国家という指し手が想定した必然を拒絶し、彼らはこの廃墟の片隅で、人類史上で最も不格好な「休戦協定」を結ぼうとしていた。
だが、その様子を――ドラグノフの冷たい光学レンズ越しに、木村太一は静かに見つめていた。
「……美琴。お前も、鏡の中の自分を撃てなかったか」
死神の指が、引き金を、優しく撫でた。




