第八話 ー 南観測所の空白
灰鐘峠へ上がる道は、朝が進んだら霧より先に石の色を見せた。
南観測所は、峠の途中の張り出した岩場に建っていた。
円塔がひとつ、低い棟がひとつ。窓は細く、壁は厚い。星を見るための建物というより、外から見られないための建物に近かった。
「観測所、というより、倉庫みたいですね」
「見るのは星だけではない」
ライナルトは足を止めずに言った。
「王都の観測所は、潮位と風と、術路も見る」
「術路」
「魔力の流れだ。乱れると、運ぶ物を変える」
人が通る道だけではなく、術が通る道も見ていた。だから運ばれた本の記録が残るし、消された記録もある。
観測所の前庭には草が伸びていたが、門の片側だけが倒れていた。古く壊れたというより、一度こじ開けて、そのまま戻されていない形だった。
私は門柱の根元を見た。土の上に、新しい靴底の削れ跡が二つ残っている。
「昨夜の人ですか」
「ああ、一人とは限らないが」
ライナルトが扉に手をかける。
押したら、鍵は掛かっていなかった。
正面の机には、真鍮の円盤と、目盛りの刻まれた古い測器が伏せられていた。壁際には棚が並び、帳面と木箱が半分ずつ崩れたまま残っている。床には紙片が落ちていたが、どれも役に立たない端ばかりだった。
誰かが探したあとだ、とすぐにわかった。
乱暴に見えて、捨てるものだけを捨てている。
「何を探したんでしょう」
「まだ分からないが、目当てがあるような荒らし方だ」
ライナルトは短く答えて、奥の棚へ向かった。
私は中央の閲覧台に置かれた帳面へ手を伸ばした。
表紙は乾いているのに、背だけが少し新しい。革の色ではなく、糊の締まり方が違った。誰かが一度ひらいて、また閉じた跡だ。
帳面を覗くと、中は観測記録だった。日付、風向、霧の濃さ、術路の揺れ。文字は事務的で、書いた人の癖がほとんどない。ところが途中、数葉だけ綴じの開き方が違っていた。
「ライナルトさん、ここ、抜かれています」
「切られたんじゃないのか」
「いいえ、切ったなら紙粉が残ります。でもこれは、糸を先に緩めて抜いています」
私は帳面の中央を指で押さえた。
綴じ穴の端に、わずかな擦れが残っている。細い針か骨べらで、糸を浮かせてから抜いた跡だった。帳面そのものを壊さず、特定の頁だけを失くしたい人の手つきだ。
「雑には見えるのに、抜き方は慣れてる」
「帳面に触り慣れた人です」
「書庫か、学院か」
「……たぶん」
その答えを口にしたら、胸の奥で昨夜の印がまた冷えた。
失われた頁の前後だけを読む。
日付は十八年前の冬だった。術路の揺れが連日記され、その三日後の欄だけが抜けている。さらに次の頁には、記録の末尾に短く一行だけ残っていた。
搬送、予定どおり。夜半前。
それだけだった。
「本のことですか」
「たぶんな」
ライナルトは机の脇へ移動して、文字より先に、帳面の下を見た。
「こっちだ」
閲覧台の引き出しは空だった。
でも底板の奥に、わずかに段差がある。私はしゃがみ込み、指先で縁をなぞった。板の厚みが途中で変わっている。飾りではなく、後から継いだ厚みだった。
「隠し底です」
「開けられるか」
「試します」
私は鞄から目打ちを出し、木の継ぎ目ではなく、革張りの折り返しへ先を入れた。革は古いが、一箇所だけ油気が少ない。最近触られた場所だ。そこを押すと、底板がひとつ鳴って、少し浮いた。
ライナルトが板を持ち上げる。
中に入っていたのは、薄い封袋が二つと、真鍮の札が一枚。
封袋のひとつは空で、もうひとつは封蝋が剥がれていた。真鍮札には番号が打たれている。
七
それを見た瞬間、私は喉の奥が狭くなった。
第七封架。昨夜の紙片と同じ数字だった。
ライナルトが開封済みの袋を逆さにすると、小さく折られた紙が一枚落ちた。
帳簿の控えより薄い。けれど紙質は良かった。保存用だ。
私は広げて読んだ。
第七封架 搬出確認
対象 一冊
封印状態 無記載
搬送補助 南観測所にて交替
仮保管先 エルザ商会 北庫
そこで言葉が止まった。
エルザ商会。
王都の羊皮紙をライナルトが持ってきた、あの商会の名だった。
「つながったな」
ライナルトの声は低かった。
「……はい」
私は紙の末尾を見た。
署名欄は焼けている。けれど、完全ではない。残った一文字があった。
ヴ
昨夜と同じだった。
今度は、それがただの偶然だと思えなかった。
文字の払いが、学院の事務書類に多い書き方だった。そして私の記憶の奥にも、同じ書き癖で自分の名前を書いた人がいた気がした。
「知ってる字か」
私はすぐにはうなずけなかった。
「似ていますが」
「誰に」
「...わかりません」
本当は心当たりがあるが、口にしたら、その人が現実のほうへ寄ってきてしまいそうだったから、言葉にしたくなかった。
ライナルトはそれ以上追及しなかった。代わりに空の封袋を手に取る。
「これは商会の袋ではない」
「学院ですか」
「いや、宮廷側だ」
袋の折り返しを見せられて、私はやっと気づいた。
紙の折り筋が二重になっている。誰が見たかを悟らせないために作った封だった。
「誰かが、ここで受け渡した」
「そうだ」
「ということは、南観測所はただの中継地ではなく、荷と記録を照合する場所でもあったんだね」
建物の静けさが、少し違って聞こえた。
この場所はただ古いのではなかった。長く捨てられたあとで、捨てられたふりをした場所だった。
そのとき、塔の上で何かが鳴った。
風鈴みたいな軽い音だったのに、観測所の中では不自然なくらい響いた。
私は顔を上げた。ライナルトはもう動いていた。
「上だ」
短く言って、階段へ向かう。
私は紙を封袋へ戻し、あとを追った。
螺旋階段は狭く、壁の内側をぐるぐると削っていた。途中の踊り場には、古い観測板が立てかけてある。どれも壊れているのに、一枚だけ、最近誰かが拭った跡があった。
最上階の扉は半開きだった。
押し開けると、朝の光がそのまま流れ込んできた。
円形の観測室の中央には、大きな測器の台座だけが残っている。
その足元に、黒い布がひっかかっていた。昨夜の男の外套と同じ色だ。けれど人の姿はない。代わりに窓際の石床に、白い粉が線のように散っていた。
私はしゃがみ込んだ。
「紙の粉です」
「焼けてないな」
「はい。削れた粉です。しかも、乾いた紙ではありません。表面に薬剤が入っています」
私は指先で少しだけすり合わせた。
粉は消えず、細く残った。普通の記録紙ではない。強い処理をした紙だ。魔力か湿気か、どちらかに耐えるためのものだった。
窓の外、崖下に細い足場が見えた。
そこから裏手へ降りられる。
「逃げたんですね」
「来てたのは、先行の見張りだ」
「では、本命は」
ライナルトは観測室の奥を見た。
そこには壁一面の星図盤がはめ込まれている。盤面の中央だけ、傷が新しかった。
彼が手をかける。
盤がわずかに回って、内側の空洞がのぞいた。
何かがあった場所だった。
四角い箱か、本か、それくらいの大きさのものを置いていた跡がある。埃の縁だけが残り、中心だけが空いている。
「持ち出されたあとですか」
「ああ」
「いつ」
ライナルトは床の粉を見る。
「今朝だ」
私は息を呑んだ。
私たちが継場に着くより前に、誰かがここへ来て、ここから何かを持ち出していた。
遅かった、と思いかけて、すぐに違うと気づいた。
遅かったのではない。相手も急いでいた。私たちが紙片を見つける前提で動いたみたいに、先へ先へと運んでいる。
「誘われている、でしょうか」
「半分はな」
「半分は?」
「向こうも追われてる」
その答えに、私は顔を上げた。
「追われている?」
「消したい側と、運びたい側が別だ」
国の中に、ひとつではない手がある。
隠したい者。残したい者。利用したい者。
昨夜まで紙片だったものが、今は人の数に増えていた。
ライナルトが空洞の底へ手を入れ、薄い金属片を取り出した。
鍵ではない。栞みたいな細い板だ。端に刻印がある。
北庫・第二列
エルザ商会の倉札だった。
「次、決まりましたね」
私が言うと、ライナルトがこちらを見た。
「ああ」
「王都ですか」
「その前に、北庫だ」
私は観測室の窓から外を見た。
峠の向こうはもう明るく、村のある側だけが薄く霞んでいる。戻ればまだ昼までには着けるのかもしれない。けれど、戻ったところで、この先の綴じ目はもう閉じない気がした。
ライナルトが先に階段へ向かう。
その背を追いかけようとして、私は一度だけ、空洞のあった壁を振り返った。
ここにあったのは、本だったのか。箱だったのか。
白紙本そのものだったのか、それともその記録だったのか。まだわからない。
わからないままなのに、ひとつだけ確かなことがあった。
私たちはもう、消された頁を追っているのではなく、消されなかったもののほうへ近づいている。
階段を下りたら、観測所の中の冷えた空気も少し変わった。
誰かが先に抜いていった頁のあとを、今度は私たちが読みに行く。
外へ出ると、風が高いところから下りてきた。
峠の先へ続く道はまだ細い。けれどその先に、エルザ商会の北庫と、焼け残った署名の「ヴ」と、白紙本の行方がつながっている。
ライナルトが足を止めずに言う。
「行けるか」
「はい」
「急ぐぞ」
私はうなずいて、そのあとに続いた。
南観測所は背後で静かに遠ざかっていく。まるで、ここで起こったことを、次の場所まで誰にも言わないつもりみたいに、何もなかった顔をしていた。




